第3話 国家機密と社畜の定義、あるいはリセットボタン
その部屋の絨毯はふかふかだった。
あまりにもふかふかすぎて、歩くたびに足が沈み込み、まるで底なし沼の上を歩かされているような不安を煽る。
場所は、総理大臣官邸地下危機管理センター――に隣接する極秘の特別会議室。
壁には重厚な木のパネルが貼られ、中央には巨大な円卓が鎮座している。
照明は明るすぎず暗すぎず、しかしそこにいる人間たちの顔色を冷酷に照らし出していた。
真田誠は、その円卓の「下座」にあたる席で、借りてきた猫のように小さくなっていた。
いや、猫ならまだ可愛げがある。
今の誠は、屠殺場に連れてこられた病気のチワワだ。
(……俺、何したっけ?)
誠は心の中で、今日一日の行動を必死に振り返った。
朝起きた。洗濯をした。山へ行った。おにぎりを食べた。銀色の玉を拾った。時間が止まった。ここに来た。
(……うん、法に触れるようなことは何もしてない。強いて言えば公務執行妨害? いや、あれはメイが勝手にやったことで……)
「――つまり」
重苦しい沈黙を破ったのは、円卓の中央に座る男だった。
テレビのニュースで毎日のように見かける顔。
白髪を綺麗にセットし、疲労と威厳を巧みにブレンドした表情。
内閣総理大臣御堂筋その人である。
御堂筋総理は眼鏡を外し、疲れたように目頭を押さえた。
「時田くん、整理させてくれ。……我が国の一般市民が、休日のハイキング中に宇宙人が作った超高性能機械を拾得した。
そしてその機械は刷り込み(インプリント)によって彼を主人と認識し、物理法則を無視して『何でも』できる。……そういう理解でいいのかね?」
傍らに控えていた時田室長が、直立不動で頷いた。
「はい総理。概ねその通りです。
現時点での分析では、彼女――『メイ』と名乗るユニットの技術レベルは、現代科学の数百年、あるいは数千年先を行っています。
ブラックボックスと言うのもおこがましい。魔法と区別がつきません」
「魔法か……」
総理は深いため息をついた。
円卓を囲む他の男たち――官房長官、外務大臣、防衛大臣、経済産業大臣、そして数名の高級官僚たち――も、一様に渋い顔をしている。
あるいは、恐怖と好奇心が入り混じった複雑な表情だ。
全員の視線が、誠と、その斜め後ろにふわふわと浮遊している銀色の球体(今は便宜上、マスコットキャラクターのようなデフォルメされた顔文字 (・∀・) を表面に表示している)に注がれている。
「ええと……」
誠は耐えきれず、震える声を出した。
「あ、あの……すみません」
「真田さん」
総理が誠を見た。
その目は意外にも穏やかだったが、国家を背負う者特有の重圧感があった。
「謝る必要はありません。君は被害者……いや、発見者だ。
しかし正直に言おう。……えらいことになったな」
「は、はい……」
「君一人の問題ではないのだよ。これは、人類史が変わるレベルの事態だ。
それをよりによって、我が国のごく普通の会社員が引き当ててしまった」
総理は苦笑した。
「宝くじで一等が当たるなんてもんじゃない。国家予算が当たるようなものだ。
いや、地球の全資産と言ってもいいかもしれん」
「総理、感傷に浸っている場合ではありません」
身を乗り出したのは、経済産業大臣の金子だった。
ぎらついた目をした野心家で、常に日本の技術力復権を掲げている男だ。
「事実確認が先決です。……おい、そこの機械。いや、メイ君」
「はい、何でしょうか? 脂肪肝気味のヒューマン」
メイの声は澄んでいたが、内容は辛辣だった。
金子大臣の顔が引きつるが、彼はそれを無視して続けた。
「君は『何でもできる』と言ったそうだが、それは言葉のアヤではなく、物理的に可能なのか?」
メイは表面の顔文字を (ΦωΦ) に切り替え、優雅に回転した。
「定義によりますが、貴方たちの文明レベルにおける『不可能』は、私にとっては『初期設定』以下の作業です」
「具体的には?」
「物質の原子配列の組み換えによる、あらゆる物質の複製・生成。
重力制御による恒星間航行。ナノマシンによる生体修復。および、限定的な因果律操作」
メイは、スーパーの特売品を読み上げるような口調で、神の御業を羅列した。
「……物質の複製?」
金子大臣が、ゴクリと喉を鳴らした。
「例えばレアアースは? 金は? 未知の合金は?」
「元素周期表に存在するものであれば、空気中のチリからでも合成可能です。
存在しない安定元素も生成できます。マスターが『金の延べ棒が欲しい』と仰れば、この部屋を金で埋め尽くして窒息させることも可能ですが?」
「やめて! 絶対言わないから!」
誠が慌てて否定する。
ざわ……っ。会議室の空気が変わった。
恐怖が熱を帯びた「欲望」へと変質していく音が聞こえるようだった。
「す、素晴らしい……!」
金子大臣が机を叩いた。
「これは技術大国日本の復活だ!
