事故物件ファイル02:狂鳥が群がり飛ぶ邸宅 姑の不審死と出来たお嫁さん そして、老いらくの恋 福岡N公園
◆1
桜が散り切った、四月下旬ーー。
今、私、神原沙月と、上司の竜胆光太郎社長は、事故物件を前にして、仁王立ちをしていた。
今回の事故物件は、福岡市中央区にあって、背後に海を控えた坂の上にあった。
一九七二年築ーー建ってから五十年以上を経た、四方を壁に囲まれた物件だ。
近隣の住宅を見下ろすような高立地にある。
住宅街の通りから石段を昇ると、古風ながら、ドッシリとした門が待ち構えていた。
まだ門内に足を踏み入れていないが、見るからに豪華な邸宅がありそうな風格だ。
朝の七時は、通勤時間としては、結構早い時刻である。
それでも、私たちは三十分ほども前にこの場所に到着し、ぐるりと物件を取り囲む庭壁と土手の周りを歩いてきていた。
周囲に広がる住宅街のどの建物よりも広大な敷地を有していることがわかっている。
これほどの広い物件が安値で手に入れば、万々歳だ。
ところが、開口一番、私から出て来たセリフは、力の無い疑問形だった。
「言われた通りに、朝早くから、こんな服装で現地入りしましたけど、なんですか、これ?」
私はセミロングの髪を後ろで束ね、立体マスクに防護メガネを装着し、青い作業着を着込んでいる。
隣に並び立つ竜胆社長も、私と同様、作業着スタイルだ。
おかげで、せっかくの彫りの深い、端正な顔立ちが隠れてしまって、勿体無い気がする。おまけに背丈が高く、筋肉質の身体付きなので、目の前に立たれると、ちょっと恐怖を感じるほどだ。
しかし、そうした厳つい雰囲気に似合わないほど、呑気な口調で、社長は語り始めた。
「今日の僕たちは、
『特殊清掃員として、残置物の事前調査にやって来た』
っていう設定なんだから、仕方ない。
ちなみに、ホンモノの清掃業者から了承をもらっているから、問題ないよ。
すっかり綺麗になった後だと、内見しても面白くないでしょ?」
たしかに特殊清掃業者が入って残置物が綺麗さっぱり撤去された後では、このお屋敷がどうして事故物件になったのかを、独自に探ることはできないだろう。
それにしても、竜胆光太郎社長はいろいろとコネが多いヒトだ。
福岡が地元ではないのに、すっかり地元の業者に馴染んでいる。
「特殊清掃の会社に臨時雇いされた」という体裁で、購入前の事故物件に潜入することができるなんて。
私は壁の屋根越しに、鬱蒼としたモミの木と、邸宅の二階部分を遥かに見晴るかして、問いかけた。
「立派なお屋敷に見えますがーー今回は、どういう事故があったんですか?」
「住人だった八十歳のおばあさんーー柳原幸子さんが、心不全で亡くなった。
発見したのは、義理の娘ーー息子さんのお嫁さんである樹里さん四十八歳だ。
それ以上は、聞いてない」
そう語ってから胸を張り、社長は眼前の門構えに向かって指をさす。
「ーーさあ行こう、沙月さん!
九時になったら、本職の特殊清掃業者が入っちゃうから。
その前、今から二時間のうちに、内見を済ませたい」
「わかりました」
門を開けようとすると、両脇から、甲高い、けたたましい騒音が鳴り響いてきた。
ギャアギャア!
キュル、キュル!
ビャー!
朝っぱらから、甲高い、耳障りな鳴き声がとどろく。
灰色の身体をした、ずんぐりした鳥が群れを成して、いっせいに鳴き出す。
何十羽もの鳥たちが、門や壁の上に集まっていた。
私は耳を塞ぐ。
「椋鳥ですか。
でも、不思議ですね。
なんで、この家にばかり……」
濃いグレーの鳥が無数に集まると、薄気味悪い。
今まで住宅街を歩いてきたが、これほど鳥が群れて停まっている箇所はなかった。
とはいえ、物件のすぐ背後に、N公園の森林が広がっている。
近在の住宅の中では、最も公園の緑に接した家だから、その意味では不思議ではないのかもしれない。
騒音としか言えない、鳥の鳴き声を耳にしながら、竜胆社長は前へ進んで門を開ける。
門を開けると、その向こうには、結構広い庭があった。
石で舗装された道の左右には、常緑針葉樹のモミの木が何本も立っていた。
が、雑草が所構わずボウボウと生えていて、せっかくの景観が台無しにされている。
道の右側には使われなくなった蔵が、左側には水を抜かれた人工池があった。
何年もの間、人の手が入っていないことがわかる。
それに、モミの木が群生する辺りが、キラキラと、やたらとまぶしい。
無数のCDや磁石が、庭木から吊るされていた。
これらが光に反射していたのだ。
竜胆社長はわざわざ道から逸れてモミの木に近づき、CDが付けられた紐を手で触れる。
「コイツは鳥除けだな。
キラキラ光るCDや磁石を吊るして、鳩や猫を近寄せないっていう話は良く聞く。
だけど、椋鳥にも効くのかな」
鬱蒼とするモミの樹々に目を遣ると、樹洞には、枯草や小枝で作られた、椋鳥の巣が幾つも見られた。
どうやら、CDや磁石は、椋鳥の撃退には役立っていないようだ。
溜息混じりに、そのまま門から延びる庭道を進むと、石畳が広がる玄関に到着する。
玄関扉は樫の木で造られた、重厚なものだった。
赤や青、黄色に彩られたステンドグラスが正面に据えられた、洒落たデザインだ。
さっそく清掃業者から借り受けた鍵を回して、屋敷の中へと足を踏み入れた。
するとーー。
「うわあ、凄いですね!」
私は思わず嘆声をあげた。
玄関から入ると、すぐに二十五帖もある、広いLDKが広がっていた。
廊下を省いた、開かれた設計だった。
しかも、雑貨店を兼ねたカフェのような、小洒落た内装だ。
中央にはダイニングテーブルが置かれ、天井の梁からはシャンデリアが吊るされている。
壁の上方は白く、下方の腰壁には飴色の板が重ねられている。
食器棚には、絵入りの飾り皿などが立て掛けられていた。
「これほど綺麗だとは……。
ほとんどリフォームの必要、ありませんよ」
そう呟いて、私は、カウンターキッチンに目を移す。
キッチンには収納棚があり、ガスコンロがある側面の壁には緑色のタイルが貼られてあって、幾つもの調理道具がぶら下げられていた。
竜胆社長はすっかり上機嫌になって、
「これは素晴らしい。
椋鳥どもを駆除するだけで、申し分ない物件になるぞ。
手早く内見も終わりそうだ」
と言って、軽やかな足取りで、LDKからさらに奥へと進んで行く。
割と小さめの扉を開けてLDKから外へ出ると、狭いホールがあり、正面にトイレ、その横には、脱衣所と浴場があった。
脱衣所は広く、バスルームの浴槽も十分足を伸ばせる広さがある。
浴槽の脇の窓からは、裏庭の犬小屋と竹藪が見えた。
ホールに戻って、数段、階段を降りる位置に扉があり、中に入ると和室があった。
竜胆社長は興味深そうな顔をする。
「おや。和室には似合わない空間が出てきたぞ」
和室の横の引き戸を開くと、天井が高いウォークインクローゼットがあったのだ。
着物の打ち掛けから毛皮のコートやワンピースまで、和洋の衣装が並べられている。
しかも、下着を放り込んだ袋が、あちこちに置かれていた。
だが、布団や枕といった類は見当たらない。
ということは、この和室は寝室ではない、ということだ。
おそらく、もともとこの部屋はフローリングされた洋室だったのではないか。
それを和室に改装したと考えられる。
今では八帖の和室で、い草の香りに包まれる、寛げる空間に仕上がっていた。
だが、あまり有効には使われていないようで、衣服が畳の上にも散らばっているところをみると、着替え部屋として利用されていたようだった。
じつに贅沢な部屋の使い方だ。
窓の外を見ると、庭のモミの木しか見えない。
たしかにこの部屋ならば、人目を憚らず着替えることができただろう。
さらに和室を出てホールへと戻ると、裏庭へ出る勝手口に通じる通路と、二階へと延びる階段があった。
まずは二階へと向かうために、私たちは階段を昇る。
途中で踊り場になっていて、折れ曲がった階段を上がると、二階のホールに出ることができた。
「ちょっと待ってて。
一階を観終えたから、間取りを描いておきたい」
そう口にして、竜胆社長はタブレットを取り出し、白いペンシルを画面に当てる。
彼が記した一階の間取り図は以下の通りだった。
竜胆社長は顔を上げ、明るい声を出す。
「さあ、次は二階だ。
丁寧に観ていこう!」
やがて私たちは階段を昇り終えて、二階の狭いホールに立った。
その二階ホールにもトイレと洗面所があり、その反対側に、二階唯一の部屋である洋室への入口があった。
社長がドアを開けると、四方に窓が配置された、広々とした空間が広がっていた。
「ほお、これは、これは……!」
嘆声を漏らす竜胆社長の横で、私、神原沙月も両目を見開いて、息を呑む。
「とても綺麗で、事故物件になんか見えませんよ」
二階の洋室は、一階のLDKよりはやや狭いながらも、より豪華に内装されていた。
下段は褐色の板間の腰壁、上段はクリーム色で塗られた壁になっており、天井には、年代を感じさせる太くて黒い梁が走り、白い天井からは羽がクルクル回る電燈が吊り下げられていた。
そして、方々の壁には、アンティーク調でありながら、天井近くまで伸びた高い書棚が立てられている。
その書棚には、書籍よりも、ビデオやDVDが数多く並べられていた。
まるで何十年も前の、レンタルビデオ時代のまま保存されたような部屋だった。
住人はテレビとか、ネットを観ない人のようだった。
ビデオやDVDの題名やパッケージを見ると、洋画が多かった。
『風と共に去りぬ』『シェルブールの雨傘』『慕情』などーー。
名前だけは耳にしたことがあるけど、観たことのない古い名作映画が並んでいる。
パッケージを見る限り、いずれも恋愛映画と思われた。
そして、クイーンサイズの大型ベッドが一つ、窓に寄せられるように置かれていた。
上と横を二つの窓に挟まれるように据えられており、日中は相当に明るいと思われる。
私は首を傾げた。
「それにしても、変ですよ。
住人はお年寄りなのに、二階が寝室だなんて。
階段も結構急で折れ曲がり、手すりがなく、一階にはテレビもなかった。
これじゃ、二階で生活するしかありません」
竜胆社長は、なるほどとばかりに頷く。
「そうだね。
でも、この二階にも洗面所とトイレがある。
いったん二階に上がりさえすれば、長居できる仕様だ。
となると、住人が二階で生活するように考えた、というべきだろうね」
長居を想定しているからか、ベッドは特注の機械仕掛けだった。
冬にも暖かい電熱式、さらに機械で上半分が起き上がるタイプだった。
これならば、寝ながらビデオやDVDを観ることができる。
勘の鋭い社長は、マットの下に手を伸ばす。
その結果、ピンクの表紙をした日記帳と、白い封筒を一つ、引き出すことができた。
竜胆社長は封筒を懐に仕舞い込み、日記帳をパラパラとめくりながら問いかける。
「部屋の雰囲気からみて、この部屋の住人だったら、日記をつけてると思ったんだ。
ということで、僕にとって、収穫物はあった。
沙月さんも何か欲しいもの、ある?」
不意を突かれたような問いかけに、私は強く反応した。
「何も要りませんよ!
