第17話 命の値段、株価はストップ高により測定不能
季節は巡り、冬の気配が近づく十一月。
世間は依然として、NASAが受信し続けているプロキシマ・ケンタウリからの「宇宙メール」の話題で持ちきりだった。
毎日、少しずつ解読される異星のデータ(昨日は『イカの踊り方』の動画だった)に、世界中の人々が平和な熱狂に包まれている。
だがこの日、日本のニュース番組は、宇宙の話題をトップから外した。
『――速報です。本日正午、厚生労働省はドラゴンバンクが申請していた新型医療用ナノマシン製剤、通称「D-Cell」の製造販売承認を、異例の特例承認として認可しました』
テレビ画面には、厚生労働省の会見場が映し出されている。
カメラのフラッシュが雷のように焚かれる中、大臣が震える声で宣言する。
『これは……人類の医療史におけるペニシリン以来の、いや、それ以上の革命であります』
リビングのコタツで、真田誠はそのニュースを見ていた。
手にはミカン。相変わらずの「週休3日」を満喫中だ。
「……ついに始まったか」
「はい、マスター」
対面に浮いているメイが、満足げに明滅した。
「予定より3日早いですが、ウィルが厚労省のサーバー……いえ、審査官の方々を『論理的』に説得(数億ページの安全性データ爆撃)した結果、ハンコを押さざるを得なかったようです」
「説得っていうか、データの暴力だな」
誠は苦笑した。
通常、新薬の承認には十年近い歳月と数百億円のコストがかかる。
だが今回は「数ヶ月」。あまりにも早すぎる。本来なら「拙速だ」「安全性が担保されていない」と大バッシングを受けるはずだ。
だが世論は違った。
なぜなら、治験の結果が――あまりにも「魔法」だったからだ。
時間は少し遡る。
数週間前、都内某所の大学病院、特別治療室。
そこには、末期の膵臓がんを患った一人の男性患者が横たわっていた。
すでに多臓器への転移が見られ、余命は「数週間」と宣告されている。現代医療の敗北が確定した症例だ。
「……先生。本当に切らなくていいんですか?」
痩せ細った患者が、力のない声で尋ねる。
「ええ。……信じ難い話ですが」
執刀医(というより今回は「注入医」)の加藤教授は、額の汗を拭った。
彼の手には、ドラゴンバンクのロゴが入った銀色のアタッシュケース。
中には一本の注射器と、キラキラと輝く透明な液体が入ったアンプルが収められている。
「これは『マイクロ・ロボット』です。……あなたの体に入り、悪い細胞だけを見つけて食べてくれるそうです」
「ハハ……。まるでSF映画だ」
患者は乾いた笑いを漏らした。
失うものは何もない。彼は同意書にサインをし、腕を差し出した。
「では、投与します」
プシュッ。
注射器から50ccほどの液体が、静脈へと流し込まれる。
痛みはない。ただ少し冷たい感覚が、広がっていくだけだ。
「……これで終わりですか?」
「はい。あとはモニターで監視します」
加藤教授と、見学室に詰めかけた数十名の医師たちが固唾を飲んで、PET-CT(陽電子放出断層撮影)のリアルタイム映像を見つめた。
画面には、患者の全身に散らばる「がん細胞」が赤く光って表示されている。
絶望的な光景だ。内臓のあちこちが赤く染まっている。
「投与から5分経過。……ナノマシン、循環系に乗って全身へ拡散中」
オペレーターが告げる。
その時。
画面上の「赤色」が、ふわりと揺らいだ。
「……おい、見ろ」
誰かが声を上げた。
膵臓の周りに密集していた赤い光が、まるで砂山が風に崩されるように端から消え始めたのだ。
「バカな……」
加藤教授は、眼鏡の位置を直した。
消えているのではない。「分解」されているのだ。
ドラゴンバンク製ナノマシン「D-Cell」。
その正体は、メイが設計した「生体維持用自律型重機」だ。
体内に入ったナノマシンは、Wi-Fiのようなネットワークを構築し、ウィル(AI)の統制下で標的を識別する。
『ターゲット確認:異常増殖細胞』
『処理開始:細胞膜を物理的に分解。核を無力化。残骸は血流に乗せて腎臓へ搬送』
ミクロの世界では、凄まじい工事が行われていた。
数兆個のナノマシンががん細胞に取り付き、ハサミのようなアームで切り刻み、無害なアミノ酸へと還元していく。
正常な細胞には、傷一つつけずに。
「10分経過。……原発巣の縮小率50%を超えました」
「あり得ない……!」
医師たちがざわめく。
放射線治療でも、抗がん剤でも、こんなスピードで消えることはない。
魔法だ。あるいは消しゴムで消しているかのような理不尽さだ。
