第十七話
地下研究室を出たころには、
夜はすっかり深まっていた。
サミュエルは何も引き止めなかった。
「今日は帰りなさい」
それだけだった。
⸻
車の中。
街灯が流れていく。
エンジン音だけが低く響く。
仁禮はハンドルを握ったまま、
何も言わない。
助手席で、エリナは窓の外を見ている。
ガラスに映る自分の顔。
「……くろいね」
「夜だからな」
少し間。
エリナがぽつりと聞く。
「クラークって、なに?」
仁禮は一瞬、言葉に詰まる。
「……昔の家の名前だ」
それだけ答える。
エリナは小さく「ふうん」と言う。
また沈黙。
信号が赤に変わる。
車が止まる。
エリナが、膝の上で手を組む。
「ねえ」
「うん」
「もし、みんながたすかるっていっても」
仁禮の指がわずかに強くハンドルを握る。
「……どういう意味だ」
エリナは前を見たまま。
「おとうさんと、おかあさんがね」
声は小さい。
でも、はっきりしている。
「だれのものにも、ならなくていいって」
仁禮は何も言えない。
信号が青になる。
車がゆっくり動き出す。
エリナは続けない。
ただ、窓の外を見ている。
しばらくして、もう一度だけ。
「やくそく、したから」
それだけ。
理由も、説明もない。
でも読者だけが分かる。
彼女は選ぶつもりだ。
救いではなく。
約束を。
車は夜の街を進んでいく。
ビルの灯りが流れ、
街路樹の影がフロントガラスを横切る。
しばらく無言が続いたあと、
仁禮がわざと軽い声で言った。
「ご飯、何が食べたい?」
エリナは窓から顔を離す。
一瞬だけ考えるようにして――
ぱっと目を上げた。
「……にく!」
その目が、ほんの少しだけ光る。
さっきまでの静かな空気が、嘘みたいだった。
仁禮は思わず笑う。
「やっぱりそれか」
「おいしかった」
素直な声。
「もういっかい」
「そんなに好きか」
こくこくと頷く。
信号を曲がりながら、仁禮が言う。
「じゃあ家に帰ったら作ろうか」
エリナの表情が、ほんのわずかに緩む。
「ほんと?」
「ああ。本当」
「いっぱい?」
「……ほどほどにな」
エリナは、ふっと小さく笑う。
その笑顔は、
国家の管理対象でも、
クラーク家の血でもない。
ただの子どものような人だった。
「ごはんのあと、ねる」
「いいな、それ」
「いっしょに?」
仁禮は少し驚き、それから優しく答える。
「隣の部屋だ」
「……ちかい?」
「近い」
「じゃあいい」
車は静かに住宅街へ入る。
夜の風は冷たい。
だが車内には、
ささやかな温度があった。
血の話も、国家の話も、
いまは遠い。
ただ。
帰ったら肉を焼く。
それだけの約束。