私を泥棒みたいに言わないでください」
すると、目を丸くした社長は、慌てて手を振る。
「ごめん、ごめん。
そういう意味じゃないんだ。
さすがに、盗めとは言わないよ。
転売したら、結構な値段になるの、たしかにここには多そうなんだけど、何が遺されているのか、相続者があらかじめチェックしてるかもしれないし。
第一、僕が欲しいのは、そんな小物じゃなく、この物件自体なんだからね。
でも、沙月さんにしてみれば、今回、リフォームがほぼ必要ない物件だろ?
だから、これらのアンティーク家具に合わせるしか、コーディネートする方法がないと思ってさ。
参考に小物を持っていくぐらい、構わないだろうと思って。
実際、この後、清掃業者が入るんだけど、掃除の依頼主から、適宜、小物の処分を任されてるらしいからさ。
先行して入った僕たちも、小物ぐらいは自由にして良いって言われてるんだよ」
「そうですか。
ビックリしました」
私が胸を撫で下ろす。
すると、さっそく社長は身を屈めて、細かな確認作業に入った。
「ちょっと待ってて。
僕はまだ、いろいろ確かめたいことがあるから」
電動ベッドのボタンを押し、マットを固定する枠ごと上に開けて、中身を見る。
電動式のベッドだから、中に駆動系の機械がある。
さらに、寒い冬に対応した電熱式だから、熱を帯びる機能もあるはず。
竜胆社長は機械部分を、カシャッとシャッターを切って、スマホカメラで写真を撮る。
何か気に入らないモノでも見てしまったのか、社長は苦虫を噛み潰した顔になった。
「この物件、見かけとは違って、なかなか怖い代物かもしれないな……」
私は社長の発言の意図が掴めず、首を傾げること頻りだった。
が、竜胆社長はズンズンと窓に向かって歩を進める。
そして、二階の外に広がるベランダに出た。
ウッドデッキのベランダが、二階部分の周りを取り囲むようにして広がっている。
ベランダは一階の屋根を覆うように設置されており、全体の広さは二階の洋室以上ありそうだった。
ベランダからの景色は絶景だった。
裏庭側には、N公園の樹木が緑豊かに広がる。
表門側には、遥かな青空と、その下に広がる住宅街、N公園へと至る桜並木を見下ろせた。
さらに近隣住宅の青や緑の屋根が広がり、その下には、南の大通り、そしてO公園の一部が見渡せる。
ただ、せっかくの絶景鑑賞ポイントなのに、このベランダには残念なことが二つあった。
一つは、大きめの機械や電線・電飾が多いこと。
二つ目は、そこら辺に群れている椋鳥のせいで、糞尿で汚されまくって、異臭が漂ってしまっていることだ。
広いベランダが、無粋な機械類に占拠されていた。
ベランダでもっとも広い、表庭に面した部分にはソーラーパネルが置かれていて、そこで得た電力が機械類の電源として活用されているようで、何本もの配線がベランダのデッキ上に走っている。
さらにベランダの手すりや機械類に、トゲトゲのシートが取り付けられていた。
竜胆社長は、そのトゲトゲに指で触れながら、肩をすくめる。
「こいつはバードスパイクというヤツだな。
椋鳥を止まれなくさせるためのものだろう」
おまけに、ベランダの手すりには、裸の電気コードがグルグルと巻き付けられており、これがソーラーパネルのバッテリーに接続されていた。
「こいつは椋鳥に電気ショックを与えるため、か。
あと、LEDの電飾も絡めている。
スイッチを入れたら、チカチカと光るんだろう。
庭のCDと同じく、光で椋鳥を撃退しようっていう試みか」
竜胆社長がベランダの手すりに目を這わせる一方で、私は、すぐ足元にある見慣れない白い箱状の機械に目を遣った。
「あれ? この機械はなんでしょう?」
私が覗き込むようにしたら、バランスを崩したのか、ちょっとフラついてしまった。
それを見て、社長が即座に電源に繋がっているコンセントを切ってくれた。
そして屈んで、機械の横に貼ってあるラベルを確認した。
「これは超音波発生装置のようだね。
ネズミやコウモリには効くっていうけど、椋鳥にも効くのか?
疑わしいな。
とりあえず、手当たり次第、いろいろと試みてみたっていうわけか。
それにしても、電気代、えらくかかっているだろうなあ」
ソーラーパネルから得られた電力だけでは電源が賄いきれないからか、超音波発生装置には、建物のコンセントにも電線が繋げられていた。
それなのに、せっかくの機械が、ほとんど役に立たなかったようだ。
椋鳥の群れを撃退することに完全に失敗していた。
現に、何十羽もの椋鳥たちが、我が物顔でベランダに集まってきている。
シッシッと手を振っても、なかなか退こうとしない。
随分とフテブテしい。
身を乗り出すと、ベランダの下、一階の屋根瓦の隙間に、枯草と小枝で編まれた巣が幾つも見つかった。
椋鳥たちに完全に居付かれてしまっているようだ。
ベランダの手すりに巻かれた電線のおかげか、今のところはベランダにはあまり停まっていないが、夜になればおそらくウッドデッキにまで集団で進出してくると思われる。
灰色の椋鳥が数百羽もの大集団になって群れる姿を想像して、ゾッとした。
竜胆社長は、吐息混じりに呟いた。
「椋鳥ってのは本来、害虫を食べてくれる益鳥なんだがな。
こんなに何十羽も大量に集まられると、さすがに糞の始末に困る」
実際、デッキに、彼らの糞尿が撒き散らかされていた。
鼻をつまみたくなるほど、臭い。
汚れは年季が入っているようで、モップで水拭きした程度では落ちそうにない。
椋鳥撃退の対策は十分立てたが、途中で挫折して、野放しになったという感じだ。
窓を開けて空気を寝室の中に入れようにも、住人が感染症に罹ってしまう危険もある。
年寄りにはまったく善くない環境に、この邸宅は成り果ててしまっていた。
竜胆光太郎社長は、黒いマジックペンを胸ポケットから取り出すと、ウッドデッキに大きな三角形を三つ描いて、「我、調伏を願わん……」などと、ブツブツと囁く。
それから立ち上がって、私に向かって笑顔を見せた。
「さて、一階に戻って、外に出ようか。
と、その前にーー」
竜胆社長は再び白いペンシルを手にして、タブレット画面を覗き込む。
二階の間取りを手早く描き記す。
以下の通りに描かれた。
竜胆社長はタブレットをショルダーバックに仕舞い込んだ。
「クーラーの室外機なんかは描かなかったけど、ソーラーパネルや超音波の機械なんかは位置を記しておいたから、問題ないだろう。
さあ、外へーーまだ観ていない裏庭に出てみよう」
私たちは階段を降りて、勝手口から裏庭に出た。
裏庭に足を踏み入れた途端、パッと白く照らし出される。
屋敷に装着されたLEDライトが、自動で光り輝いたのだ。
樹木からはCDが吊るされ、地面には所々に割れたCDが落ちている。
これらもキラキラと反射した。
ガラ、ガラ!
ギイ、ギイ!
ビャー!
様々な声で、椋鳥がいっせいに鳴き出す。
私たちは耳を塞いだ。
鬱蒼とした竹藪があって、鳥たちはそこに巣を作って塒にしているようだ。
その竹藪の手前には、かなり大きな犬小屋があった。
表看板には「メイ」と記されていた。
「結構、大きめの犬を飼っていたようだ。
メイちゃんって言うらしい。
飼い主が亡くなった後、どうなったのかな?」
「相続者が引き取ったんでしょう」
「そうかも。
でも、生活様式によっては、ペットが飼えないかもしれないから、近所に引き取られた可能性もあるね」
そう言いながら、竜胆社長はタブレットの画面に、今回の物件の全体図を記していた。
社長がタブレットを仕舞い込んで、私と二人で裏庭から表の方へ出たとき、門が開いているのに気が付いた。
私たちと同じような作業着を着た面々が、姿を表していた。
本職の清掃業者が到着したのだ。
どうやら、二時間が経過したようだった。
竜胆光太郎社長は小走りで挨拶に向かい、先頭の人物(おそらくは清掃業者の代表だろう)と名刺交換している。
しばらく話し合ってから、社長は私、神原沙月のところへ身を寄せてきた。
「さあ、作業着を脱いで綺麗さっぱりしてから、外で聞き込みをしてみよう」
◆2
事故物件の内見を終えてから、小一時間後ーー。
私、神原沙月は、福岡県の代表的な風致公園である、N公園の展望台にいた。
物件は、N公園の森林を背後にしていたが、普通に公園通りに入るためには、かなり迂回しなければならなかった。
古くは「荒津山」と呼ばれた山をグルッと回り込む。
そして、中腹にT神社があるが、そこを超えて、さらに登って展望台へと至る。
展望台からの景色は悪くなかった。
近在の樹木に視界は少々遮られるが、博多湾の様子から志賀島まで、青い海を見渡すことができた。
反対側へ振り返れば、桜並木の向こうに広がる福岡中心街を見下ろすことができる。
じつに風光明媚なところだ。
展望台に着いた早々、私たちは声をかけられた。
「ああ、ようやく来ましたね。
竜胆社長に、沙月さん」
竜胆不動産の先輩スタッフである藤野亨が、ベンチに座って待ち構えていた。
彼はグレーのパーカーに、黒いジーンズといった姿で、足元は有名ブランドの白いスニーカーで決めていた。
すぐ隣に、大きな鴉が停まっているのに、それを意に介していないようだ。
「桜の季節に間に合わなくて、ほんと、残念でしたね。
N公園は桜の絶景スポットが幾つもあるんですよ。
T神社から坂を降りていく参道の桜並木、あるいは公園の西側を、桜舞い散る中、散策するってのは、じつに風流だったんですが。
それに、秋に訪れてもN公園は紅葉が見られて心地良いんです。
ーーあ、それでも、季節に関係なく、展望台からの眺望は見事なものです。
それに、あそこの屋台のホットドッグは最高なんですよ。
全国規模で有名なハンバーガー屋さんなんです。
だけど、ここのハンバーガー、どう見てもホットドッグなんですよね。
なのに、どーしてハンバーガーって言うんですかね?
五十年の長きに渡って屋台出してるオヤジさんだから、センスが違ってるんですかね?
宇宙人だって噂ですけど」
相変わらず、何を言っているんだか。
「まだ開いてないじゃないですか、お店」
と私が突っ込むと、藤野先輩はサラリと受け流す。
「仕方ないですよ。
今、ようやく朝の十時になるところですから。
お昼時なんですよ、お店が開くの。
だから、僕がコンビニでサンドイッチを買って来ました」
藤野亨先輩は、私と社長にサンドイッチを渡す。
ミックスサンドと、たまごサンドだった。
口にしたら、普通に美味しい。
自販機で買った缶コーヒーもくれた。
藤野先輩は、ほんとうに気が利く。
だが、竜胆不動産での先輩の役回りは、雑用だけではない。
事故物件近くの歴史史蹟や、心霊スポットの解説者でもあるのだ。
案の定、童顔の藤野先輩はニコニコとして話し始めた。
「ああ、沙月さん。
僕が来たからには、さすがに想像が付くと思いますがね。
じつは、ここ、心霊スポットでもあるんですよ」
「まさか。こんなところが、ですか?」
実際、カップルが多くデートしている。
お昼になると、子供を囲んで、若い夫婦がシートを敷いて弁当を広げたりするだろう。
そういう雰囲気だ。
それなのにーー?
