スキルガチャで「聖女」を引いた私は、神殿に能力を奪われて十年後、辺境カフェの片隅で本物の癒しを見つけました
カウンターの木目に染みた珈琲の輪が、十年分の暦になっている。
灰色の羽根亭は、王都から馬車で六日かかる辺境の街道沿いにある小さなカフェだ。石壁に蔦が絡み、看板の文字は半分かすれている。屋根の瓦は三枚ほど欠けていて、雨の日には厨房の隅にバケツを置く。それでも毎朝、近隣の農夫や行商人が数人やってくる。目当ては珈琲と、他愛ない会話だ。この世界では珈琲豆もスキル持ちの農家が育てた高級品が主流だが、うちで出すのは辺境の野生豆を手で焙煎したもの。苦みが強く、香りは素朴だ。でも、それが常連には好まれている。
「リーネ、三番テーブルの爺さん、今日やけに黙ってるよ」
厨房からオルガが声を飛ばした。この店の料理番で、元は王都の調理師ギルドに在籍していたらしい。スキルガチャで引いたのは「味覚強化」のCランク。ギルドの幹部が息子にそのスキルを移植するため、オルガは神殿に連行されかけた。逃げて、ここに流れ着いた。
「わかった」
私は盆を持って三番テーブルに向かった。ゲルツ爺さん。毎朝来る常連で、いつもは天気と畑の話を延々としてくれる。今日は珈琲の湯気を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
「おかわり、淹れましょうか」
「ああ……頼む」
声に力がなかった。私は新しい珈琲を注ぎながら、隣の椅子を少しだけ引いた。座りはしない。ただ、あなたの隣に空間がありますよ、という合図を送っただけだ。
「孫がな」
ゲルツ爺さんは珈琲に口をつけないまま言った。
「来月、成人儀式だ。スキルガチャを引く」
「そうですか」
「怖くてたまらん。ハズレを引いたら、あの子の人生は終わる。この国じゃ、スキルが全てだ」
私は何も言わなかった。ただ、そこにいた。爺さんの震える手を見て、声にならない恐怖を受け止めた。十年前の私を思い出していた。
十五歳の成人儀式で、私はSSRの「聖女」を引いた。
村中が歓声を上げた。翌日には神殿の使者が来て、私は両親の泣き顔を背に王都へ連れていかれた。神殿での三年間、私は毎日、王族や貴族の傷を癒し続けた。寝る間も惜しんで、誰かの痛みを引き受けた。聖女とはそういう存在だった。
十八歳の冬、神殿長が私を地下室に呼んだ。
「リーネ、お前の聖女スキルは、より相応しい者に移す。宰相のお嬢様だ。お前はよくやったが、血筋のない聖女は国の体面に関わる」
禁術「スキル移植」。その存在を私は初めて知った。魔法陣の上に横たわされ、胸の奥から何かが引き剥がされる感覚。声を上げる間もなく、私の中から光が消えた。
目覚めた時、私のステータスには何も表示されなかった。スキル欄は空白。神殿は私に銀貨五枚を握らせ、裏口から追い出した。
それから十年。行く当てもなく街道を歩き、野宿をし、残飯を漁った。スキルのない人間を雇う場所はどこにもなかった。辿り着いたこの辺境の街で、先代の店主が珈琲一杯と引き換えに私を雇ってくれた。「スキルなんか要らん、手が二本あれば皿は運べる」と言った老婆は、三年前に亡くなった。今はオルガとハンナと私の三人で店を切り盛りしている。
スキルなんてなくても、珈琲は淹れられる。人の話は聴ける。誰かの震える声に気づける。そうやって十年を生きてきた。
ゲルツ爺さんは、結局三十分ほどそこに座って、孫の話をした。幼い頃の思い出。初めて畑を手伝ってくれた日のこと。成績が良くて、村の学校で褒められたこと。スキルとは関係のない、ただ孫を愛する祖父の言葉だった。
「ありがとうな、リーネ。聞いてもらったら、少し楽になった」
「いつでもどうぞ」
爺さんが帰った後、カウンターを拭いていると、店の扉が開いた。午後の陽射しが傾き始める時刻で、店内にはオルガとハンナと私しかいなかった。
