第2話 その「奉仕」は国家安全保障上の脅威につき
世界はまだ止まっていた。
より正確に言えば、真田誠と銀色の球体「メイ」、そしてその半径五十メートル圏内にある「空気」以外のすべてが、完全に静止していた。
誠の手の中にあるティーカップからは、湯気が立ち上っている。
ダージリン・セカンドフラッシュ。
コンビニのおにぎりしか食べていなかった誠の胃袋に、高級茶葉の芳醇な香りと渋みが染み渡る。
それは皮肉なほどに美味で、心を落ち着かせる効果があった。
「……美味いな」
「お気に召して光栄です、マスター。水分子の構造を最適化し、茶葉のポテンシャルを極限まで引き出しました」
メイは空中に浮遊したまま、誇らしげに(どこか得意げに)機体を揺らした。
誠はカップをソーサーに戻し、改めて周囲を見渡した。
目の前には、警棒を振り上げたまま固まっている若い警官。
その奥には、銃口をこちらに向けたまま彫像と化したベテラン警官。
舞い上がった砂埃の一粒一粒までもが、空中でダイヤモンドダストのように輝き、停止している。
美しい。
だが異様だ。
これは現実逃避のための妄想ではない。圧倒的な「暴力」の、形を変えた表現だ。
誠は深呼吸をした。紅茶のおかげか、パニックのピークは過ぎていた。
サラリーマンとしての「事態収拾」の本能が働き始める。
「なぁ、メイ」
「はいマスター。クッキーも焼けますが?」
「いや、いらない。……これ、戻してくれないか?」
誠は、目の前で固まっている警官を指差した。
「彼らにも家族がいるだろうし、仕事でやってるだけなんだ。ずっとこのままってわけにはいかないだろう?」
メイの青い瞳が、誠を見つめた。
数秒の沈黙。まるで、聞き分けのない子供の要望を吟味する母親のような間だった。
「マスターがそう望まれるのであれば」
メイの声には、少しだけの不服と、絶対的な服従の色が混ざっていた。
「私の優先順位の第一位は、マスターの心身の安寧です。
彼らを再起動することで、再び騒音と敵意がマスターに向けられる可能性が高いですが、それでもよろしいのですか?」
「……話せばわかるさ。たぶん」
自信はなかった。
だが、このまま永遠に時を止めて山に引きこもっているわけにもいかない。
明日は月曜日なのだ。会社に行かなければならない。無断欠勤は評価に響く。
「承知いたしました。空間固定解除、実行します」
メイが短く告げた。
その瞬間、世界に「音」が戻ってきた。
パチン。
指を鳴らすような乾いた音と共に。
「うわあああっ!!」
叫び声が再開した。
警棒を振り下ろそうとしていた若い警官は、突然復活した重力と運動エネルギーに体勢を崩し、何もない空間を空振りして地面に無様に転がった。
「確保ぉ……ぐっ!?」
「う、撃つぞ! 公務……ッ!?」
銃を構えていた警官もまた、突然視界の中の景色が変わった(誠が紅茶を飲み終わっている)ことに混乱し、後ずさりして尻餅をついた。
風が吹き抜ける。
止まっていた木の葉がざわめき、砂埃が地面に落ちる。
そして彼らの目前には、悠然と紅茶のカップとソーサーを持ったまま立ち尽くす誠と、その傍らに浮遊する銀色の球体があった。
「な、何が起きた……?」
ベテラン警官が、震える手で拳銃を握り直しながら呻いた。
彼の記憶の中では、まだ警棒が振り下ろされる直前だったはずだ。
だが気づけば部下は転がり、犯人(と思しき男)は優雅にお茶をしている。
時間の連続性が欠落している。脳が理解を拒絶する現象。
「ば、化け物……」
誰かが呟いた。
その言葉が、その場の全員の認識を固定した。
これはただの不審者とドローンではない。人智を超えた何かだ。
「ひ、退避! 全員退避ぃ!」
ベテラン警官が、裏返った声で叫んだ。
もはや逮捕や確保といった警察の職務遂行の範疇を超えている。本能的な恐怖が彼らを突き動かした。
「パトカーに戻れ! 本部に……いや機動隊、いや自衛隊だ! 応援を呼べ!」
警官たちは蜘蛛の子を散らすようにパトカーへと殺到した。
ドアを乱暴に閉め、ロックをかける。
だがエンジンをかけて逃げ出すことはしなかった。
彼らの矜持がそれを許さなかったのか、あるいは「背中を見せたらやられる」という野生の勘が働いたのか。
