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第三話
仁禮は、ゆっくりと彼女の前に立った。
警察官の制止も、説明も、耳には入らない。
ただ、彼女の視線だけが気になった。
血に汚れた服。
乾ききらない赤。
だが、どこにも致命的な傷は見当たらない。
医師としての目が、先に動く。
「……名前は?」
問いかけると、彼女は一瞬だけ眉をひそめた。
不機嫌そうに視線を逸らし、それから――仁禮を見た。
その瞬間、空気が変わった。
恐怖でも、警戒でもない。
まるで“確認”するような目だった。
「……エリナ」
小さな声だった。
だが、はっきりとした響きがあった。
仁禮は、息を詰める。
この声を、知っている気がした。
理由は分からない。
記憶にも、記録にもない。
それでも、確かに――
どこかで聞いたことがある。
「お腹、空いた」
エリナは、そう言って仁禮を見つめた。
助けを求める声ではない。
要求でもない。
ただの事実を告げるように。
目を逸らせなかった。
医師として。
そして、マザー・グレースを知る人間として。
「……食事は、終わってないのか」
エリナは、何も答えなかった。
代わりに、机の上に置かれた皿へ、ちらりと目を向ける。
そこには、
すでに冷えた――牛肉の残骸があった。