藤野亨は朗々と歌い上げるように語る。
「ここは明治時代に公園になってるけど、ネット情報では、それまでは処刑場だったとか。
もっとも、僕の調べた範囲じゃ、そんなことが記載されてる文献は見つからなかったですけど。
まあ、この公園は夜になると、不気味な静寂さに包まれるからね。
怖がられても、おかしくない。
それに、これだけ高いところにあって景色が良いと、飛び降りる輩もいるだろうしね。
途中にあったT神社では、2000年代初頭に拳銃による人死もあった。
これ、自殺か他殺か、良くわかんなかったんだよね」
竜胆社長がたまごサンドをほおばりながら、むくれる。
以降、男二人でのやり取りが続いた。
「やめてくれよ。
T神社といえば、黒田官兵衛如水とその子・長政を祀ってるんだ。
黒田二十四将の一人、母里太兵衛の銅像も立ってる。
名前からしてカッコいい神社を、そんないかがわしい事件で語らないでくれよ」
「あ、社長。
戦国武将とか、好きなんですか?」
「そりゃあ福岡といえば、黒田官兵衛でしょうが。
僕のじいちゃんは福岡のヒトだから、酔えばすぐに黒田節を唱ってさ。
『酒』の意味もわからない幼い頃に、『酒は呑め呑め、呑むならば〜〜』って歌詞を覚えちゃった」
「そういえば、このN公園が『死の名所』だっていうネットの噂の一つに、変なのがあるんです。
頭を後ろから小突かれた人が振り向くと、作業服を着た女性が佇んでるっていう。
その女性、あらぬ方へ視線が向けられていて、口が半開きだったそうで。
それを見た人が後日、急逝したって。
ですが、それって単純に、酔い覚ましか何かで、若い女性がここらで休んでただけじゃないっすかね?
見た人が急死したってのは、怖がらせるための後付けって感じだし。
他にも、この公園で月食観察をしてた人が、スマホカメラのシャッター音を聞いたっていうのもありました。
でも、それ、人影がなかったって言うけど、暗がりだから良く見えなかっただけで、単に月食を撮ろうとして、誰かが連続シャッターしただけでは?
さもなくば、深夜にイチャつくカップルを盗撮してた、とか」
「だから、そういう下世話な噂で、T神社界隈を語らないでよね」
「でも、T神社を含めたN公園、照明が少ないせいもあって、夜は相当雰囲気ありますよ。
何かが化けて出ても、おかしくない雰囲気っていうか。
そう考えると、その呆然としてた女性って、不逞の輩に襲われた後ってこともあり得ますよね。
作業着だっていうんですから、そういった仕事に従事していて……ほら、2000年代初頭頃から、女性も夜中まで働けるようになったからーー」
「だから、やめろって。
今回は歴史的な事件は関係ないだろうから」
そこで私が口を挟む。
「じゃあ社長は、今回は、普通に住人が亡くなっただけの物件だと?」
前回の事故物件では、表面的な噂とは別の事件が、幾つも隠されていたことが判明した。
今回は、前回のように、裏を探っていかないのだろうか。
竜胆社長は、自分が関わる事故物件に対して、何か深いこだわりがあるように感じられる。
藤野先輩によれば、
「事故物件なんかを扱ってると、いろいろと験を担ぎたくなるものなんだ」
と、社長は言っていたそうなんだけれどーー。
案の定、竜胆社長は顎に手を当てながら、思案顔になっていた。
「いや……。
心不全による死亡だと聞いているけどね。
何者かの、暗い意図が背後で蠢いているような気がする」
やはり、「普通の事故物件」とは、社長には受け入れられないようだ。
そろそろ人も増えてきた。
人々の動きが活発になる頃だ。
竜胆光太郎社長はサンドイッチを食べ終えると、パン! と手を打った。
「さて、腹も満たしたところだし、物件のある近所に戻って、聞き込みを始めようか!」
◇◇◇
ギイ、ギイ!
ギャア、ギャア!
事故物件に近づくにつれ、椋鳥どもの鳴き声がうるさくなってきた。
鳥たちは十羽以上で群れて、艶のある灰色の羽をバタつかせている。
そんな中、幸い、近所の住人たちが、揃ってN公園の展望台へと散歩に出て来た。
皆で示し合わせた日課のようだった。
おばさんたちは皆、一様にグレーや黒のパンツスタイルである(中にはお手製の着物の柄で作ったズボンを穿いているお年寄りもいた)。
頭には白や黄色の帽子をかぶり、小振りのリュックを背負っており、足元はもちろん運動靴だ。
方や、その旦那さん連中は、皆、有名スポーツメーカーの上下のジャージ姿で、野球帽をかぶって、背中にリュックを背負って颯爽と歩いてきていた。
途上で彼らと挨拶を交わして、事故物件の住人だったおばあさん、柳原幸子さんのことを聞いて回った。
例の物件を買い取ろうとしている不動産業者だと名刺も出しつつ自己紹介したから、警戒心を生まなかったのだろう。
途中で遭遇した、ご近所のおじさん、おばさんは、共に饒舌に語ってくれた。
「ああ、柳原のおばあさんね。
あのヒト、薄い茶色のブラウスに、グレーのカーディガンをはおって、たいがいは黒めのスラックスを穿いていたな。
八十のばあさんにしては小洒落ていた」
「でも、耳が遠いのか、補聴器をつけて、ちょっと腰を曲げて杖をついていたわね」
「お嫁さんが甲斐甲斐しく食事を運んだり、なにくれと世話を焼いているけど、おばあさんは偏屈で、最近は挨拶もしなくなっていた」
「あのお屋敷はキラキラ、ギンギンと光ってね。
夜もまぶしいぐらい」
「鳥もうるさくてね。
きっと、おばあさんが餌をあげるから、集まるんだよ。
変な音もするし」
竜胆社長が、「光るのも、うるさいのも、椋鳥が集まるのを撃退するためだと思いますが」と推測を述べるが、誰も認めてくれない。
彼らが言うには、あのお屋敷は、北九州の貿易会社の社長が別荘として建てたもので、売り払ったのを、柳原幸子おばあさんが「終生の棲家」として購入したものらしい。
でも、柳原のおばあさんが住むまでは、あれほど椋鳥が集まることもなかった。
鳴き声がうるさいことも、電飾がギラギラ光ることもなかった、という。
「あのお屋敷の庭木には、椋鳥がいっぱい集まっている。
異常なほどに。
酷いときは、数百羽にもなってね。
それをゴールデンレトリバーが、ワンワンと大声で吠え立てて」
「あそこの家の犬は、特に凶暴でね。
いつも椋鳥に向かって吠えたてていた」
「それなのに、どうしてか、椋鳥の群れがベランダまで降りてくる。
壁の裂け目から中を覗いたら、酷いもんだよ。
犬がその鳥を狙っては、おもちゃにして噛み砕いてんだから。
草むらには、椋鳥の死骸がゴロゴロ転がっていた」
「犬の口も血だらけになっていて、恐ろしいのなんのって」
「本来、ゴールデンレトリバーという犬種は、おとなしくて気立てが良くて、賢いはず。
それなのに、あそこの家だけ、ワンワン吠え立てては、椋鳥に牙を向いて吠えかかって、襲ったりしていた」
「飼主の様子もおかしいし、犬も獰猛で、怖くて近づけなかった」
「そうなんだよ。
あそこのばあさん、いつも眉間に皺を寄せ、難しそうな顔をしている。
連れている犬も凶暴で」
「ほんとに嫌な人が引っ越してきたよ。
今までこんなことなかったのに」
と、近所の人たちは、一様に眉を顰めていた。
おばあさんに挨拶しても、ちょっと頭を下げる程度で、世間話をするような人でもなかった。
町内会の婦人会に誘っても、「そのうち、行きます」みたいな生返事をしているばかりで、「付き合いづらい人だな」という印象しかなかったらしい。
柳原のおばあさんの方としても、近所の連中から悪く評価されるせいで、頑なになってしまったのかもしれない、と思った。
他にも、言いがかり同然のような苦情もあった。
自分の家の家電の調子が悪くなってる、というのだ。
いわくーー。
「携帯電話の繋がりが悪くなった」
「ネットも、Wi-Fiになかなか繋がらない」
「テレビの映像も乱れる」
「パソコンの調子が悪くなる」
ただ単に、家電の買い替え時期になっているからではないか、とも思ったけど、皆が口を揃えて、「あのばあさあんが引っ越して来てから、おかしくなった」と言い張る。
しかも、深夜になると時折、カシャ、カシャ、とシャッターを切る音や、人間がすすり泣くような声や、騒ぐ声、さらには悲鳴などが聞こえた、という。
深夜にお屋敷には、おばあさんしかいないはず。
若い女の子や女性は住んでない。
それなのにーー。
思い余った人が、柳原のおばあさんに苦情を言っても、
「アタシしかいないのに、そんなこと、あるわけなか!」
と言うばかりで、まるで会話にならない。
椋鳥が群れて騒いで、糞を撒き散らすこともあり、警察に相談しても、
「近所の者同士、仲良く話し合ってください」
と言われるばかりだった。
ほんとうに気味が悪い、と近所の誰もが、噂していた。
皆が口を揃えて、柳原幸子というおばあさんのことを悪く言う。
ところが、竜胆社長が、
「その息子のお嫁さんについて、何か知っていますか?」
と問うたら、一転して、皆が絶賛し始めた。
「お嫁さんが来た日には、皆、いろんな苦情を話しに行ったものですよ」
「柳原のおばあさんは、人嫌いで何を言っても耳も遠いし、私たちには無愛想なのです。
だから、お嫁さんには、細々と、こんなことがあった、あんなことがあったと、いろいろとお伝えしたものです。
でも、おばあさんに変わった様子は見られませんでした」
私がメモ帳を手に、
「お嫁さんを相手に、具体的には、どんな苦情を言ったのですか?」
と問うたら、皆、諦めたような、「仕方ないよね」と言わんばかりの顔をした。
「おばあさんが、夜中に、泣いたり、騒いだり、悲鳴をあげたりするのを、やめてもらいたい、と。
そう伝えると、お嫁さんは、
『信じられないですけど、そんなこともあるのかしら』
と言って家に招いてくれて、お茶を出しながら、そういった苦情話をゆっくりと聞いてくれたものでした」
「そうそう。
お嫁さんーー樹里さんは、ほんとうに良く出来たヒトでしたよ。
なるべく、ご近所トラブルになるのを避けようとして、私だけじゃなく、近所に住んでいる年配の婦人の話にも、丁寧にゆっくり耳を傾けてくれました」
と皆が、口々に言い募る。
総合すると、柳原家のお嫁さんーー柳原樹里さんが、ご近所さんに向けて語るのは、こんな感じのセリフだったようだ。
「すみません。うちの義母が、あんなことになってしまって。
前は、もっとおおらかで優しい人だったのに。
歳を取ると、トゲトゲしくなってしまうのかしら。
椋鳥については、いろいろと対策しているんですが、なかなか上手くいかなくて……」と。
そして次第に、柳原のおばあさんを悪く言う近隣住民の口調が、おとなしくなった。
柳原幸子が通う病院に、通院していたおばさんがいて、彼女が居並ぶご近所さんに向けて、おばあさんの病状を伝えたのだ。
「でも、柳原のおばあさん、心臓発作か何かで亡くなったんでしょ?