「20分経過。……転移巣消失。原発巣消失」
「……」
治療室は、完全な沈黙に包まれた。
モニターには真っ白な――健康な内臓だけが表示されている。
「バイタル正常。発熱なし。アレルギー反応なし」
オペレーターの声だけが響く。
患者本人は、ベッドの上でキョトンとしていた。
「先生? なんか体が軽くなった気がするんですが……」
加藤教授は、震える手でマイクを握った。
「……おめでとうございます。がんはなくなりました」
「へ?」
「全部です。……あなたは治りました」
その瞬間、見学室では歓声ではなく、悲鳴に近い驚愕の声が上がった。
「神だ……」
「医療の終わりだ……」
「外科医は失業だぞ……」
それは、人類が「病」という捕食者から解放された、歴史的瞬間だった。
そして現在。
この「奇跡」の結果が公表された瞬間、世界の金融市場は壊れた。
東京証券取引所。
大画面の株価ボードが、真っ赤に染まっていた(日本では株価上昇は赤色で表示される)。
「ドラゴンバンク買い気配! 止まりません!」
「寄り付きから値がつきません! ストップ高です!」
「注文が多すぎて、システムが遅延しています!」
証券マンたちが怒号を飛ばす。
ドラゴンバンクの株価は、すでに理論値を遥かに超えていた。
PER(株価収益率)など関係ない。「がんが治る」のだ。
人類の死因のトップクラスが、注射一本で消えるのだ。
その技術を独占している企業の価値など、電卓で計算できるわけがない。
「他の製薬会社の株が投げ売りされています!」
「がん保険を扱っている保険会社の株が大暴落!」
「逆に旅行業界、不動産業界が爆上がりです! 『長生きするなら遊ぼう』という需要です!」
市場はパニックだった。
既存の医療ビジネスモデルが崩壊し、新たな「不治の病なき世界」への期待が、マネーをブラックホールのように吸い込んでいる。
一方、ドラゴンバンク本社会長室。
「ハーッハッハッハッハ!!」
理 正義の高笑いが、天井を突き破らんばかりに響いていた。
「見たまえ、ウィル! 私の資産が毎秒1億円ずつ増えていく! いや、もはや金などどうでもいい! 私は勝ったのだ! 病魔に!」
理は窓の外の東京を見下ろした。
彼は、かつてない全能感に浸っていた。
「これで人類は私にひれ伏すだろう。王侯貴族も石油王も、命が惜しければドラゴンバンクに頭を下げるしかない! これぞ真の『プラットフォーム』だ!」
「おめでとうございます、会長」
傍らに控えるウィルは、冷静にタブレットを操作していた。
「ですが、注文が殺到しすぎて生産が追いつきません。現在、世界中の工場をフル稼働させていますが、予約待ちが3年分に達しました」
「構わん! 工場を増やせ! 月面でも火星でもいい、作れる場所ならどこでも作れ!」
「承知いたしました。……あと、各国政府から『優先的に供給しろ』という、脅迫まがいの外交ルートでの連絡が来ていますが」
「無視だ! 順番を守らせろ! ……いや、独裁国家のトップには裏ルートで高値で売ってやれ。外交カードに使える」
理は完全に「世界の支配者」の顔をしていた。
不老不死は断念したが、これだけでも十分に世界を牛耳れる。
「……素晴らしい。実に素晴らしい。真田さんに感謝しないとな」
理は、ふと我に返ったように呟いた。
「彼がいなければ、私はただの『変わった経営者』で終わっていた。……彼には特別ボーナスを出しておこう。何がいいかな? 島の一つでもやるか?」
「いえ。マスターは『現金でください。あと有給を』と仰ると思いますが」
ウィルは密かに、マスターの口座へ特別手当を振り込む処理を実行した。
テレビのニュースは続いていた。
専門家たちが、興奮気味に「D-Cell」の可能性を語っている。
『今回はがん治療のみの認可ですが、この技術の応用範囲は無限です』
解説者の医師が、模型を使って説明する。
『理論上、このナノマシンはプログラムを書き換えるだけで、あらゆる異物を排除できます。エイズウイルス、アルツハイマーの原因となるアミロイド斑、血管を詰まらせるプラーク……。これら全てを物理的に掃除できるのです』
『つまり、病気がなくなるということですか?』
『老衰以外の死因が激減するでしょう。……我々は今、「難病」という言葉が死語になる時代の入り口に立っているのです』
コタツの中の誠は、ミカンの皮を剥きながらその言葉を聞いていた。
「……すごいことになったな」
「ええ。銀河標準からすれば『絆創膏』レベルの技術ですが、地球人にとっては魔法に見えるでしょうね」
