やあ、まびる
私が生まれたころの記憶を思い出すことができない。
それはつまり、思い出せないだけなのか、あるいはそもそも記憶というものが存在していないのか、そのどちらでもないのか。
でもそんなことは最早どうでもいいのだ。
なぜなら私は。
私の家系は泳ぎは得意ではなく、かといって水浴びが嫌いなわけでもなく、なんだか中途半端な、でも条件が整えばやる気の出る性質を代々受け継いできた。
自分が歩けるようになったこと、物を食べれるようになったこと。
それらは私たちが明確にこうすると思う間もないままに、教えられて育つのだろう。
教えられるというのは、きっかけであり、推進力とは似ているけれども違う。
できるようになるには、己のなかにある何かを目覚めさせていく、それは私自身にしかできないことだった。
住んでいる土地を転々とするのは当たり前だった。
いつもじめじめしたところに生きなければならなかったのは、親がどうしてもそこで暮らせと明確に告げたわけではない。
ただ親の背中を見て、こんな風に泥だらけの地面の上を這いつくばって生きるのを、肯定するよりも先に実践することになっていた。
地鳴りがすれば嬉々として頭をもたげ、全身を使って踊り狂う。
祭りの日はいつだっていきなりだ。
私たちは知っている。地響きはご馳走の合図であることを。
家が踏み潰されようが、体を引きちぎられようが、そんなことは実は大したことはない。
そうやってみんな少しずつたくましく成長していく。
そんなことを考えているのは、引っ越しをすることになったからだ。
最近はお客さんが減ってきたから、もちろんお腹も空いてしまう。
ただじっとして待つしかない。
それもこれも客が増えすぎたからだ。
客たちは鼻をつんざくような異臭を身体から漂わせ、ある者はよだれを垂らし、またある者は軽快にぬかるみを駆け抜けていく。
客たちもまた、引っ越しに次ぐ引っ越しを重ねてきたのだろう。
ただ、人気のある土地というのは如何せん問題がつきものだ。
オーバーツーリズムによって景観が乱されたり、文化的な遺産を貶めるような行為も、それまで顕在化されていなかった問題が露出することになる。
だから法で律する。
増えたなら減らす、減らしたら増やす。
そうして制御する。
私たちの客はと言えば、どこか遠く、手の届かないところへと運ばれていく。
これまでは一緒について行って、途中で飽きたら下車できたのに。
一方通行の列車に揺られて終点へたどり着くような、そんな人生を私たちは歩むことがある。
そうしたいわけじゃないのに、そうすることが初めから決まっている。
客が減れば新たな客もまたやってくる。
そして私は、先祖のやり方を真似て生きている。
父も母も何かにすがって生きるのが得意だった。
誰にも気づかれずに忍び寄り、ぴたっとくっついて離れないでいる。
その姿をこの目で見たわけでもないし、私が生まれる頃にはもう父も母もどこかへ行ってしまっていたんだけれど。
高いところへの憧れがあるようで、父は分厚い毛むくじゃらの湿った臭い泥にまみれた垢だらけの柔らかな壁にしがみつくなり、身体を弓なりにしならせては駆け登っていく。
酸素が薄くなればなるほどに、父の熱気はむしろ上がっていくような、そんなに気負ってどこへ行くのか。
母もまた同じようにして、柔らかな弾力のある場所に触れると、鎌首をもたげて恍惚の表情を浮かべるのだった。
壁にしがみついていると疲れてしまうと思うだろうけど、そんなことばかりではない。
父も母も、元気になるために、やっていることだから。
もしも父が元気になって、そのまま途中の駅で降りて、またじめじめしたところをねぐらにして、その繰り返しで、でも客が間引かれてしまったら、そんなこともできなくなって、新しい壁を探さないといけなくなってしまったわけだ。
私たちが知るよりも早く、世界は流れている。
それは壁の柔らかさを思い出せないくらいに、硬かったり、柔らかくてもなぜか滑り落ちてしまったり、ときにはなぜかとてつもなく不快になるような種類の壁もある。
今私は、地響きとともに目覚める。
雨がポツポツと降ってきた。
頭を落葉の隙間から出してみると、大きな壁がずんずん向かってくる。
具体的に言うならば、私は実際に目の当たりにしているわけではない。
父も母も、祖先はみんなそうだった。
私たちは感じるのだ。
あの壁には夢が詰まっていると、だから踊り狂うのだ。
勝利の美酒に酔いしれる前の武者震いを、誰が止めると言うんだろう。
私は目一杯身体を伸ばして、ベトベトの地面を這って、その巨大な壁へと吸い寄せられていく。
一歩、また一歩と、つるつるした壁面をよじ登りながら、食料の在り処をくまなく探っていく。
難攻不落と思われた壁にも、隙はある。
硬い表面に覆われた幾重にも絡まる層を潜っていくと、柔らかな、そして清潔な部分に到達することができる。
私は躊躇うことなく、その柔らかな面に齧り付く。と同時に体内に蠱惑な液体が流れ込むのを感じる。
私はこの淀んだ喜びを待っていた。
夢中になって貪っていると、壁の隙間が開いてぱっと明るくなった。
シューっと物凄い音がする。
そしてとてつもない暑さに、私は身が焦がれる思いがした。
もしも私が生きていたとしても、その先には帰れない終点だけが横たわっている。
私が壁に取り付いた時点で、すべては収束していた。
死が訪れるのが、早いか、遅いか、ただそれだけだった。
私は客が来ないと生きていけない。
私は土がないと生きていけない。
そのどちらも必要だから。
客が来ても、引っ越し先に土がなければいけない。
土があっても、客が来なければ衰弱してしまう。
なんで生きているんだろう。
意味なんてないのかも知れない。
そうこうしているうちに、身体の端から黒く墨になっていく、チリチリとは音を立てて、飲み込んだばかりの秘薬ごと灰になっていく。
灰になったことろでサイドブレーキを下ろして、再びアクセルを踏む。
「まじできもちわるかった」