見慣れない客だった。白いローブを纏った若い女。フードを深く被っているが、裾に金糸の刺繍が見える。神殿の正装だ。この辺境に神殿関係者が来ることは、まずない。隣にいたハンナが一瞬だけ身を固くした。ハンナもまた、元は王都の楽団員だった。「音感増幅」のBランクスキルを貴族に目をつけられ、移植のために神殿に引き渡されそうになり、夜中に逃げてきた。この店では給仕をしながら、時々、客のいない時間にだけ歌を歌う。スキルのない歌声は、それでも十分に美しい。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
私はいつも通りの声で迎えた。女はフードの下から店内を見回し、一番奥のテーブルを選んだ。窓から離れた、暗い席だ。
珈琲を運んだ時、女の手が震えているのが見えた。カップを受け取る指先が白く、爪の根元に紫色の斑点がある。スキル移植の拒絶反応だ。私はそれを知っている。神殿にいた頃、移植に失敗した者たちの末路を何度も見た。
「あの」
女がフードを下ろした。金色の髪が零れ落ちる。顔色は蒼白で、目の下に深い隈があった。
「あなたが、リーネですか。元、聖女の」
店内の空気が凍った。オルガが厨房の奥で皿を握りしめる音が聞こえた。ハンナが私の背後に立つ気配がした。
「ええ。十年前まで、そうでした」
私は静かに答えた。
「私はエリーゼ。宰相の娘です。あなたのスキルを、移植された者です」
やはり、そうか。私は心の中でだけ呟いた。
「助けてください」
エリーゼの目から涙が溢れた。
「移植されたスキルが、私の体を壊しています。神殿の医師は『適合率が低い』と言うだけで、何もしてくれない。父は体面を気にして、私を部屋に閉じ込めようとする。誰も、私の話を聞いてくれない」
ハンナが私の袖を引いた。関わるな、という警告だ。当然だろう。この女は、私からスキルを奪った側の人間だ。
私はエリーゼの目を見た。恐怖と絶望が張りついた、追い詰められた獣の目。十年前の私が、神殿の裏口で見た自分の顔と同じだった。
「珈琲、冷めますよ」
私はそれだけ言って、向かいの椅子に座った。
エリーゼは泣きながら話した。移植直後から体に走る激痛のこと。聖女として癒しを施すたびに、他人の傷が塞がる代わりに自分の寿命が削れる感覚。移植スキルは元の持ち主の魂の形に合わせて作られているから、別の器では常に軋む。神殿はその事実を知りながら、移植を続けている。宰相の娘だろうが農民の子だろうが関係ない。使えなくなったら次の器を探すだけだ。エリーゼの前にも、スキルを奪われた者が何十人もいたこと。その全員が、消息不明であること。
私はただ聴いた。相槌も打たず、意見も挟まず、エリーゼの言葉をひとつも取りこぼさないように。珈琲が冷め、オルガが無言でお代わりを持ってきて、それも冷めた。窓の外が暗くなり始めた。
二時間が過ぎた頃、エリーゼの声は枯れ、涙も止まっていた。テーブルの上で力なく開かれた掌に、紫の斑点が広がっている。
「私を、癒してくださいますか。あなたの聖女の力で」
「その力はもう、私にはありません」
「では、何もできないのですか」
私は首を横に振った。
「あなたは今、二時間話し続けました。その間、体の痛みを忘れていませんでしたか」
エリーゼが目を見開いた。
「聖女のスキルは、傷を魔力で塞ぐものです。でもあなたが本当に必要としているのは、痛みを塞ぐことではない。痛みを受け止めてくれる誰かだ」
私は自分の掌を見た。何のスキルも宿らない、ただの手だ。
「私にできるのは、あなたの話を聴くことだけです。それでよければ、明日もいらしてください。珈琲を淹れて待っています」
エリーゼは長い間、何も言わなかった。それから、冷め切った珈琲を一口だけ飲んで、小さく頷いた。
「明日も、来ます」
扉が閉まった後、オルガが厨房から出てきた。
「あんた、正気?神殿に目をつけられるよ」
「かもね」
「十年かけてやっと手に入れた平穏を捨てるのかい」
私はカウンターのシミを指でなぞった。十年分の暦。ゲルツ爺さんの震える手。ハンナが初めて店に来た日の泣き腫らした目。オルガが失敗作のパンを投げ捨てた夜。
この店に来る人たちは皆、声を奪われた人たちだ。スキルガチャという制度に、神殿という組織に、声を上げる力を削り取られた人たち。私にできたのは、その声を聴くことだけだった。