彼らは車内から無線機を鷲掴みにし、狂ったように報告を叫び続けていた。
駐車場には、奇妙な膠着状態が訪れた。
誠とメイを取り囲むように数台のパトカーが遠巻きに停車している。
車内からの視線は恐怖に満ちているが、誰も外に出てこようとはしない。
「……あーあ」
誠は空になったティーカップを持ったまま、天を仰いだ。
最悪だ。完全に「危険人物」として認定されてしまった。
「賢明な判断ですね」
メイが、涼しい顔(声)で言った。
「彼らの装備レベルでは、私に対抗できないことを学習したようです。学習能力のある個体は、嫌いではありません」
「茶化すなよ……これ、どうすんだよ」
「ご安心ください。マスターへの直接攻撃の予兆があれば、即座に殲滅いたします」
「それが一番困るって言ってるんだ!」
誠は頭を抱えた。
リュックから空のペットボトルを取り出し、代わりにティーカップとソーサーを(どう扱っていいかわからないまま)メイに手渡した。
メイはそれらを体内に吸い込むように収納した。
「帰りたい……」
「ご自宅への移送も可能ですが?」
「それをやったら、指名手配犯確定だろ……」
誠は座り込んだ。
もうなるようになれ。
彼はスマホを取り出し、会社の上司への言い訳を考え始めた。
「山で宇宙人に遭遇して遅れます」と送ったら、間違いなくメンタルクリニックの受診を勧められるだろう。
それから一時間後。
事態は、誠の想像を遥かに超える規模へと拡大していた。
バラララララララ……。
重苦しいローター音が空気を叩く。
上空には警察のヘリコプターだけでなく、迷彩塗装を施された陸上自衛隊のヘリまでもが旋回を始めていた。
地上の包囲網も様変わりしていた。
パトカーの後ろには装甲車のような厳つい車両が到着し、盾を持った機動隊員や、小銃を携行した自衛隊員たちが展開している。
登山口の駐車場は、完全に「戦場」の前線基地と化していた。
「……なぁ、メイ」
誠はアスファルトの上に体育座りをしたまま、乾いた声で言った。
「俺、ただの営業マンなんだけど」
「存じております。昨年度の営業成績は部内平均をやや下回る程度、残業時間は過労死ライン手前。典型的な代替可能な労働力です」
「うるさいな!」
メイの毒舌にも慣れてきてしまった自分が、悲しい。
「あれ全部、俺たちのためか?」
「そのようです。熱源反応多数。狙撃手が四名、森の中に配置されています。照準はマスターの頭部ではなく、私のコアに向けられていますが」
「ひっ」
誠は首をすくめた。
狙撃手。映画の中でしか聞かない単語だ。
「ご安心を。彼らの弾丸が発射された瞬間、弾道を計算し無力化します。ついでに射手の服だけを溶かすことも可能ですが、余興になさいますか?」
「絶対にやるなよ! フリじゃないからな!」
その時、重厚な包囲網の一部が割れた。
装甲車の隊列の間から、黒塗りのセダンが静かに滑り込んできた。
異質な光景だった。
迷彩服と防弾チョッキの群れの中に、場違いなほどの高級車。
車が止まり、後部座席のドアが開く。
降りてきたのは、仕立ての良いダークスーツを着た初老の男だった。
白髪交じりの髪を撫で付け、銀縁の眼鏡をかけている。
表情は能面のように読み取れないが、その目は鋭く誠たちを観察していた。
男は、周囲の自衛隊員が制止しようとするのを手で制し、たった一人で丸腰のまま誠たちの方へと歩いてきた。
「……ボスキャラのお出ましか」
誠は立ち上がった。
足が震えているのを悟られないように、拳を握りしめる。
スーツの男は、誠の五メートル手前で立ち止まった。
その視線はまずメイに向けられ、一瞬だけ驚愕に瞳孔が開いたが、すぐに誠へと戻された。
「真田誠さんですね」
男の声は、驚くほど穏やかでよく通るバリトンだった。
「は、はい」
「私は内閣情報調査室の時田と申します。……突然のことで驚かれているでしょうが、我々も驚いています」
時田と名乗った男は、わずかに苦笑いを浮かべた。
それは計算された「隙」のように見えたが、誠の緊張を少しだけ解く効果はあった。
「単刀直入にお伺いします。……この状況、説明していただけますか?」
時田は、背後の包囲網と空中のメイを交互に指差した。