お医者様のお話では、ペースメーカーを付けていたって。
心臓が悪くて、体調不良の日も多かったみたい」と。
それで、ようやく、ご近所の皆さんも納得したようだった。
「ああ、それで、始終、不機嫌そうだったのね」
「でしたら、これ以上悪く言い立てるのは、悪いわ」
「そうだな。お亡くなりになったら、誰もが仏様だけん」
どうにか最後には穏やかな気分で、ご近所さんと別れることができて、私はホッとした。
N公園から坂道を下って歩くとき、竜胆社長の電話に、懇意にしている不動産会社の古賀渚さんから連絡が入った。
明日、古賀さんが勤める大手不動産会社の営業所に、事故物件の売主がやって来るらしい。
買主として、すでに名乗りを挙げているから、竜胆不動産の面々も、顔を出して欲しい、とお願いされたのだ。
竜胆光太郎社長は上機嫌になった。
「よし。明日から、さっそく交渉を始めよう!」
◆3
翌日の午前ーー。
私、神原沙月と、竜胆光太郎社長は、竜胆不動産のオフィスを出て、割と近場にある大手不動産会社の営業所を訪問していた。
私はベージュのパンツスーツ、竜胆社長は濃紺のスーツに茶系のネクタイといった、物件の内見時とは異なり、それなりにフォーマルを意識した服装をしていた。
出迎えてくれた古賀渚さんも、白のジャケットに紺のプリーツスカート姿だ。
彼女が仲介役となって、不動産の売買について話をしようというのだから、当然だ。
売主は、亡くなったおばあさん、柳原幸子さんの息子さんーー柳原真司、五十二歳だ。
細面に眼鏡をかけた彼は、ダークグレーのスーツに、白い縞のストライプが入ったネクタイを嵌めている。
海外出張が多いせいか、少しお洒落な感じであった。
先の尖った革靴を履いていた。
そして、その奥さん(ご近所さんが「お嫁さん」と呼んでいた)、柳原樹里、四十八歳が同行して来ていた。
彼女は白いニットのワンピースの上下に、オレンジのイミテーションネックレスを付けている。
清楚さの中にも、華やかな感じで、年齢の割にはずいぶん若作りな感じであった。
柳原ご夫婦は子供のいない夫婦で、旦那の真司さんは、頻繁に海外へ出張しているという。
結果として、奥さんの樹里さんが一人で義母の幸子おばあさんの面倒を見ていた。
柳原真司さんは、眼鏡を押し上げながら語る。
「母は仕事を真面目にやってきて、温厚で人付き合いの良い方でした。
定年後は、だからこそ身体に気を遣って、適度な散歩と、栄養のある食事を摂り、じゅうぶん休養もとって、長生きしてもらいたいという願いを持っていたんです。
自分たち夫婦は、母のために、ずいぶん心を砕きました」
柳原幸子さんは、もともと福岡都心部の駅近マンションに住んでいたそうだ。
初老の幸子さんは、定年退職とともに息子夫婦、特に嫁の樹里さんの勧めに従って、N公園の近くに転居したという。
「自分には過ぎた、良い奥さんですよ」
と旦那の真司さんは話す。
「うちの妻は、母に良くしてくれて、その家も、妻の勧めで買ったんです」
そんな夫の話に、妻の樹里さんが口を合わせる。
「お義母様の健康のためを思ってのことです。
『大型犬でも飼って毎日運動すると、もっと健康になりますよ』
と提案させていただいたんです」
柳原幸子さんは生まれ付き、心臓が弱かった。
齢四十のとき以来、医者の勧めでペースメーカーを付けていた。
それでも一人息子を産み、三十代で夫を亡くして以降は、パート勤めをしながら、息子を育て、大学まで進学させた。
息子が一流企業に入社して独立した後もパート勤めを辞めず、規則正しい生活を送ってきた。
健康診断を欠かさず、食生活にも気を付けていた。
ところが三十代後半の年齢で、ちょっと動くだけで心臓がドキドキして、動悸、息切れも激しくなった。
だから四十歳でペースメーカーを付けて、六十五歳まで働き続けた。
七十五歳まで都市部のマンションに住んでいたが、すでに結婚して十五年を経過していた息子・真司と、その妻・樹里が言ったのだ。
「お母さん、そろそろ住み替えたら、どうかな?」
「そうですよ。
私の実家の父も、運動と食事を改善して、大型犬を飼ったら、みるみる体重も落ちて、顔色も良くなり、とっても健康的になったんです。
こんな駅近のマンションで、何でも揃うところに住んでいると、全然外にも出なくなって、かえって身体に悪いですよ。
そのまま老後になったら、ほんとに足腰も弱って、寝たきりになってしまいます。
お義母様がそうなったら、私も困りますわ。
お義母様は、まだまだ素敵で、お若いんですもの。
大型犬でも飼って公園にでも散歩したら、きっと犬友達もできて、素敵なボーイフレンドもできるかもしれませんよ」
ちょうどその頃、格好の物件ーー例のN公園近くの事故物件ーーが手頃な価格で売りに出されていた。
しかも、N公園は、柳原のおばあさんが若い頃、夫と良くデートに使った場所だった。
海を見渡せる小山なので、登り降りすると、ちょうど足腰が鍛えられる。
それに、昔の思い出に浸りながら、散歩するのも悪くないーー息子夫婦はそう思った。
結局、嫁の勧めに従い、おばあさんはその物件に引っ越し、大型犬のゴールデンレトリバーを飼った。
特注の電動式のベッドも購入した。
介護用で、冬にはマット全体が電気で暖まり、マットの上半分が起き上がるタイプだ。
柳原幸子さんは、バラエティなどのテレビ放送を観ることを嫌い、読書や映画鑑賞が好きで、昔に買ったビデオやDVDを鑑賞する趣味があった。
だから、この電動ベッドがあれば、冬でも全身を暖かくして、寝ながら半身を起こして、読書をしたり、ビデオやDVDで好きな映画を観ることができる。
「妻の樹里は、母に良くしてくれました。
仕事の合間を縫って、あの屋敷に通い詰め、特に土日には母の食事を作ったり、掃除を手伝ってくれました。
椋鳥の対策にも、骨を折ってくれたんです」
息子の柳原真司が言うには、妻の樹里は、幸子おばあさんに料理を作ってあげたり、掃除をしてあげたりして、とても仲が良かったとのことだった。
幸子おばあさんも健康のために大型犬を飼って、毎日、散歩して、「これからもっと健康になって、長生きしたい」と言っていたと、息子は強調して、涙ぐんだ。
「町内会にも入って、頑張ってたのに。
引っ越ししてきて、五年ほどで、こんなことになっちゃって。
犬も可哀想でした。
せっかく母に懐いていたのに、飼い主に死なれてしまって……。
でも、僕は出張ばかりだし、妻も勤めているので、飼うことはできない。
なので、妻にお願いして、近所の人に譲らせてもらいました」
妻の樹里は、憂いに沈んだ顔をする。
「ですけど、お義母様は、ご近所から白眼視されていたようで。
『椋鳥が巣食う、不気味な家に住む妖怪』とまで言われて。
私としても、出来るだけ手は打ったんですよ。
椋鳥への対策として、光り物を吊るしたり、ライトを設置したり、超音波の機械まで導入しました。
でも、椋鳥の駆除って、無許可では出来ないんですよ。
知ってました?
椋鳥は鳥獣保護管理法とかで、野生鳥獣として保護の対象になっているんです。
だから、集まったら、その都度、追い払うしかなくて。
対策が中途半端になってしまって……」
柳原樹里さんは、図書館に勤める司書らしく、律儀な性格をしていた。
夫の真司は、妻を優しい手付きで、横から抱き寄せる。
「私は頻繁に海外赴任しているんですが、そんなときにも、妻は図書館の仕事の傍ら、母のためにいろいろと手配してくれて、随分と助かったんです。
ほんとうに良くできた妻なんです。
母の健康を考えて、公園での散歩を勧めて、さらに交友関係を広めるようにと犬を飼うことまで提案してくれて。
時間の許す限り、食事の世話までやってくれて。
もちろん、自分の仕事をしながらなんですから、ほんとに頭の下がる思いです」
その甲斐なく、幸子おばあさんはベッドの上で死んでしまった。
心不全で亡くなった。
「心不全というと、幸子さんは、不規則な暮らしをなさっていたんですか?」
私は心不全という言葉のイメージだけで、つい質問してしまったが、これに対して、嫁の樹里さんがキッパリと否定した。
「いえ。
先程から話しているように、お義母様は規則正しい生活をなさっておりましたわ。
夜の十一時から朝の五時まで、キッチリおやすみでしたし」
少々バツが悪く思い、縮こまる私に代わって、竜胆社長が身を乗り出す。
そして、息子さん夫婦に向かって、切り出した。
「残念ですけど、幸子さんは、あのN公園に隣接するお屋敷でお亡くなりになりました。
なので、あのお屋敷は、事故物件ということになるのですけれどもーー」と。
すると、真司さんは小さく頷いた。
「承知しております。
以降の取引は、妻に一任いたします。
この後、また海外出張があるので」
代わって妻の樹里さんが、深々と頭を下げた。
「ほんとうに、お義母様には可哀想なことをしました」
ここで、竜胆社長は、樹里さんに向けて、右手を差し出す。
「私ども、竜胆不動産は、誓って、お宅の物件を購入する所存です。
が、事故物件ですので、値段の割り出しに時間をかけたいのですが、お時間をいただけませんか」
奥さんの樹里さんも手を出して、竜胆社長と握手する。
「わかりました。
こちらとしましては、相場の値段を公的には提示しておきます。
他の購入希望者がいない間は、お願い致します」
竜胆社長も、樹里さんも、貼り付いたような笑顔で向かい合っていた。
仲介の古賀渚さん、そして私と真司さんは、少しドギマギしながら、竜胆社長と樹里さんの姿を横から見詰めていた。
そして、私たちは互いに握手と名刺を交わして、別れた。
別れ際の、柳原樹里さんの、明るい表情が印象に残る顔合わせとなった。
◇◇◇
大手不動産会社の営業所からほど近い、新しいオフィスビルの一室に、私、神原沙月と、竜胆光太郎社長は帰っていた。
竜胆不動産のオフィスである。
帰社するや否や、竜胆光太郎社長は、ショルダーバックを執務机に置いて、声を張り上げた。
「あの樹里っていう女の顔ーー。
アレは『開示したら、すぐにでも物件が売れる』っていう自信がある顔だ。
これは、急がなきゃならんようだ」
竜胆社長は例の事故物件にあったベッドマットの下から、おばあさんーー柳原幸子さんの日記帳を手に入れていた。
そして、パラパラとめくるだけで、その日記帳の中身をすっかり頭に収めてしまっていた。
竜胆光太郎社長は特殊な速読術を身に付けており、頁を一目見るだけで、丸ごと写真を撮るように記憶してしまい、その記憶から随意に必要な箇所を引っ張り出すことができるとのことだ(なんて便利な能力!)。
その日記帳を膝の上に置いて瞑目し、社長は日記から得た記憶を頼りに語り始めた。
◇◇◇
おばあさんの日記によれば、あの邸宅を買ったのは、息子の妻・樹里さんの強い勧めがきっかけだった。
毎日、出かけるにも、帰宅するにも、否が応でも坂の上り下りが必要な家に住めば、心臓を鍛えるにも、足腰にも良いだろう、と。
だから、敢えて二階にベッドを据えた。
さらに、大型犬を飼うのも、樹里さんは推奨した。
『お医者様も、散歩は大切だって、おっしゃってたんでしょ?