「オルガ、私はスキルを奪われた日から、ずっと考えていたの。聖女の力がなくなった私に、何が残ったのかって」
「で、答えは出たのかい」
「十年かかったけど、やっと」
私はエリーゼが座っていた席を見た。テーブルの上に涙の跡がある。
「聖女の力は人の傷を癒す。でも、傷を癒すだけでは人は救えない。人を救うのは、その人の声を聴くことだ。スキルなんかなくても、それはできる」
オルガは鼻を鳴らした。けれど、その目は笑っていた。
「明日はパンを多めに焼いておくよ。あの嬢ちゃん、痩せすぎだ」
翌日から、エリーゼは毎日来るようになった。最初は泣いてばかりだったが、三日目にオルガのパンを食べて「おいしい」と言った。五日目にはハンナの鼻歌を聴いて、初めて声を上げて笑った。二週間が過ぎる頃には、紫の斑点はまだ消えなかったが、頬に薄く血の色が差していた。
エリーゼは自分の話だけでなく、私たちの話も聴くようになった。オルガがギルドを追われた経緯。ハンナが楽団を捨てた夜のこと。そして、私が神殿の地下室で光を奪われた日のこと。この店に集まった者たちは皆、同じ仕組みに声を潰された人間だった。
三週間後、エリーゼは奥のテーブルで手紙を書き始めた。王都の記者に宛てた、神殿のスキル移植の実態を告発する手紙だった。実名を記し、自分の体に残る紫の斑点を証拠として添えた。
「怖くないのですか」と私は訊いた。
「怖いです。でも、リーネさんたちが聴いてくれたから、声を出せるようになりました」
その時、店の扉が激しく叩かれた。
ハンナが出ると、外に立っていたのはゲルツ爺さんだった。息を切らして、顔が青い。
「リーネ。孫が……孫がSSRを引いた」
声が震えていた。喜びではなかった。
「成人儀式の会場で引いたその場で、神殿の使者が飛んできた。今夜のうちに連行すると言っている。孫は十五だ。拒否したら、村全体がスキル移植の対象になると脅された」
店内が静まり返った。オルガが皿を置く音がした。ハンナが自分の腕をきつく抱きしめた。
私はゲルツ爺さんの目を見た。朝と同じ目だ。ただ、今は恐怖ではなく、絶望になっていた。
「リーネ」
エリーゼが立ち上がっていた。テーブルの上の手紙を、両手で持っている。手の紫の斑点が、蝋燭の光に透けて見えた。
「この手紙、今夜届けられますか。王都の記者の名前と住所なら、父の書斎から覚えてきました。馬で二時間です」
「あなたの体が——」
「間に合わなければ意味がない」
エリーゼの声は静かだった。震えていなかった。三週間前、この席で泣き崩れた娘と同じ人間とは思えない声だった。
「私が連れていきます」
ハンナが言った。全員が振り返った。
「楽団を捨てた夜、馬で逃げました。道は覚えています」
オルガが厨房に消え、すぐに戻ってきた。布に包んだパンと、小瓶を差し出す。
「道中食え。あと、これは痛み止めだ。神殿から盗んだ薬草で作った。効くかどうかは知らん」
エリーゼはパンを受け取って、小瓶を白いローブの袖に仕舞った。それからゲルツ爺さんのほうを向いた。
「孫御さんのお名前は」
「……クレイ。クレイといいます」
「クレイさんの話も、記者に伝えます。一人の名前が記録に残れば、それは証拠になります」
爺さんは何も言えなかった。ただ頷いた。
扉が閉まった後、店内に残ったのはオルガと私だけだった。
「行かせてよかったのかい」とオルガが言った。
「止める言葉が見つからなかった」
私はカウンターのシミを見つめた。朝にゲルツ爺さんが震えながら話していた席。三週間前にエリーゼが泣きながら話した席。同じ店の、同じ空気の中で、今夜、声が動き始めた。
この国の仕組みは変わらないかもしれない。神殿はまだそこにある。スキルガチャはまだ回り続ける。それでも、声は出た。話が聴かれた。記録に名前が残る。
灰色の羽根亭は、今夜も静かだ。
でも、ここで生まれた声は、今、馬に乗って王都へ向かっている。
スキルガチャで人生が決まるこの世界で、私は何も引けなかった。正確には、引いたものを奪われた。でも、十年かけて自分の手で掴んだものがある。
誰かの声に耳を澄ませること。その声が、いつかどこかで誰かを動かすこと。
それだけは、誰にも奪えない。




