ACT.8
その日の放課後、講堂裏の倉庫に風が吹き込んだ。
6月最後の金曜日、梅雨の湿気を孕んだ風だった。
ゼンタイ部の部員たちは、いつもより早く活動を終え、順に“被膜”を脱いでいった。
白熱灯の下でファスナーの音が続けて鳴り、汗を含んだ布が肌から離れるたびに、
何かを“終える音”がしていた。
佐々波いつきも、自分の白ゼンタイを丁寧に畳みながら、
その布の内側に染みついた1学期の記憶を、なぞっていた。
——入学式。
——初めての奉納。
——ゼンタイウォーク。スリスリ。るなと歩いた街。赤ちゃんに触れた日。
どれも名前のない記憶。でも、肌ではなく布が覚えている。
「いつき。これ、預かってて」
遥香が差し出したのは、小さな封筒だった。
「中身は“夏用の布”。通気性のいいゼンタイ地よ。
夏の間も、布の感覚を忘れないでいられるように」
「……ありがとうございます」
封筒を受け取った手が、少しだけ汗ばんでいた。
けれど、その湿り気さえも、布はそっと飲み込んでくれる。
家に帰ると、リビングのカーテン越しに蝉の声が聞こえ始めていた。
るながソファの上で寝転びながら、絵日記を書いていた。
「ねえ、お姉、今日で1学期終わりでしょ?
ゼンタイ部ってさ、通知表とか出るの?」
「出ないけど……
きっと出たら、“静けさの成績”とか“布のなじみ具合”でつけられるよ」
「じゃあ、さえちゃんは“包まれ度100点”だね」
いつきは微笑んで、黙って頷いた。
赤ん坊の紗衣は、今も母の腕の中で眠っている。
ゼンタイを纏わなくても、その子の周囲には**“目に見えない布”が流れている**。
その夜、布団の中で、いつきは夏用の布を頬に当てた。
風が吹く。
汗がにじむ。
でも、布は何も言わず、それを包んでくれる。
“静けさの肌触り”だけが、布越しに確かに残った。
——もうすぐ夏が始まる。
ゼンタイのない時間が、少しだけ続くかもしれない。
でもそれは、“脱いでしまう”ことじゃない。
布の中にいた時間を、心の奥にたたんでしまっておくだけ。
1学期が終わった。
でも、ゼンタイは終わらない。
夏がきても、きっと私は包まれている。
見えなくても、被膜は心のすぐそばにある。
——佐々波いつきの、1学期の終わりの記録より
山奥の空気は、少し青い。
水の気配が残り、木々のざわめきがどこか布擦れの音に似ていた。
潮見高校ゼンタイ部、夏合宿一日目。
場所は、学校が所有する古い合宿施設「潮見の庵」。
廊下は板張り、部屋には畳。エアコンは最低限。だが、**“外界の音が届かない”**という点では、これ以上ない理想だった。
佐々波いつきは、受付を済ませて荷物を畳の上に置いた。
窓の外には川の音。部屋の中には、まだ誰もいない。
バッグの中で、合宿用のゼンタイが静かに待っていた。
「——集合」
遥香の声が廊下に響いた。
その一言で、すべてが始まった。
【合宿一日目・夜】
食事も入浴も済ませ、すべての灯りが落とされた夜。
部員たちは**各自の“布部屋”**に集まる。
“布部屋”とは、ゼンタイ専用に設えられた空間で、一切の音声禁止。
布の音、布と空気の接触、布と床の呼吸——それだけで会話をする。
いつきは、貸与された墨黒の夏用ゼンタイを着込み、深く息をついた。
その瞬間、思考の輪郭がぼやけていくのを感じた。
自分の肌が“誰かに説明する必要のないもの”になっていく。
ゆっくり、床に膝をつく。
四方には同じくゼンタイ姿の部員たち。皆、沈黙。
誰が誰かは関係ない。
ここでは、**“布でできた存在たち”**が、静かに共鳴しあっている。
【合宿二日目・朝】
早朝、川辺でのゼンタイ瞑想。
木漏れ日がゼンタイに透け、光と影が布に踊る。
湿気を含んだ風が全身を包むが、ゼンタイ越しに感じると、それは不思議とやさしく、侵入ではなく**“合流”**に思える。
遥香が手を上げると、部員たちはゆっくりと立ち上がり、
無言のまま、森の中へ歩き出す。
ゼンタイウォーク。
枝葉を避け、落ち葉を踏まず、虫の音に耳を澄ませながら、
一歩、一歩。足裏と布と大地の対話。
森全体がゼンタイになったかのような沈黙。
【合宿二日目・夜】
儀式はない。叫びも、宣言もない。
ただ、ひとつだけ——全員で“擦る”時間がある。
輪になって座り、
隣のゼンタイを、10分だけ撫で続ける。
それ以上でも、それ以下でもない。
撫でながら、擦りながら、自分が擦られていることにも意識を向ける。
スリ……スリ……スリ……
**ゼンタイスリスリは、ゼンタイ部における“会話”**であり、
“評価”でも“慰め”でもない。“存在確認”——それだけだ。
【合宿三日目・帰還前】
最終日の朝、遥香が静かに言った。
「ここで得た感覚は、“着るもの”ではなく、“沈黙のための言葉”です。
布に包まれることで、言葉が必要ない時間があったことを忘れないで。
夏の間、ゼンタイを着なくても大丈夫。
でも、布の感覚を手放さないで——それが、あなたの中心だから」
その言葉に、誰も声を返さなかった。
だが、誰もが深く頷いた。
帰りのバスの中で、いつきはリュックの中からゼンタイを取り出し、
小さく折りたたみ、布にそっと頬を押し当てた。
「布は着なくても、肌の下で呼吸している」
そう感じた三日間だった。