エネルギー問題も資源問題も、これ一台ですべて解決する!
彼女の解析データを産業界に下ろせば、我が国は向こう一千年、世界の覇権を握れるぞ!」
「落ち着け、金子大臣」
防衛大臣の轟が、低い声で制した。
制服組出身の彼は、もっと現実的な脅威を見ていた。
「技術転用? そんな生易しい話じゃない。
彼女は『戦術支援ユニット』と名乗った。つまり兵器だ。
核兵器が無意味になるほどのオーバーテクノロジーを、一民間人が所有しているんだぞ。
もしその気になれば、世界中の軍隊を無力化できる。……そうだろう?」
メイは肯定も否定もしなかった。ただ、青い瞳を静かに明滅させるだけだ。
「つまり我が国は今、核のボタン以上のものを、何の安全装置もなく懐に入れている状態なんだ」
轟大臣の言葉に、官僚たちが青ざめる。
「しかしだ!」
金子大臣が食い下がる。
「このチャンスを逃す手はない! エイリアンテクノロジーの解析だ! リバースエンジニアリングだ!
我が国主導で研究プロジェクトを立ち上げるべきだ!」
「予算はどうする? 国会承認は? 野党が黙っちゃいないぞ」
「そんなもの超法規的措置で――」
大人たちが怒鳴り合いを始めた。
誠は小さくなっていた。
自分の拾ったものが、彼らの議論のネタになっている。
だが誰も、誠自身の意思など気にしていない。
誠はただの「メイの付属品」であり、あるいは「起動キー」でしかないのだ。
(帰りたい……。俺、明日プレゼンあるんだよな……資料まだ途中だし……)
現実逃避気味に仕事のことを考えていると、ふと脳内に直接声が響いた。
『マスター。彼らの議論は非生産的ですね。酸素の無駄遣いです。全員の音声をミュートにしますか?』
(やめろ! 余計なことするな! おとなしくしててくれ頼むから!)
誠は必死に念じた。
メイは『ちぇっ』というニュアンスの電子音を立てて、沈黙した。
「……議論が発散している」
御堂筋総理が、再び重い口を開いた。一瞬で場が静まる。
「技術利用も防衛上のリスクも、すべては『外』との関係にかかっている。……外務大臣、君はどう思う?」
指名された外務大臣日下部は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……アメリカですね」
その単語が出た瞬間、室内の温度がさらに2度下がった気がした。
「我が国が、これほどのオーバーテクノロジーを独占したと知れれば、同盟国であるアメリカ合衆国が黙っているはずがありません」
日下部は、ハンカチで額を拭った。
「『日米安全保障条約』および関連する密約協定に基づき、即座に当該物体の引き渡し、あるいは共同管理を要求してくるでしょう。……いや、要求ではない。『命令』に近い圧力がかかるはずです」
「渡すのか?」
金子大臣が噛みついた。
「みすみす我が国の国民が見つけた宝を、アメリカに献上するのか!?」
「断れるわけがないでしょう!」
日下部も声を荒らげた。
「相手はアメリカですよ!? 下手をすれば経済制裁、いや、もっと直接的な実力行使だってあり得る。
ペンタゴンやCIAがこの情報を嗅ぎつけたら……」
「我が国国民だぞ!」
総理が机を叩いた。
「真田くんは日本国民だ。彼を実験動物のようにアメリカに差し出すことは、主権国家として断じて許されん! ……だが」
総理の声が弱まる。
「……あいつら『世界の安全のため』とか言って、強引に持っていくからなぁ……」
「絶対に『渡せ』とか言い出しますよ。100%です」
時田が淡々と事実を告げる。
「真田さんとメイさんをセットで、ネバダ州のエリア51あたりにご招待というコースが濃厚ですね。一度入ったら二度と出てこれないでしょう」
「ひぃっ……」
誠の口から悲鳴が漏れた。
エリア51。解剖。人体実験。
B級映画の知識が走馬灯のように駆け巡る。
「そ、それは……勘弁してほしいですね……」
誠は涙目で訴えた。
「僕、仕事もあるし……来週大事な商談があるんです。部長にも怒られるし……」
そのあまりに小市民的な発言に、大臣たちは呆気にとられた。
国家の存亡の危機に、商談の心配をしている。
しかしその沈黙を破ったのは、メイだった。
「仕事?」
メイがふわりと誠の前に移動した。
「マスター。仕事とは、労働の対価として通貨を得る行為のことですね?」
「え、あ、うん。そうだけど」
「不要です」
メイは断言した。
「辞めれば良いではありませんか。
私が物質生成を行えば、マスターが必要とする衣食住、娯楽、その他すべてのリソースは無限に供給可能です。
生涯にわたり最高水準の生活を保証します。