「正直に話してください。我々は貴方を逮捕しに来たわけではありません。……今のところは」
最後の付け足しが怖かったが、誠に隠し立てする度胸も知恵もなかった。
「……信じてもらえないかもしれませんが」
誠は語り始めた。
週末の山道。塩むすび。空からの衝撃音。
クレーターと銀色の多面体。
そして指先が触れた瞬間の起動と、この奇妙なメイドの出現。
「……で、警察を呼んだら、彼女が勝手に時間を止めちゃって……気づいたらこうなってました」
誠の説明は支離滅裂で、あまりにも荒唐無稽だった。
「宇宙から落ちてきたメイドロボを拾った」などと、深夜アニメの第1話でももう少しマシな導入があるだろう。
だが時田は、一度も誠の話を遮らなかった。
相槌を打ち、メモを取ることすらなく、ただじっと誠の目を見て話を聞いていた。
そして誠が話し終えると、深く頷いた。
「なるほど。理解しました」
「え、信じるんですか?」
「信じるも何も」
時田は、空中に浮かぶメイを見上げた。
「現に重力を無視して浮遊し、物理法則を書き換える存在がそこにある。……そして貴方は、どう見てもテロリストの訓練を受けたようには見えない。ごく一般的な、善良な市民だ」
「そ、そうです! 善良です! 税金も払ってます!」
「ええ、調べさせていただきました。勤務態度も真面目、前科なし。……だからこそ困っているのですよ」
時田はため息をつき、眼鏡の位置を直した。
そして意を決したように、メイに向き直った。
「そちらの……『メイ』さんとお呼びすれば?」
メイは無反応だった。青い瞳は、ただ静かに時田を見下ろしている。
時田は誠を見た。
「彼女と話をしたいのですが、よろしいですか?」
誠はメイを見た。
「メイ、答えてもいいのか?」
「マスターが許可されるのであれば」
メイの声が響くと、時田の眉がぴくりと動いた。
人間と変わらない、いや人間以上に流暢で知的な発声。
「うん、いいよ。隠すことでもないし」
「承知いたしました」
メイがわずかに降下し、時田の目線に高さを合わせた。
「初めまして、地球の行政機関の代表者様。……訂正、一介の現場責任者様。私は汎用戦術支援ユニット、個体識別名『メイ』です」
時田はメイの嫌味をスルーし、冷静に問いかけた。
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。いくつか質問をさせてください。……貴方はどこから来ましたか?」
「宇宙からですわ」
即答だった。
あまりにあっさりとした答えに、後方で控えていた自衛隊員たちがざわめくのが聞こえた。
「……宇宙。それは太陽系外から?」
「座標を説明しても、現在の貴方たちの天文学レベルでは理解不能な領域です。銀河の渦状腕の彼方とでも申しておきましょう」
「何者ですか? 生命体? それとも……」
「機械という定義が最も近いでしょう。高度に発達した知的生命体によって建造された、自律思考型の支援ユニットです」
時田の顔に汗が滲んだ。
事前の想定――どこかの国の秘密兵器、あるいは未知の自然現象――が崩れ去り、「地球外知的生命体の痕跡」という最悪かつ最大のカードが引かれた瞬間だった。
「その……建造者は今どこに?」
「検索不能。数千年前に滅びました。私は長い間、休眠モードで漂流していたのです」
メイは事も無げに言った。
数千年漂流。スケールが大きすぎて、誠には実感が湧かない。
「では、なぜ真田さんを? 彼をマスターと呼んでいますが」
「初期設定です」
メイはくるりと回った。
「休眠状態から起動した際、最初に接触し、生体認証をパスした知的生命体を『マスター』として登録し、その個体の保護と幸福の最大化を最優先事項とする。……それが、私の基本プログラム(カーネル)に刻まれた絶対命令です」
「つまり、誰でもよかったと?」
「確率論的には。ですが結果として、サナダ・マコトという極めて庇護欲をそそるストレスフルな個体に出会えたことは、私のAIにとって僥倖でした」
「余計なお世話だ!」
誠のツッコミは無視された。
時田はハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
ここからが本題だ。