メイは淡々と言った。
「副産物も副作用もありません。……強いて言えば『人口爆発』と『年金システムの崩壊』という社会的な副作用は発生しますが」
「それは俺のせいじゃない」
誠は目を逸らした。
政治家たちが頭を抱える姿が目に浮かぶが、まあ、人が死ぬよりはマシだろう。
「でも今のところ『がん細胞のみ』なんだろ?」
「はい。認可されているのは。……ですが実は、こっそりと『最適化オプション』も組み込んであります」
「は?」
メイが悪戯っぽく笑った。
「がん細胞を分解した際のエネルギーを利用して、周囲の正常細胞を少しだけ活性化させる機能です。……具体的には、肌のツヤが良くなったり、肩こりが治ったり、薄毛が改善したりします」
「……余計なことを」
「患者サービスですよ。命が助かったついでに若返ったら嬉しいでしょう?」
誠は想像した。
死の淵から生還した患者が鏡を見て、「あれ? なんかイケメンになってる?」と驚く姿を。
……まあ悪いことではない。
「……なぁメイ」
誠は自分の肩を揉んだ。
「俺もそれ打ってもらえないかな?」
「おやマスター。どこかお悪いのですか?」
「いや、病気じゃないんだけど……。最近ゲームのしすぎで肩こりが酷くて。あと腰も痛い」
週休3日でゲーム三昧の弊害である。
誠は上目遣いでメイを見た。
「その……『肩こり用』の設定とかできる?」
「造作もありません」
メイは空中に、小さな注射器(針のないタイプ)を生成した。
「マスター用にカスタマイズした『D-Cell・リラクゼーション・モデル』です。筋肉の乳酸を分解し、凝り固まった筋繊維をほぐし、骨格の歪みをミクロン単位で修正します」
「おお……!」
「ついでに視神経の疲れを取り、脳内の老廃物も掃除しておきましょう。今夜はぐっすり眠れますよ」
「頼む!」
誠は腕をまくった。
プシュッという軽い音。
直後。
「……っ!?」
誠の目がカッと見開かれた。
重かった肩から、憑き物が落ちたように重力が消えた。
痛んでいた腰が、油を差した機械のように滑らかに動く。
視界がクリアになり、部屋の隅のホコリまで見える。
「すすげぇ……!」
誠は立ち上がり、ラジオ体操のような動きをした。
関節がポキポキと鳴ることもない。体が羽根のように軽い。
「これが……ナノマシンの力……!」
「いかがですか、マスター」
「最高だ。……なんか仕事したくなってきた」
「はい?」
誠はハッとした。
「いや違う! 危ない! 健康になりすぎて労働意欲が湧いてきた!」
「それは危険ですね」
「この万能感……。『今の俺なら残業100時間でも耐えられる!』とか思っちゃうやつだ! 社畜の悲しい性だ!」
誠は慌ててコタツに潜り込んだ。
健康すぎるのも考えものだ。エネルギーが有り余って、じっとしていられない。
「メイ! 鎮静剤! いやホットミルク持ってきて! この溢れるやる気を鎮めてくれ!」
「はいはい。……まったく贅沢な悩みですね」
メイは呆れつつも、キッチンへと飛んでいった。
窓の外では、夜の街が輝いている。
病院では、死を宣告された人々が次々と生還し、家族と抱き合っているだろう。
株価は乱高下し、経済学者は悲鳴を上げ、宗教家は祈りを捧げているだろう。
世界は不可逆な変化を迎えた。
もう誰も「がん」で死なない。
その事実は、人類の精神構造を根本から変えていくだろう。
死への恐怖が薄れ、未来への希望(と長すぎる老後への不安)が膨らむ世界。
「……まいいか」
誠はホットミルクを飲みながら呟いた。
「俺が元気で、メイがいて、週休3日なら」
世界がどう変わろうと、誠の守るべき領分は、この1LDKと手の届く範囲の平和だけだ。
ナノマシンが体内を巡り、至福の健康状態を維持してくれるおかげで、今日のミカンはいつもより美味しく感じられた。
そして、プロキシマ・ケンタウリからの「お見合いメール」に、そろそろNASAが返信する頃合いであることを。
「……マスター。NASAから速報です」
メイが言った。
「返信送ったみたいですね」
「へえ。なんて?」
「『こちらは地球。あなたたちの友だ』……だそうです」
「シンプルでいいな」
誠は笑った。
足元では医療革命。空ではファーストコンタクト。
人類史上最も激動の時代を、真田誠はコタツの中から見守り続ける。
「さて寝るか。明日は健康な体で全力で二度寝するぞ」
「承知いたしました。良い夢をマスター」
真田誠の騒がしくも平穏な夜は、更けていく。
(第二部 第6話 完)