でしたら一人で散歩するよりも、犬がいた方が毎日の散歩が習慣になりますよ』
というのが、嫁の樹里さんの言い分だった。
息子さんが生活するのに十分なほどのお金を渡していたけど、より気兼ねなく生活できるようにと、引っ越して以降、樹里さんが仕事で得ている収入で、幸子さんの生活の光熱費をカードで引き落としてくれるとまで言ってくれた。
ほんとに思いやりのある、優しい嫁だと、幸子さんは思ったそうだ。
たしかに樹里さんにとっては、義母である私が寝たきりにでもなったら、世話をしなければいけないのだから、大変になるに決まっている。
私に犬を飼って、散歩をするように強く勧めるのも、将来の介護についても考えてのことだろう。
七十五歳の高齢だといっても、人生百年時代、まだまだあと十年や二十年、生きるかもしれない。
そして、終生の棲家とするなら、自然豊かで、お洒落なお屋敷に住みたかった。
だから一念発起して、決意を新たに、マンションを引き払い、N公園の近くのお屋敷に居を移すことにした。
さらに、樹里さんに勧められるままに、ゴールデンレトリバーという大型犬を飼ってみることにした、という。
どうやら、この日記は、例の物件の購入を決めてから綴られ始めたらしく、日記の最初の方は、かなりハイなテンションで、様々な出来事が書き綴られていた。
ところが、居を移してから二、三年もすると、問題が発生した。
近所の人たちが意地悪で、幸子さんに言いがかりを付けてきた、というのだ。
悪いことに、幸子さんは耳の聞こえが悪くなっていた。
歳とともに難聴になっているので、近所の人に話しかけられても聞こえないことが多くなった。
だから、反応が鈍くなりがちになり、しかも幸子さんは耳が遠くなったことを他人に悟られたくないと思っていた。
そのため近所の人が、幸子おばあさんから無視されたと思うことが増えていったし、幸子さんの方も、聞こえない話に耳を傾けて、愛想笑いをしたり、わからないのに頷いたりするのが面倒臭くなって「もう、どうでも良いや」と思うようになって、近所の人を無視するようになっていったようだ。
結果、幸子さんは、近所との交流をしなくなってしまった。
すると、さらに嫌がらせを受けることが多くなった。
幸子おばあさんが庭にお花の苗を植えたところ、それがことごとく、何者かによって、抜かれてしまった。
こんないたずらするような小さな子供は、この近所にはいないし、どうしたんだろうと不安に思っていたときに、いつも家の前を犬を連れて通る隣のご婦人がこっちを見て、ニヤッと笑うのを見てしまった。
さらに、幸子さんが他人に「声がうるさい」と苦情を言って回っている、と近所の人が噂していると知った。
幸子さんは耳も良く聴こえないし、そんなことを言うはずがないのに。
加えて、ある朝、門前に犬の糞が大量に捨てられていた。
幸子さんは瞬時に思った。
以前から、コチラを嘲り見ていた、隣の加藤さんの仕業に違いない、と。
加藤さんの飼い犬が、私の家の門前で良く用を足しているのを見てきた。
おしっこだったら仕方ないけど、大の排泄までするなんて、ひど過ぎる。
近所からの嫌がらせは、それだけではなかった。
ゴミ捨て場に出したはずのゴミ袋が、いつの間にか門前に戻されていることが、頻繁に起こったのだ。
誰かが、私が捨てたはずのゴミ袋を勝手に漁って、燃えないゴミと燃えるゴミが分別されているのかを確認しているらしい。
正直言って、たまには間違って混じることだってある。
それだけのことなのに、どうしてここまで、ひどい嫌がらせをするのか。
福岡ではゴミ収集は夜間に行われるため、朝早くにゴミ出しをする必要がない。
だから誰かが夜中に、こっそりと自分のゴミ袋を奪って隠し持ち、朝になって門前に置いていくという手間をかけているのだ。
そのままゴミ捨て場に置いていてくれたら、ゴミ収集車の人だって、ゴミ袋を持っていってくれたはずのにーー。
ーーと、そんな感じで、日記の後半には、近所に対する恨み辛みの記述が多くなっていた。
◇◇◇
「ご近所の人たち、そんな意地悪な人には見えなかったですけど……」
と私が首を傾げると、竜胆社長は大きく頷いた。
「要するに、幸子おばあさんは被害妄想を逞しくしていたってことだ。
近所の人たちが、ただ単に挨拶をしようと思って、幸子さんを見たのを、ざまぁみろというふうに思っているに違いない、と勘繰るほどにね」
以降、幸子おばあさんは、すぐに激怒して、他人との喧嘩が絶えなくなった。
結果、近所付き合いができなくなったから、近場のN公園ではなく、坂を下った南にあるO公園にまで、幸子さんは遠征するようになる。
だけど、問題はこれからだった。
竜胆光太郎社長は、事故物件にあったベッドから、幸子さんの日記帳と一通の封筒を手にしていた。
その封筒の中にあった紙切れには、こんなことが書かれてあったという。
『私の全財産、この家も含めて、すべて婚姻に同意してくれた福田恒雄さんにあげたいーー』と。
竜胆社長が直に紙切れを広げるのを見て、私は目を丸くした。
「それって、遺言書じゃないですか!?
息子さん夫婦は知ってるんですか?」
竜胆社長は苦笑いとともに、肩をすくめる。
「知らないだろうね。
この日記の存在にも気付いていなかったみたいだし」
「ところで、フクダツネオさんって、誰ですか?」
「さあ。わからないね。
でも、この紙切れの文面からは、
『私の財産は、息子の嫁には決してやらないんだから!』
という、幸子おばあさんの強い意志が感じられる。
ーーということで、まずは、謎の福田恒雄さんを探そう」
◆4
福岡県が誇るO公園ーー。
N公園から桜並木に挟まれた道を降り、大きなコンクリート製の鴨居を潜って、まっすぐ南に向かって坂を下りた果てにある巨大な公園で、西の脇には米国領事館がある。
元は福岡城の外濠で、草香江という入り江をもとに巨大な池を造り上げたものだ。
全長二キロに及ぶ池の周囲は、全面、柔らかなアスファルトで舗装されており、多くの人々がジョギングをしている。
犬の散歩をしている人も多い。
海外からの観光客も数多く散見された。
竜胆光太郎社長はスーツ姿のまま、大きく手を広げて、感嘆の声をあげる。
「O公園ってのは、じつに壮観だな!
池が雄大で、美しい。
真ん中を通る橋を渡ると、細い通り道があって、両側面に水面が広がり、鴨や水鳥が憩うている。
上野の不忍池よりも、よほど水が澄んでいる。
アッチは蓮の葉でいっぱいだからな」
「こっちでも、O公園から道なりに延びるお堀は、蓮の葉でいっぱいですけどね」
私、神原沙月の口振りも、どこか自慢げなものになってしまう。
O公園は福岡県が誇る名所だが、正直、イマイチ全国的な知名度を獲得できていない気がしている。
むしろ海外からの旅行者の方が、この公園を目敏く発見して、憩いの場にしていた。
彼ら海外からの旅行客はサラリと躱して、私たちは地元民に話しかけるように努めた。
さっそく、犬を散歩させていたり、ベンチに腰掛けている、常連と思しき人たちに声をかけた。
すると、驚いたことに、N公園のご近所さんに大不評だった柳原幸子さんは、すぐ南にあるO公園の犬友達の人たちの間では、評判がすこぶる良かった。
「ああ、あのゴールデンレトリバーのメイちゃんのご主人ね。
愛想の良いご婦人でしたわ」
「いつも朗らかで、感じの良い人でした」
「ワンちゃんも賢そうだし」
「メイちゃんといえばーー幸子おばあちゃんから、譲り受けた方がいらっしゃったはずだわ」
柳原幸子さんの死後、愛犬メイを譲り受けた女性ーー崎村里子という三十代の女性は、在宅ワークの合間に、このO公園を毎日、散歩をしていた。
偶然、犬の散歩時間にぶつかった結果、私たちは、崎村さんにも出会うことができた。
彼女は白いブラウスにブルーのカーディガンをはおり、キュロットスカートを履いていた。犬の散歩らしく、足元はスニーカーだ。
そんな崎村里子さん曰くーー。
ゴールデンレトリバーのメイを譲り受けた際、初めはメイの体調は悪く、気性も随分と荒かったそうだ。
だけど、家で引き取ってしばらくしたら、体調も気性も良くなった、という。
実際、今、崎村さんが引き連れているメイちゃんの頭に、私、神原沙月が恐る恐る手を伸ばしたが、噛みつかれることもなく、メイちゃんは目を閉じて、頭を撫でさせてくれた。
N公園のご近所さんたちが話すような、凶暴な犬には到底、思えなかった。
ちなみに、幸子おばあさんの死後、ネットでメイちゃんの引き取り手を募集されていたらしい。
結果、柳原樹里さんが、牙を剥き出すメイちゃんをリードでグイグイ引っ張る感じでやって来て、崎村さんに譲ったらしい。
崎村さんの家はO公園の近くにあるが、南側、草香江という場所に住んでいる。
柳原幸子さんの家は北側、それもかなり離れたN公園の近くだ。
メイちゃんの住処は、巨大なO公園を挟んで北と南に、遠く離れた距離を移動したことになる。
崎村里子さんは、メイちゃんの首筋を優しく撫でながら語った。
「引き取ったこの犬の身体を洗うとき、首輪を取ってみたら、意外と重くて。
それでまた、その首輪をつけようとすると、メイちゃんが嫌がったから、その首輪じゃなくて、新しいのを買ってあげたのよ。
その首輪はなんで重いのかわからなかったけど、そのまま処分したわ。
そのせいか、メイちゃんはすごく機嫌が良くなって、元気になったの。
散歩から帰っても、家の庭を駆け回ってますよ」
私たちは、崎村さんとメイちゃんに丁寧に頭を下げて、別れた。
竜胆社長は大きく手を挙げて伸びをしつつ言った。
「あと見つけるべきなのは、O公園で絵を描くおじさんだ。
幸子おばあさんは、O公園で知り合った、絵を描く五十代の男性と恋仲になったんだよ。
その人が、日記帳で幸子さんが全財産を譲ると宣言した福田恒雄さんだ」
◇◇◇
おばあさんの日記によればーー。
マンションに住んでいた頃は、ペットは禁止だった。
そのこともあって、N公園そばの一軒家に引っ越したのだ。
心臓が悪いのは事実だけど、お医者さんの勧めもあるから、散歩は必要だと思われた。
「ボーイフレンドでも、お作りになったら?」
と、息子の嫁ーー樹里さんも勧めていた。
幸子さんは、その提案を、初めは笑ってやり過ごしていた。
すでに柳原幸子さんは七十五歳になっていた。
こんな歳になってから? 冗談じゃないわ、と思っていた。
が、実際に、お気に入りができてしまったのだから、人生、何が起こるかわからない。
幸子おばあさんがN公園界隈を避けるようにして、南のO公園へ、メイちゃんを連れて散歩に出向くのが日課となっていた。
ある春の日、幸子さんがメイの背中を撫でながら湖畔のベンチに座っていると、自分の息子くらいの年齢の、五十代男性が近づいてきて、
「お隣、よろしいでしょうか。
良かったら、食べませんか」
と言って飴玉をくれた。
おばあさんは飴玉を口に入れると、つい嬉しくなって、
「久しぶりだわ。人と接するのは」
と言った。
そのときは補聴器をつけていたので、
「私、補聴器を付けていても聴こえが悪いの。
だから最近、誰とも話をしてないんですけど、ありがとう」
と微笑みを浮かべた。
以来、午前中からお昼時にかけて、絵描きの福田さんと歓談し、デートを重ねた。
この頃のことを記した日記帳では、喜びに満ち溢れた文章ばかりで溢れている。
特に、福田さんが映画通で、同じ洋画を愛していて、しかも読書の趣味も一致したことが、好意を寄せる原因となったようだ。
そして、長いこと近隣住人に対する恨み言ばかり綴られてきた日記の文面が一変し、N公園近くの邸宅を購入したことを、ようやく喜べたようだった。
一軒家だったら人目を憚らず(というか、むしろ堂々と周囲に見せびらかすように)福田さんを招待できるし、そのまま彼と一緒に住むことすらできるーーと。
そういった、期待に満ちた記述が、日記帳に見られるようになったのだ。
ところが、日記も最後の方になると、再び様相が変わる。
椋鳥の糞尿と、近所からの嫌がらせに頭を悩ませ、疑心暗鬼になっている折に、幸子さんは、この男性に向けての不信感をも募らせるようになっていたようだ。
周りから苦情を寄せられるたびにカリカリして、幸子さんは荒い文字で書き殴っていた。
『福田さんが、私の家まで来てくれない。
どうして!?』
と、苛立ちを隠しきれなくなっていたーー。
◇◇◇
柳原幸子さんの日記帳から、福田恒雄さんが湖畔にキャンパスを立てて絵を描く時間帯はわかっていた。
幸子さんとの歓談を楽しんだ後、午後一時になってからのことだ。
おかげで、あっさりと、絵描きのおじさんーー福田恒雄さんを発見できた。
福田さんは、ブランドマーク入りのポロシャツに、薄手のジャケットをはおり、ジーパンを穿いている。
ちょっとお洒落を意識したカジュアルウェアだった。
私たちが近寄って挨拶をし、老婦人の柳原幸子さんが亡くなったことを伝えたら、驚くと同時に、イーゼルを片付けて、O公園の東側にある喫茶店に私たちを誘った。
そして、福田恒雄は、彼女ーー柳原幸子との出会いをポツポツと語り始めた。
おおむね、幸子さんが遺した日記の内容と重なるものだった。
が、福田さんの語り口は、幸子さんが自分との結婚を口にし始めたエピソードから、激しいものに変わっていった。
「あなたに家も財産もあげます」
と、福田恒雄は柳原幸子さんから言われたそうだ。
だが、福田さんは断った。
最初は、冗談だと思った。
自分の年齢は五十二歳、しかも一度、結婚に失敗している。
一人娘の養育費は払い終えたが、もう他人に出費したくない。
そう思っていた矢先だった。
相手は七十五歳の老婦人、色恋沙汰に巻き込まれる気遣いはない、そう思って安心して逢瀬を重ねてきた。
ところが、結婚を切り出されて驚いた。
こっちには、まるでその気はないのに。
それなのに、七十五歳のおばあさんは諦めない。
しつこく結婚を迫ってくる。
そして、自分の屋敷に、俺を招こうとしてくるーー。
アラフィフの福田恒雄は語気を荒くした。
「私はもう結婚するつもりもなかった。
ただ、親しくしていただけなんだ。
だって、自分の母親だとしてもおかしくない年寄りだろ?