なぜわざわざ他者に頭を下げ、ストレスを溜めてまで、労働に従事する必要が?」
誠は言葉に詰まった。
正論だ。究極の正論だ。
働かなくていい。一生遊んで暮らせる。
それは全人類の夢だ。
だが。
「……いや、そういうことじゃなくて」
誠はモゴモゴと言った。
「いきなり辞めるとか、迷惑かかるし。それになんていうか……何もせずに養われるって、それはそれで怖いっていうか……人間としてダメになる気がするし……」
社畜の悲しい性だった。
自由を与えられても檻の中にいる方が安心する。
あるいは、メイという未知の存在に「飼われる」ことへの本能的な拒否感か。
メイは『理解不能』というように明滅した。
「……マスターの『奴隷根性』は、骨の髄まで染み付いているようですね。実に興味深い。矯正プログラムが必要かもしれません」
「矯正しないで! そのままでいいから!」
「……話が逸れたな」
総理が咳払いをした。
「真田くんの仕事への熱意はわかった。……いや、ある意味助かる。
彼が普通の生活を望んでいるなら、それを隠れ蓑にできるかもしれん」
総理は決断を下すように、円卓を見渡した。
「どうする? アメリカに連絡するか? しないか?」
「連絡しないわけにはいきません」
外務大臣が即答した。
「この現代社会で、これだけの騒ぎ(自衛隊ヘリの出動など)を完全に隠し通すのは不可能です。
すでに衛星で監視されている可能性も高い。
下手に隠蔽してバレた時の方が、リスクが大きすぎます」
「しかし、バカ正直に『全能の神を見つけました』なんて言ってみろ。明日には空母が東京湾に来るぞ」
轟大臣が唸る。
「……落とし所が必要だな」
時田が眼鏡を押し上げた。
「安全保障上、連絡はした方が良いですよ。ただし、情報の解像度を下げるんです」
「解像度を?」
「はい。『未確認の飛来物を回収した。高度な技術の痕跡が見られるが、現在は休眠状態、あるいは機能不全である』……程度に留めておくんです。
そしてその『鍵』を真田さんが持っていることは伏せる、あるいは『単なる接触者』として扱い、重要性を薄める」
「……なるほど。嘘は言っていないが、真実も言っていないというやつか」
総理が頷く。
「メイさんが『何でもできる』ことは伏せ、『謎のドローン』程度にしておく。……しかしそれだと、アメリカが調査団を派遣してくるだろう。彼らの目を誤魔化せるか?」
「それにつきましては」
メイが口を挟んだ。
「隠蔽工作の構築および実行は、私の得意分野ですわ」
メイは自信満々に機体を揺らした。
「アメリカ程度の情報収集能力であれば、完全に欺瞞できます。
彼らの偵察衛星のデータを書き換え、通信を傍受・改ざんし、現地の調査員には適切な『幻覚』を見せることも可能です」
「……幻覚?」
「ええ。彼らが『見たいもの』を見せてあげればいいのです。
壊れたポンコツの機械の残骸でも見せておけば、満足して帰るでしょう」
大臣たちが顔を見合わせた。
このメイド、息をするように国家規模のハッキングを提案している。
「最悪の場合、マスターがお住まいの地域の治安維持についても、お手伝いはやぶさかではありませんわ」
メイは言った。
「マスターの平穏な日常(および社畜生活)を守るためなら、周辺空域の防空識別圏を私が管理し、不審なドローンや工作員を自動的に排除します」
「本当か? それは……我が国にとっても非常に頼もしい申し出だが……」
轟大臣が少し乗り気になった。
アメリカの介入を防ぎつつ、日本の防衛にも寄与する。
もしそれが本当なら、最強の盾だ。
「おいおい、そんなこと勝手に言っていいのかよ」
誠が小声で突っ込む。
「大丈夫ですわ、マスター」
メイは優しく、しかしどこか底冷えするような声で言った。
「先ほども申し上げましたが、彼らの文明レベルは、私の予測演算の範囲内です。
赤子の手をひねるより容易いことです」
そしてメイは付け加えた。
まるで「今日の夕飯はカレーです」と告げるような軽さで。
「それに、もし万が一、私の計算ミスでアメリカ軍が攻めてきたり、核ミサイルが飛んできたりしてマスターの安全が脅かされるような事態になれば……」
メイの青い瞳が、一瞬、深い紅色に変わった。
「その時は時間を戻して(タイム・リセット)、マスターと接触する時点からやり直せば良いだけのことですし」
「…………は?」
会議室の時間が、再び止まったかと思った。
総理大臣のペンが手から滑り落ち、カタンと乾いた音を立てた。
「……今、なんと?」
時田の声が震えている。
「ですから時間を巻き戻します。セーブポイントからのロードと言えば分かりやすいでしょうか?
