ACT.7
午後の病室。
淡い陽光が、カーテン越しに床を撫でていた。
堂ノ内優子はベッドに寄りかかり、小さなベビーバスケットを覗き込んでいた。
その中には、生まれたばかりの娘——**紗衣**が、静かに眠っていた。
肌は、柔らかい。
指先は、しなやかに丸まり、小さなまつげが時おり震える。
その胸には、薄灰のタイツ布の切れ端がリボンとして結ばれている。
「——入っていい?」
ドアの外から、遠慮がちな声。
続いて、ひそひそと妹の囁き。
「赤ちゃんの匂いって本当にするの?るな、におってもいい?」
「……こら」
優子が笑った。
「入ってきていいよ。ふたりとも、ちゃんと手を消毒してね」
いつきと、るな。
並んで病室に入ってきた姉妹は、それぞれ部活用のスカートとタイツ姿。
いつきはグレージュの80デニール。るなは最近お気に入りの淡ピンク。
病室に広がる匂いは、無香の石鹸と母乳と——少しの布。
赤ん坊を前に、ふたりは静かに足を止めた。
「……ちっちゃい……」
「すごい……ほんとに眠ってる……」
「抱っこしてみる?」
優子が、さりげなく尋ねた。
いつきは一瞬、躊躇ったが、そっと頷いた。
彼女は椅子に腰かけ、手を広げる。
その手のひらに、優子が紗衣をそっと預けた。
小さな重み。
ゼンタイの布ではなく、生の温度が、腕の内側に染み込んでくる。
しかし、いつきは——その“重さ”に驚かなかった。
それよりも感じたのは、「包まれていたもの」が、いま自分の腕の中に**“包まれ直されている”**という感覚だった。
「……この子、覚えてるのかな。ゼンタイの感触とか……」
「きっと、覚えてるわ。
お腹の中で、ずっと布に包まれてたもの」
「いいなー……るなも、抱っこしたい!」
「るなは小さいから……足元に座って、ちょっとだけね」
るなはいつきの膝にちょこんと座り、
ふたりで協力して、小さな紗衣を支えた。
ピンクのタイツ越しの膝に、赤ん坊の柔らかな体。
ふと、紗衣の小さな指がるなの太ももに触れた。
タイツ越しのその接触に、るなが小さく声を漏らす。
「……スリスリされた……」
「ふふ……はじめての、ゼンタイスリスリだね」
しばらくして、赤ん坊がぐずり始めた。
しかし、泣きはしない。目をこすりながら、かすかに手を動かす。
いつきは布のリボンをそっと指で撫でて、額に触れた。
その指先には、あの奉納式の夜、皆で触れたゼンタイスリスリの記憶が残っていた。
包むことで、伝わるものがある。
布越しの安心。皮膚よりも深い、布の記憶。
いつきはそっと言った。
「……この子、きっとタイツを履いて生きていくね。
私たちみたいに、布で静かになれる子になる」
「そして、大きくなったら……一緒に、ゼンタイウォークとかするの?」
「うん、きっと。
そのときは、私たちが……ちゃんと教えてあげなきゃ」
堂ノ内優子は、カーテン越しに陽光を見つめていた。
産み落とした娘を、姉妹がこうして受け継いでくれていること。
それは名前よりも、教育よりも、“布の手”による祝福だった。
彼女は胸に手を当て、小さく微笑んだ。
「ゼンタイは、受け継がれる。
形じゃなくて……この静けさの中で」
春の午後。徳島市の住宅街、堂ノ内家のベランダには、赤ちゃん用の小さなシーツがゆれる。
その隣に干されたのは、薄手の80デニール、やさしい色合いのタイツ。
でもそれは、大人用。紗衣のものではない。
——この子には、まだタイツは早い。
優子はそう決めていた。
胎児のころ、胎内とゼンタイに包まれていた紗衣。
けれど、今は布を脱ぎ、**この世界そのものに触れるための“素肌”**で生きている。
日曜の昼下がり、いつきとるなは、堂ノ内家を訪れていた。
ふたりともゼンタイではなく、部活の休日制服——スカートにタイツという、いわば“地上の服”。
「さえちゃ〜ん、お姉ちゃんたち来たよ〜」と、るなが声を上げる。
優子がリビングから出てきて、微笑んだ。
「起きてるわ。今、お布団の上で足ばたばたしてるところ」
ベビー布団の上、何も着ていない小さな紗衣が、元気よく手足を動かしていた。
むちむちの手。丸い腹。小さな爪。何ひとつ包まれていない。
けれどそこに、**清らかな「被膜の記憶」**がまだ、漂っているようだった。
「ねぇ……この子、タイツ履かせないって決めたの?」
いつきがそっと訊ねると、優子は少し間を置いて答えた。
「ええ。タイツやゼンタイは、この子の“選択肢”であってほしいの。
胎児として布に守られていたからこそ、今は風と肌の対話をたくさんしてほしい。
——包むだけがゼンタイじゃない。“いつ包まないか”も、私たちの思想のうちなのよ」
その言葉に、るながぽつりと呟いた。
「そっか……じゃあ、今はさえちゃん自身が、布になってるって感じかな……」
いつきが少し驚いてるなを見る。
あまりにも的確な言葉だった。
「誰かを、包むために、生まれてきたみたいな顔してるよね……さえちゃん」
ふたりはベビーマットの脇に座り、
小さな紗衣の手に、指を差し出す。
赤ん坊は、何かを思い出すようにその指をぎゅっと握る。
まだ布の記憶が残っているのか、るなのタイツ越しの膝に、足をすり……と擦りつけた。
「スリスリだ……やっぱ好きなんだ、こういう感触」
「うん。いまはまだ、“布に触れる”ことだけを、覚えてるんだと思う」
優子は微笑んで、赤ん坊の体に一枚の薄布をそっと掛けた。
それはゼンタイの布ではない。
けれど、質感だけは、どこか懐かしい——胎児ゼンタイのそれに似た、やわらかな織。
「10年後、もしこの子が“包まれたい”と思ったら、そのとき初めてゼンタイを贈るわ。それまでは、風と、日差しと、腕の中で包んであげたいの」
いつきは、るなと目を合わせる。
「それまで……わたしたちで守ろうね」
「うん。さえちゃんの“最初の布”になるんだもん」
ゼンタイを着ないその日々も、ゼンタイ部の一部だった。
いつか包まれるために、今は包まない。
それもまた、被膜の継承だった。