冗談じゃない。
それなのにーー」
竜胆社長は共感を誘うように語りかけた。
「きっと幸子おばあさんは、寂しかったんですよ。
結婚というのは言葉の綾というか、自分に残された資産は家ぐらいしかないと思い詰めながらも、あなたとの同居を夢見て、結婚をアピールしたんじゃないでしょうか」
福田さんは激しく首を縦に振って、いきなり幸子さんの義理娘である柳原樹里さんのことを口にした。
「だから、あの幸子おばあさんのお嫁さんーーたしか樹里さんだっけ、その人がいるのを見かけたから、忠告したんだ。
幸子おばあさんから、私が言われたことを詳しく話して、お願いしたんだよ」と。
柳原樹里さんが、幸子おばあさんと一緒にO公園にやって来て、顔見せしてきたという。
その折に連絡先を交換していたから、このO公園内にある喫茶店に樹里さんを呼び出して、説教をかましたという。
正直、樹里さんが結婚を迫って来たのならともかく、七十オーバーのおばあさんからアプローチされて、自分は迷惑している、こんな事態になったのは、嫁である樹里さんに原因があるんじゃないか、と詰ったのだ。
福田恒雄は、「男らしく」柳原樹里さんに向かって、正面から忠告した。
「君も仕事ばかりにかまけないで、少しは家族サービスをしてあげたらどうなんだい?
お宅のおばあさんが、僕との結婚を真剣に考えているようだけれども、僕はそんなつもりは毛頭ないんだ。
正直、おばあさんの年齢が年齢だし、僕はバツイチで、もう結婚はゴリゴリなんでね。
ひとりで気ままに犬と猫に囲まれて、絵を描いて暮らすのを楽しみたいんだ。
きっと、おばあさんは家庭的な手料理に飢えてるんじゃないかな。
以前、僕の家におばあさんが押しかけてきたとき、あまりものの食材で男の手料理をご馳走したら、
『こういう家庭的なものが欲しかったのよ』
と言って、ほんとうに喜んでいたよ。
『レンチン料理ばっかり、息子の嫁に届けられてーー』
と言っておられたから、ちょっと煮物でも持って行くだけで、だいぶ落ち着かれると思うんだ。
僕の料理だって、手料理って言っても、そんなに大袈裟なものじゃなく、ただ単に材料を切って、煮ているだけのものなんだから。
ほんとに、簡単な料理で良いんだよ。
おばあさんが僕に結婚を迫ってきて、
『あなたと一緒に住みたい。財産もあげる』
なんて言ってたけど、ほんとに僕はそんなつもりないんだ。
はっきり言って迷惑なので、あなたからおばあさんに、僕とのことを諦めるように伝えてくれないかな。
お願いしますよ」と。
その話を聞いて、竜胆社長は嘆声を漏らした。
「凄いですね。
樹里さんにーー自分と同世代の女性相手に、そこまで言うなんて。
僕には、とても……」
福田恒雄はフンと鼻息を荒くして、腕を組む。
「あなたは、見たところ、九州の者じゃないでしょう?
だから、そう思うんですよ。
実際、ネットなんかでは、九州男児のことを、とかく悪く言うのが流行ってますがね。
大人の男が、非常識な女相手に遠慮しているようでは、世の中回って行きませんよ。
あははは」
竜胆社長は苦笑いを浮かべる。
「肝に銘じておきます。
実際、僕は女性から嫌われないかって、いつも不安なもので。
特に若い女性から『老害』なんて思われたらどうしようって思うぐらいで」
一方の福田さんは、態度が大きくなる一方だった。
「そうですか。
いや、そんなの、必要ないですよ。
君は三十代かそこらだろ?
十分若いじゃないの。
ははは」
「貴重なご意見、ありがとうございました
これでゆっくりしていってください」
竜胆社長は礼金を置いて、私を引き連れて立ち去った。
店を出ても苦笑いが消えない竜胆社長に、私は語りかけた。
「あの世代の男性は、たいがい、あんなものですよ」と。
すると社長は私に微笑みかけると、思いもしない言葉を吐いて、私を驚かせた。
「これで、幸子おばあさんを狙った動機がわかった。
やはりこれは明確な殺意を持って仕組まれた、巧妙な罠だったんだ。
殺人だよ、これは!」
私は両目を見開いて、息を呑んでしまった。
◇◇◇
O公園から天神にある竜胆不動産のオフィスは、地下鉄ですぐに辿り着く。
竜胆光太郎社長は、執務室のテーブルに一枚の写真を広げた。
「コイツを見てくれ。
柳原幸子さんのベッドの下のあったものだ」
事故物件にあったベッドの中身をスマホカメラで撮った写真を、プリントアウトしたものだった。
「高電圧源となってる誘導コイルだ。
二枚のアルミ板をコンデンサーにして、電気振動を起こして、電磁波を放出する。
なんか他にもゴチャゴチャした部分があって、よくわからないけど、これらは電圧とか、放出される電磁波を調整するモノだと思う。
だから、数千ボルト以上もの全出力は出していなかったと思うけど、とにかく、こんな高電圧を作る装置を、ペースメーカーを付けた老女の寝所の下に置くなんて、言語道断だ。
これは明らかに、外に群れる椋鳥の対策用ではない。
露骨に幸子さんの心臓の鼓動を乱すことに狙いを定めた代物だ。
発生する電磁パルスで、スマホやテレビとかもイカレたはず。
それほどの威力があったに違いない」
ペースメーカーを付けていた幸子おばあさんが、ベッドの下に仕込まれた、電磁波が発生する機械の影響で死亡したに違いない、と竜胆光太郎社長は言うのだ。
「誘導コイルによって発生する電磁波は、特にペースメーカーには悪影響を及ぼす。
ただでさえ電磁波は有害なんだ。
ペースメーカー近くでは、ネックレスですら装着するな、スマホも装着部位の反対側の耳に当てろって注意される。
スマホやIHの調理器、電動工具だって15cmより近づけたらいけないって言われてる。
小型の無線機だって使用禁止だ。
それなのに、それより強い電磁波を発する装置をベッドの下に置いて生活していたんだ。
強い電磁波を浴びると、心臓が動いていると勘違いしてペースメーカーが休止してしまう。
すると、心臓の弱さから、幸子おばあさんは頻繁にめまいや吐き気、頭痛を感じていたはず」
鎖骨下に埋め込まれたペースメーカーは、導線を通じて自動的に電気刺激を送って、心臓を規則正しく動かす。
電池を内蔵したペースメーカーは、そんな細かな作業を持続している繊細な機器なのだ。
ゆえに、外から電気や磁気を受けると、誤作動を起こしかねない。
IHヒーター、IH炊飯器、トランシーバーなどの無線機、携帯電話、放送の中継地点に近い所や、磁場が発生する場所でも危険だと言われる。
竜胆社長は眉間に皺を寄せる。
「幸子おばあさんのペースメーカーは、ほとんど休止状態だったのではないか?