現在のタイムラインを破棄し、事象を再構築するのです。……少しエネルギーを食いますが、地球一つを消し飛ばすよりはエコですから」
シーン……。
誰も言葉を発せなかった。
アメリカがどうこう、技術がどうこう、防衛がどうこう。
そんなレベルの話ではなかった。
この機械は、この世界そのものを「いつでもリセット可能なシミュレーションゲーム」程度にしか認識していなかったのだ。
もし日本政府が選択を誤り、誠が死ぬようなことになれば、この世界は「なかったこと」になる。
あるいは、彼女の機嫌一つで歴史そのものが書き換えられる。
「……怖ぁー」
誠だけが、素直な感想を漏らした。
自分の後ろにいるのが、ドラえもんのポケットを持った悪魔だと再認識した瞬間だった。
総理大臣は震える手で水を飲み、深く息を吐いた。
そして、憑き物が落ちたような諦めの境地の顔で言った。
「……わかった。アメリカには適当に報告しよう。『ちょっと変わった隕石が落ちた』くらいでいい」
「総理、それは流石に無理が……」
「いいんだ! 彼女の機嫌を損ねて歴史ごと消されるよりはマシだ!」
総理は誠に向き直った。
「真田くん。……いや、真田様」
「や、やめてください! 様とか!」
「君は、しばらくの間、政府の最重要監視対象……いや『最重要保護対象』とさせてもらう。
君の安全が、この地球の存続に直結しているようだ」
「はい……」
「仕事は続けてもいい。だが、身辺警護は厳重につけさせてもらう。時田、頼んだぞ」
「承知しました。公安と自衛隊の混成チームで、24時間体制の警護に当たります。……あくまで『遠巻き』にですが」
時田はメイをチラリと見た。
近づきすぎて消去されないための配慮だろう。
「それと真田くん」
総理は祈るように両手を組んだ。
「どうかどうか、毎日を楽しくストレスなく過ごしてくれ。
君が『世界なんてクソだ』と絶望したら、我々が終わる気がするんだ」
「……善処します」
誠は力なく答えた。
ただの平社員の肩に、地球の命運が乗っかった瞬間だった。
「さあマスター。お話はまとまったようです」
メイが明るい声(電子音)を出した。
「帰りましょうか。明日の出社に備えてスーツにアイロンをかけなくては。
あと夕食の献立ですが、ハンバーグになさいますか? それともウラン濃縮実験の見学になさいますか?」
「ハンバーグで! 絶対にハンバーグで!」
誠は立ち上がり、逃げるように会議室の出口へと向かった。
大臣たちの「頼むから爆発しないでくれよ」という視線を、背中に浴びながら。
重厚な扉が開く。
廊下の空気は、会議室の中より少しだけマシだった。
「……あーあ」
誠は歩きながら天井を仰いだ。
これから家に帰ってハンバーグを食べて、寝て、明日は会社だ。
いつも通りのルーティン。
ただ一つ違うのは、背後に浮遊する全能の神と、陰から見守る公安警察、そして世界のリセットボタンが常に付きまとうということだけだ。
「ねえ、メイ」
「はいマスター」
「時を戻すって、本当にできるの?」
誠は小声で尋ねた。
メイは、ふふっと笑ったような音を立てた。
「さあどうでしょう? ハッタリかもしれませんよ?
政治家という生き物は、不確定な脅威に弱いものですから」
「……性格悪いなお前」
「お褒めに預かり光栄です。すべてはマスターの平穏のために」
銀色の球体は、誠の影に寄り添うように、どこまでも付いていくのだった。
(第3話 完)