「貴方は……何ができますか?」
最も恐ろしい質問。
時田の声が、わずかに震えていた。
メイは青い瞳を明滅させた。
それは笑っているようにも見えた。
「ざっと、すでに地球上の全てのネットワーク、データベース、通信インフラをスキャンし、解析を完了しました」
「な……!?」
時田の表情が凍りついた。
「軍事機密、金融システム、個人のプライバシー……すべてです。構造があまりに原始的で、セキュリティと呼ぶのもおこがましい穴だらけのザルでしたので、通り抜けるのにナノ秒もかかりませんでした」
メイは優雅に続ける。
「物理的干渉能力については、先ほどお見せした局所的時間凍結の他にも、物質転送、重力制御、反物質生成、および惑星地殻の再構築などが可能です」
「惑星……地殻の……」
「ええ。マスターが『今の地形が気に入らないから平らにして』と仰れば、ユーラシア大陸を更地にすることも造作もありません」
静寂。
今度こそ完全な静寂が場を支配した。
風の音さえ止まったかのような錯覚。
「つまり……」
メイは首をかしげた。
「地球文明の未熟さに比べれば、私は『全能』と言っていいでしょうね」
神の宣言。
それを、メイドのエプロン(のような意匠)をつけた銀色の玉が言い放ったのだ。
時田は膝から崩れ落ちそうになるのを堪えた。
彼は理解した。
これは交渉ではない。
人類の首根っこを、この一人のサラリーマンと彼のペット(主人?)が握っているという現実確認だ。
もし真田誠が「世界なんて滅びろ」と願ったら、次の瞬間には人類は終了する。
核兵器のスイッチなどという生易しいものではない。
全能のジーニーが、ランプから出てきてしまったのだ。
時田は深呼吸を繰り返し、何とか理性を繋ぎ止めた。
彼ができることは、一つしかなかった。
「……なるほど。状況は、私の権限を遥かに超えています」
時田は誠に向き直った。
その目はもはや不審者を見る目ではなく、爆弾の信管を見つめる処理班の目だった。
「真田さん。そしてメイさん」
「はい」
「とりあえず、ここでの立ち話で決められることではありません。……ご同行願えますか?」
「え、どこへ……?」
誠がおずおずと尋ねる。
警察署の取調室だろうか。それとも自衛隊の基地だろうか。
時田は重々しく告げた。
「総理官邸です。緊急安全保障会議が招集されました。……総理大臣がお待ちです」
「は……?」
誠の思考が停止した。
総理大臣。テレビの中の人。日本のトップ。
「ま、マジかよ……」
誠は頭を抱えた。
昨日の夜まで、「明日の会議の資料ができていない」と悩んでいた自分が、今は国家の存亡に関わる会議に出席しろと言われている。
「め、メイ……これ、断れる?」
誠は縋るようにメイを見た。
「マスターが『行きたくない』と仰れば、ここでお茶を続けることも可能です。その場合、彼らは武力行使に出るでしょうが、返り討ちにして独立国家を樹立しますか? 『サナダ帝国』……悪くない響きです」
「行きます! 行きますから帝国とか作らないで!」
誠は叫んだ。
独立国家の王になるよりは、胃に穴が空きそうな会議に出る方がマシだ。たぶん。
「賢明なご判断です」
時田は少しだけホッとした表情を見せ、黒塗りのセダンのドアを開けた。
「どうぞ。……ああ、月曜日の出社は心配しなくて結構です。会社の方には国の方から『極めて重要な極秘任務』ということで話をつけておきますので」
「……それ絶対クビになるやつじゃん」
誠は涙目で車に乗り込んだ。
メイがその隣に、当然のように浮遊して入り込む。
重厚なドアが閉まる音は、誠にとって平凡な日常への別れの鐘のように聞こえた。
車列が動き出す。
サイレンを鳴らすパトカーに先導され、装甲車に守られながら、誠を乗せた車は東京へと向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、誠は思った。
(帰りたい。マジで帰りたい。お母さん、俺とんでもないものを拾っちゃったよ……)
膝の上で、メイが心地よさそうに青い光を点滅させていた。
「ドライブですねマスター。おやつは何になさいますか?」
世界最強の「月曜日」が始まろうとしていた。
(第2話 完)