僕は医者じゃないから良くわからないけど、幸子さんにとっては、ほとんどペースメーカーを埋め込んだ意味がない状態で生活していた可能性がある。
幸子さんは定期的に病院には行っていたんだろうけど、なぜか、その問題が明らかにならなかったらしい。
とにかく、その結果、血行が悪くなり、動悸やめまい、頭痛や耳鳴りに始終、幸子さんは悩まされていたはずだ」
竜胆社長によれば、椋鳥に電気ショックを与えるためという口実で設けられていた様々なモノが、ことごとく、じつはおばあさんの心臓が狙いだったというのだ。
ベランダの手すりにグルグルと巻き付けられていた裸の電気コードも、幸子さんのペースメーカーには悪影響だったはずだという。
LED電飾も、一晩中、点けていると睡眠の妨げになるし、強い電気関係のモノに囲まれるのは危険だ。
椋鳥除けとして、CDと共に吊るされていた磁石も危険だ。
ペースメーカーの作動に狂いが生じかねない。
あと、なんと言ってもベランダにあった超音波発生装置だ。
超音波とは周波数20,000Hz (20 kHz)以上の音のこと。
超音波の周波数は、ペースメーカーの誤作動を引き起こす周波数帯になっている。
だから、ご近所さんの苦情は、みな事実だったと考えられる。
携帯電話や、Wi-Fiの繋がりが悪くなったり、テレビの映像も乱れ、パソコンの調子が悪くなることは、十分、あり得たことだという。
ところが、幸子おばあさんはビデオやDVDしか観ないし、ニュースもネットではなく新聞購読で得ていたから、わからなかった。
光熱費も、樹里さんがカードで支払っているので、電気代が不自然なほどに高額になっているのにも気付かなかったのだ。
さらに、犬のメイちゃんの首輪にも電磁波が発生する何かが装着されていた可能性が高い。
だから、ゴールデンレトリバーの気性が荒いものになっていたかもしれない。
それに、裏庭にあった犬小屋でメイちゃんが繋がれていた形跡はなかった。
犬小屋はあったものの、ほとんど室内飼いをしていたんだろう。
だとしたら、抱っこしたときや、ベッドに潜り込んできたときに、幸子さんの心臓に悪影響を与え続けていたはずだーー。
竜胆社長による一連の説明を受けて、私は言葉を絞り出した。
「ということは、幸子おばあさんが亡くなったのは、単なる心不全ではなく、樹里さんが周到に用意した電磁波や超音波による嫌がらせによって、幸子さんの心臓が攻撃され続けた結果だと?」
長身の青年社長は、端正に整った顔を大きく縦に振る。
「そうなんだ。
むしろ、良く今まで幸子さんの心臓が保ったものだと思う。
あるいはそれだけ、発生する電磁波や超音波の力が巧く調整されていたのかもしれない。
心不全や心筋梗塞で、ごく自然に亡くなった、と思われるようにね。
それに、樹里さんが義母の幸子さんの暗殺を企んでいた形跡は、N公園を良く調べれば、他にもあったと考えられる。
これはあくまで、僕の素人ならではの『妄想』なんだがーー」
竜胆社長は、不自然なほど椋鳥の群れが、あの邸宅に集まっていたのも、樹里さんの企みによる結果なのではないか、と言うのだ。
平日九時五時の勤務をこなした後、深夜や土日などを利用して、樹里さんは頻繁にN公園に通い詰めたに違いない。
そして森林部分が深いのを利用して身を隠し続けながら、蛇や猛禽類を餌付けして、例の事故物件の近くまで誘導する。
その際、女性だと不審に思われやすいうえに身の危険があるため、男性を装うために作業着を着ていたと考えられる。
そして、スマホカメラのシャッターを連打して、音とライトで蛇や猛禽類、さらには椋鳥の群れを誘導したんじゃないのか。
その結果、蛇や猛禽類といった天敵を恐れた椋鳥たちが、N公園の森から、この事故物件になった邸宅の庭にまで逃げ込んでくる。
さらに、幸子おばあさんが不在のとき、あるいは、夜の暗がりを狙って、耳も目も弱くなったおばあさんが気付かないように気遣いながら、椋鳥たちの餌付けをしていた。
椋鳥たちの塒は、枯草や小枝で編まれた巣の中にある。
それらの巣は、裏庭では竹藪がある地表近く、表の庭ではモミの木の樹洞にあった。
その椋鳥の塒に、いろんな植物の種や果物、特に柿などが細かく刻まれて集められていた。
ベランダにある超音波発生装置を起動させても、裏庭の地表や、表庭の樹上にまでは影響が少ないだろうから。
そして、幸子おばあさんが植えたお花の苗を引っこ抜いて、花壇を荒らしておく。
もちろん、ご近所さんの仕業と思わせて、幸子おばあさんに近所の人々に対する敵愾心を植え付けるためだ。
他にも、犬の糞を玄関に捨てたり、おばあさんが出したはずのゴミ袋を玄関に戻しておいたり、夜中に泣いたり、騒いだり、悲鳴をあげたりーー。
竜胆社長はどこか得意げな表情を浮かべて、両手を広げて総括した。
「つまり、すべては、息子の嫁である樹里さんが、幸子おばあさんを追い込むために仕組んだ罠だったというわけさ。
ベッドの下から電磁波を発生させるだけじゃない。
椋鳥が集まるのも、それを口実に超音波発生装置で超音波を発生させるのも、犬の気性を荒くするのも、近所の人々から不快に思って忌避されるのも、すべてね。
『近所の人の嫌がらせ』がじつは、『嫁の義母に対する嫌がらせ』だった。
いや、あのお洒落な邸宅自体が、息子の嫁によって仕組まれた、義母に対する罠そのものだったってわけさ!」
◆5
それから三日後ーー。
私たちは再び、売主代理である柳原樹里さんと対面した。
場所は、天神にある竜胆不動産のオフィスだ。
私、神原沙月はベージュのスーツ、竜胆光太郎社長も濃紺のスーツで、フォーマルに決めている。
一方の柳原樹里さんは相変わらずニットのワンピース姿だ。
彼女は柔らかな微笑みを浮かべて椅子に腰掛け、鈴の音のような声をあげる。
「あの物件の相続者は夫の柳原真司であって、私ではありません。
それなのに、私を名指しでお呼びとは。
それに、仲介する古賀さんもおられない……」
対面に座る竜胆社長は、スーツの襟を正し、
「余人を交えず、あなたにだけお話をしたく思いましてね」
と語り、何枚かの写真と書類を、テーブルの上に載せた。
「単刀直入に申し上げます。
これは、亡くなった幸子さんのベッドの中に、誘導コイルによる電磁波発生装置が仕込まれていた証拠写真です。
そして、これらの書類は、ベランダにあった超音波発生装置やソーラーパネルなどを購入した記録です。
あなたはこれらの機械を買い揃えて、外でたむろする椋鳥ではなく、じつはベッドで横たわる柳原幸子さんのペースメーカーをターゲットにしていたことは明白だと思いましたのでね」
樹里さんは、薄らと口の端を綻ばす。
「あなたの狙いは?」
「この値段による物件の購入を」
竜胆社長は値段を記した紙を差し出す。
売主代表の樹里さんは手に取って、目を見開く。
「あら。路面地価よりも下回るだなんて。
もっと遥かに高い値段で買い取りたい、という声をすでに何件かいただいているんですよ」
だが、竜胆社長は強気の姿勢を崩さなかった。
「別に、それらの方にお売りなさっても、構いませんよ。
ただしそうなれば、これらの証拠を、しかるべきところに提出するまでです。
ちなみに、証拠は写真だけじゃありませんよ。
現物もあります。
ベランダにあった超音波発生装置、さらには、ベッドの下にあった自作らしき電磁波発生装置などは、清掃業者にお願いして保管してもらっております」
「あなた、なんなの?
普通の不動産屋じゃないわね。
やることが、随分と手が込んでいるじゃない。
私を脅すつもりなの?」
「いえいえ、とんでもない。
事故物件買い取りのために、少々、下調べをさせて頂きました。
それだけですよ」
樹里さんは、深い溜息をついた。
「わかりました。あなたの言い値でお売りします」
竜胆光太郎社長は、ホッと息を吐き、笑顔を見せる。
緊張が解けたらしい。
すると、樹里さんは、悠然と脚を組み変えつつ語り出す。
これに竜胆社長が問い返す形で、会話が進んでいった。
「ーーこんな程度の証拠で、私が警察に捕まるか疑問ですけどね。
正直、ベッド下の機械は、本を観ながら、私が見よう見まねで作ったもので、ほんとうに電磁波が出てたかどうかもわかりません。
が、夫に要らぬ疑念を持たれたくはありませんもの。
これらの仕掛けについては、口外してもらいたくないです。
夫の真司は、マザコンと言っても良いほど、義母に甘えっぱなしでしたから。
一昔前なら大往生ともいえる年齢で亡くなったのに、お義母様を失った喪失感で、今も虚脱状態なんです。
彼を慰めるのに、私、苦労しているんですよ」
「いや、自分で値段を提示しておいて言うのもなんですが、ほんとうに、この値段で、あの物件を頂戴して良いんですか?
物件の相続者は旦那さんであって、あなたではありませんが」
「大丈夫ですよ。
物件の売買については、私に一切、任されていますから。
お義母様を失った悲しみを忘れるためもあって、夫は次に向かう海外の赴任先についてで頭がいっぱいなんです。
『事故物件扱いなので、安く言われてしまって、ごめんなさい』
とでも言って、涙の一つも流せば、夫は私の頭を撫でて慰めてくれるわ」
「ちなみに、老婆心ながら付け加えさせてもらえば、あなたは、お義母様の柳原幸子さんを執拗に付け狙う必要はなかったんですよ。
たしかに、お義母様は、福田恒雄さんに向かって、
『あなたと一緒に住みたい。財産もあげる』
と言っておられたようです。
あなたは福田さんから、そのような旨を伺ったのですね。
ですが、肝心の福田さんは、言っていました。
『お宅のおばあさまが、私との結婚を真剣に考えているようだけれども、私はそんなつもりは毛頭ないんだ。
正直、彼女の年齢が年齢だし、私はバツイチで、もう結婚はゴリゴリなんでね。
ひとりで気ままに犬と猫に囲まれて、絵を描いて暮らすのを楽しみたいんだ』と。
だからーー」
そこまで社長が語った段階で、樹里さんはハンカチを取り出して口に当てた。
「ほっほほほ。
あなた、何にもわかってらっしゃらないのですね」
そして、キッと竜胆社長を睨み付ける。
「ーー私は言われたのよ。
そのフクダとかいう、見ず知らずのオヤジから。
『少しは家族サービスしてあげたらどうなんだい?』とか、
『きっと、おばあさまは家庭的な手料理に飢えてるんじゃないかな』とか、
『レンチン料理ばっかりだそうだね。ちょっと煮物でも持って行くだけで、だいぶ落ち着かれると思う』とか。
丁寧にお料理のレクチャーまで、されかねない勢いだったわ。
でもね、私は絶対に、あんなクソオヤジからマウントを取られるような謂れはまったくない。
あんな、奥さんにも逃げられたようなオトコなんかに!」
仕事の合間を縫って手料理を届け続けた。
土日の休みを返上してお付き合いして、ご機嫌を取って、気遣ってあげた。
それなのに義母は、息子のような年齢の男に入れあげて、私を蔑ろにした。
だからーー、と。
ところが、樹里さんから、そのように告白されても、竜胆光太郎は納得できなかった。
美貌の青年社長は、テーブルに肘を付き、身を乗り出す。
「樹里さん。
あなたはご存知ないでしょうが、お義母様の幸子さんはマメに日記を綴っておりましてね。
それを見る限り、時系列が合わないんですよ。
福田恒雄さんと出会うよりも先に、幸子さんは近隣の人々に対して敵愾心を持ってしまっていた。
つまり、幸子さんがO公園に出向くようになる以前から、あなたは幸子さんに嫌がらせを仕掛けていた形跡があるんですよ。
夜中に不審な泣き声をあげたり、苗を抜いたりして、幸子さんの疑心暗鬼を増幅させ、近所の人たちと反目し合うように、あなたはすでに仕掛けていたはず。
実際、電磁波発生装置付きのベッドや、超音波発生装置などはとうに設置されていたし、電線や電飾もベランダに這わせて、近所の人たちから嫌われていた。
むしろ、こういった嫌がらせをした結果、幸子さんはN公園からO公園へと散歩先を変更し、結果として福田恒雄さんに出会ってしまったわけでーー」
樹里さんは瞑目しながら、素直に同意する。
「ええ。あのフクダのオヤジから、気色の悪いノロケと説教を喰らう以前から、『お義母様なんか、早く亡くなってしまえば良いのに』と思ってましたわ。
あのオヤジは決定打になっただけ。
その前から私は、お義母様の死を願いつつ、付き合い続けていました。
なぜかって?
それは、お義母様が、私の人生を勝手に『失敗』などと決め付けたからです」
幸子さんがN公園近くの邸宅に転居してから、半年ほどが過ぎた頃ーー。
いまだ、幸子さんの転居ハイが止んでいなかった頃、樹里さんは、長年世話をし続けてきた義母から言われてしまったという。
「やっぱり、あんな鈍感な息子でも、いるだけマシよね。
頑張って育てた甲斐があったわ。
おかげで、こうして晩年に一軒家で住めて。
でも、あなたは誰も育てていないから、不幸よね。
仕事ばっかり、本ばっかりじゃ、お金や知識は増えても、それだけ。
息子も、あなたと結婚しても、仕事で出かけてばかり。
こんなんじゃ、戸籍上の夫がいるとしても、まるで役に立たない。
私のように、夫に死なれて居なくなるよりも、不幸なんじゃない?
愛のない家庭しか築けなかったって、ほんと可哀想。
そもそも、息子は、あなたを愛しているのかしら?
ああ、あなたも別に息子を愛してるわけじゃないから、良いのかしら。
でも、愛のない結婚をしてるだなんて、それだけで、あなたの人生、失敗よね」と。
そうしたセリフを耳にした樹里さんは、その時は無言だったが、怒りに震えたという。(ちなみに、幸子さんの遺した日記には、このセリフはまったく記されていない。言った本人は、すっかり忘れているのだろう)
その日から、義母の幸子さんに対する復讐に燃えたのだった。
それまでは普通の電動ベッドだったが、その中に電磁波発生装置を仕込み、ただでさえ多かった椋鳥をN公園から追い立てて増やし、さらに椋鳥対策と称して、超音波発生装置やソーラーパネルを買い込んで、電線や電飾をベランダに這わせ始めたーー。
樹里さんは、強くハンカチを握り締める。
「今まで、長きに渡って、頑張って尽くしてあげたのに、私に感謝の言葉一つもなく、
『仕事ばっかり、本ばっかりじゃ、お金や知識は増えても、それだけ』ですって?
『愛のない家庭しか築けなかったって、ほんと可哀想』とか、『愛のない結婚をしてるだなんて、それだけで、あなたの人生、失敗よね』とかーー。
何なの、そのセリフ。
私の大切な時間を、くだらない用事で奪っていく当の本人から、どうして私がそんなふうに悪し様に言われなければならないの!?
ふざけるな! 必ず報いをくれてやる!
ーーそう思って、いろいろと画策したのよ。
それはもう、その計画の実行こそが、私の生き甲斐になるほどに。
でも、まさか、その結果、お義母様がフクダのオヤジと出会うことになるなんて。
なんと皮肉なことでしょう!
ほんと、人生はままならないわ。
まさか、お義母様が、最後の最後に、昨日今日、知り合ったばかりの赤の他人の男にのぼせ上がって、全財産を献上しようとするなんて。
しかも、私に対する悪口まで言い添えて。
私は学業も頑張ってきて、資格を取り、仕事を続けてきたことを誇りに思ってきた。
お義母様なんか、パートをしていただけの、職業婦人とはとても言えない、低スペックの女だったじゃないの!
私の手料理の悪口を言って、許せない!
毎年、義母の誕生日や母の日には、実家の母よりも高価なプレゼントを贈ってきた。
生活にかかる光熱費も、代わりに支払ってあげていた。
仕事にかまけて不在がちの夫に代わって、柳原家を支えてきたのは、文字通り、この私、柳原樹里だったというのに。
恩を仇で返すとはこのことです。
公園での散歩だって、私が勧めてあげたのに。
まさか、こんなことになるなんて、ほんとうに腹が立つ……」
「でも、花壇を荒らしたり、お花の苗を引っこ抜くような真似は必要ないでしょう?
犬の糞を玄関に捨てたり、おばあさんが出したはずのゴミ袋をわざわざ戻したり。
夜中に、泣いたり、騒いだり、悲鳴をあげたりしたのも、あなたでしょう?
幸子おばあさんを、近所と疎遠にさせすぎたんじゃありませんか」
「あら。それの、どこが悪いの?
あの女は、健気に尽くしてきた私を愚弄したのよ?
現に、はしたない小娘みたいに、あんなオヤジとのラブロマンスに浮かれてしまうほど、尻軽な女なんですよ?
許せるものですか。
私に犯した仕打ちに相応しい程度には、苦しむべきなのよ!」
「でも、おかげで、幸子おばあさんは疑心暗鬼になり、よけいに福田恒雄さんとのロマンスにのめり込むようになった……」
おほほほ!
と樹里さんは、のけぞりながら笑声をあげた。
「わかってないわ、あなた。
あのオヤジは、義母のことを迷惑に思っていたのよ。
本音では、私に色目を使って、私となら付き合っても構わない、と思ってたぐらいよ。
あの目付きを見ただけで、私、わかるんだから。
ざまあないわね。
私に色目を使うあのオヤジは、義母から求愛されるのを心底、嫌がっていた。
女にとって、恋焦がれるオトコから避けられるほど、辛いことはないんだから!」
「そこまでわかっていながら……」
竜胆光太郎は、さらに続けて(女同士の争いは、なんて残酷なんだ)と声に出しそうなところを、グッと堪える。
そうした若い青年社長の姿を睥睨しつつ、樹里さんは顔を上気させて話した。
「お義母様ったら、
『せっかくお洒落なお屋敷を買ったんだから、福田さんに来てもらいたい。そのうち来てくれるわよね!?』
と何度も私に問いかけてきたわ。
私は、その度に、お義母様の手を握り締めて、言ってあげたものよ。
『きっと来ます。照れておられるだけですよ。
フクダさんは九州男児ですからね。
お義母様にプロポーズなさるときは、堂々としたいと思っておられるはず。
今しばらくの辛抱です。待つことも女の嗜みですから』と。
ったく、滑稽ったら、なかったわ。
そんな愚かで、哀れな姿のまま、いつ死ぬか、いつ死ぬかと思いながら待つのは、楽しかった。
無駄に高くつく電気代も苦にならないほどにね。
おほほほほ!」
柳原樹里は狂ったように笑い続けた。
その瞳には、涙が溢れていた。
その涙は、とても勝利の涙には見えなかった。
◇◇◇
売主代理の柳原樹里さんが立ち去った後ーー。
売買関係の書類を整理しつつ、私、神原沙月は改めて、柳原幸子おばあさんが遺した、
『私の全財産、この家も含めて、すべて婚姻に同意してくれた福田恒雄さんにあげたいーー』
という言葉に、想いを巡らしていた。
私は誰相手ともなく、呟いた。
「せっかく買い上げたのに、この遺言書があったとなると、ほんとうなら、あのお屋敷は、福田さんに取り上げられちゃうのかしら?」と。
間髪入れずに、ソファに寝そべる竜胆光太郎社長が声をあげた。
「そんなこと、ありえないね!
まず第一に、福田恒雄さんは、幸子さんとの『婚姻に同意』していない。
それに加えて、そもそも、これは正式な『遺言書』とは認められないからね。
この走り書きには、『遺言書』とは何処にも明記されていない。
しかも、日付もなければ、執筆者である柳原幸子さんの名前も記載されていない。
印鑑も押されていない。
封筒に入ってはいたが、封もしてないし、封筒に封印も押されていない。
正式な遺言書と言える状態ではなかった。
そして今まで、誰にも見つかっていなかった。
僕以外にはーー」
竜胆社長は半身を起こすと、その書状をビリビリビリと破く。
「ああ!? 良いんですか!?」
と慌てる私に、破いた書状をゴミ箱に放り込みつつ、竜胆社長は言い放った。
「もちろんさ。
僕は、あの事故物件に落ちていた紙切れを、ゴミとして破って捨てただけだ。
中身は見なかったーーということにする。
第一、福田恒雄は、『婚姻に同意』なんてしていなかっただろ?」
「でも、これほどの邸宅とお庭が手に入るとなるとーー」
「そうだね。
濡れ手に泡の状態で、立派な邸宅が手に入ると知ったら、さすがの福田さんも、『幸子さんと結婚を約束していた』と言い出すかもしれない、って?
でも心配ない。
さっき言った事情で、アレは『遺言書』とは認められないし、現に、こうしてゴミ箱に捨ててしまったのだからね。
もっとも、あの福田さんだったら、何もできないさ。
実際にあの物件に住んでみると、近所での幸子おばあさんの悪評を耳にするだけで、気後れするだろう。
それに、おばあさんの息子さんとも、遺産相続を巡って揉めたくはないだろうし。
ああいう偉そうに振る舞うオトコに限って、世間からの評判を気にするものなのさ。
まあ、言ってみれば、僕の機転によって、将来の禍根を除いてやった、というわけだ」
「なんだか、虫の良い言い草ですね」
と軽く笑うと、社長は不機嫌そうになって口を窄める。
「構うものか。
あんな紙切れを破ったところで、亡くなった柳原幸子さん以外、誰も困らないんだ。
実際、幸子さん自身も、福田さんの真の姿を直視さえしていれば、自分であんな紙切れなんか破り捨てているに決まってるさ。
ーーというか、自分の恋路や妄念に執着するばかりで、介護される側が、介護してくれる人に対して感謝の念を忘れる事例が、実際には多すぎるよな。
それだから、老人の介護はごめんだって思う親族が後を絶たないんだ。
なぜか、ドラマで描かれることは、ほとんどないけど。
まったく、我儘な年寄りを相手にするのは、誰にとっても大変だよ」
「でも、『遺言書』と指定されていなかったのは幸いでしたね」
「たしかに。
福田さんから本格的にプロポーズされてから、それ次第で、何か書き足そうとしていたのかもしれないね、幸子おばあさんは。
でも、寝てる間に心臓がやられてしまったから、それも叶わなかった……」
「でもーーやっぱり、たとえ直接には手を下していないとしても、樹里さんの幸子さんに対する『未必の故意』ぐらいは、立証できるんじゃありませんか?」
「未必の故意」ーー犯罪結果が発生すると思いながらも積極的に無視を決め込むことをさす。
今回で言えば、明確な殺意がなくとも相手が死ねば良いと思い、その可能性が豊かな状態で放置していることだ。
樹里さんは、幸子さんのペースメーカーが誤作動するための罠を散々仕掛けておいて、「死ぬかもしれないけど、それが何か?」とばかりの態度でいたことは明白だ。
こうした態度は、十分、意図的な犯罪として処断されるべきはずだ。
物的証拠も揃っている。
超音波や電磁波の発生装置などの証拠品は、清掃業者にお願いして保管してもらっている。
あくまで間接的ながら、樹里さんの幸子さんに対する「殺意」は立証可能に思われた。
が、竜胆社長は溜息を吐きつつ、大きく頭を振る。
「あの程度の証拠じゃ、物件購入の値段交渉の道具にするのがせいぜいだろうさ。
頭が回るんだよね、あの樹里さんは。
これらの機械や製作部品のたいがいをネットで買ってるんだけど、支払いも受け取りも、名義が全部、お義母さんの『柳原幸子』になっているんだ。
おそらく、警察か何かに問い詰められたら、
『お義母様が勝手に買っていて、私は知らなかった』
と言い張るつもりなんだろう。
『あくまで椋鳥除けのためだと思ってました』って付け加えてね」
「ああ、なるほど」
「それに、類似事件の判例とかを僕は知らないんだけど、これらの機器のせいでペースメーカーが停止したと決め付けることができるかどうか。
特にベッド下の機械については、実際に電磁波が発生するかどうかを計測してないからね。
樹里さんが、後ろ暗い目的で仕掛けたのは間違いないけど、彼女自身も指摘していたように、ほんとうに電磁波が発生してたら、幸子さんがあれほど生き永らえたかどうか、怪しいのも事実だ。
超音波発生装置についても、メーカー製品だから確実に超音波が発生していただろうけど、外のベランダに置いてあったからね。
椋鳥があれほど群れている現場で、あくまでその機械が、幸子さんの心臓を狙ったモノだったと断定できるかわからない。
それに、森の中から椋鳥を追い立てて集めるなんて手法も、意図的に実行できることとは、通常、思われないんじゃないの?
あくまで、そのような結果を引き起こすことができたから、逆算的に推測できるってだけで、高確率で何度も再現できる状況とは思えない。
だから、犯行を立証するのは難航するんじゃないかな。
要するに、僕が暴いたのは、樹里さんの幸子さんに対して(『未必の故意』レベルとはいえ)明確に持っていた『殺意』と、それに基づいた行動だけであって、幸子さんのほんとうの死因ではないんだ。
ということで、僕だけじゃなく、樹里さんですら、今回の事件は『殺人事件』だと思ってるけど、結局は、僕の『妄想』だと片付けたほうが無難なんだよ」
社長はそう語ってから、売買契約書の写しに黄色い蛍光ペンで四角形を描いてから、ブツブツと呪文めいた言葉を囁いていた。
そのさまを見ながら、私に紅茶を淹れてくれた藤野亨先輩が、
「今回は立派な邸宅で、ほとんど内装に手を加えるところがないんでしょ?
リフォーム担当の沙月さんとしては、楽が出来て良いんじゃないの?」
と笑いかける。
私は、
「コーディネーターとしては、あっさりそれを認めるわけにはいかないのよ」
と頬を膨らませる。
そして、紅茶を口に含みつつ、例の物件の庭やベランダ回りの改装手順について想いを巡らせるのだった。
◇◇◇
ちなみに、これよりわずか十日後ーー。
何があったか知らないが、幸子おばあさんの息子である柳原真司と、その妻の樹里が、突然、熟年離婚したという。
真司さんは相変わらず海外に出張してばかりで、樹里さんはアラフィフという年齢で、東京へと出て行ってしまったらしい。
それ以降の動向は知らない。
(了)




