ACT.3
入部から三日後の放課後。
講堂裏の小さな倉庫の扉が、きぃ……と音を立てて開いた。
「今日から実技よ。心と体を繋げなさい」
部長・堂ノ内遥香が静かにそう言った。
その背中にはもう人間味はほとんど残っていない。黒光りする全身タイツは、彼女をまるで異形の存在に変えていた。
部室と称されるその倉庫の内部は、タイツの海だった。壁には整然と吊るされた数十着のゼンタイスーツ。
黒、白、ワインレッド、ネイビー、ラメ入り、マット、艶々……どれも異様な存在感を放っている。
「佐々波さん。これを着なさい」
遥香が差し出したのは、顔面までをも完全に覆う、漆黒のゼンタイスーツ。素材は極薄ラバーのような高密着繊維。
「……これ……全部、着るんですか……?」
「すべてを“包む”ことで、あなたは“無”になれる。今日からあなたは、“脚”ではなく、“ゼンタイ”そのもの。」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。けれど、もう引き返す選択肢はなかった。
着替え室と呼ばれるテントの中で、いつきはひとりゼンタイを手に取った。
タイツとは異なる、全身を覆う密着。顔も、髪も、口元すらも包まれていく感覚。最初は息苦しさを覚えるが、すぐに世界が静まる。
最後に、ファスナーを首の後ろで閉めたとき——
「私は誰でもなくなった」
そんな錯覚に包まれた。
外に出ると、部員たちはすでに全員がゼンタイに身を包み、整列していた。
先頭に遥香。全員無言。全員、匿名。そこに名前など存在しない。
「これより、“ゼンタイウォーク”を行います」
遥香の声は柔らかく、それでいて背筋を凍らせるほどに鋭かった。
「ゼンタイウォークとは、“タイツの儀式的行進”。姿勢・重心・呼吸・布の張り……すべてが審美の対象。外の目ではなく、内側に見られていることを忘れないで。」
そして——歩き出す。
音を立てず、滑るように前へ。肩を揺らさず、腕を張らず、ただ脚のみで前へ進む。
全身タイツは、身体のわずかな歪みすら暴き出す。呼吸、視線、脚の重さ。それらが全部、布の張力として“語って”しまうのだ。
脚と床が擦れる音だけが、静かに鳴る。
ス……ス……ス……
歩幅を揃え、全員で、講堂を周回する。その姿はまるで異教徒の儀式、あるいは幽霊の行列。
そして、突然立ち止まる。
「次は、“ゼンタイスリスリ”。」
遥香がそう言うと、全員が互いのタイツ姿の体に手を伸ばし始めた。
手のひらで、肩を撫でる。
脚を包む。腹部をなぞる。背中を擦る。首筋をなで上げる。
ゼンタイ同士が擦れ合う音、体温が布越しに伝わる感覚。
顔も、胸も、太ももも、すべてが等価に、ただ「被膜」として触れられる。
いわば——自他の区別を曖昧にするための儀式。
「ゼンタイスリスリは、“境界を消す”ための行為。羞恥も拒絶も、ゼンタイの中では意味をなさない」
遥香の指が、いつきの二の腕を撫でた。ゆっくり、優しく、しかし確実に。
「あなたも。誰かを、擦ってみなさい」
震える指先で、いつきは隣の部員の腰へと手を伸ばす。
布越しに、柔らかな感触。タイツ特有の伸縮。そして微かな体温。
スリスリ……
擦る。擦られる。被膜同士の交感。名前も顔も失った少女たちの、タイツによるコミュニケーション。
ここには言葉も、視線も、必要ない。
数分後。儀式が終わると、全員が整列し直した。
「……これが、ゼンタイ部の基本活動です」
遥香は言った。
「あなたは今日、ひとつ失いました。顔を。名を。羞恥を。けれどそれは——」
「私になれる、一歩です」
いつきは、頷いた。タイツの中で、熱く濡れた自分の頬を感じながら。
その夜。
堂ノ内優子は、自宅の寝室でお腹を撫でていた。
「ねぇ、三女ちゃん。今日、新しいゼンタイが入ったのよ」
タイツの上から、お腹にそっとキスを落とす。
「きっと、あなたの先輩になるわね。もうすぐあなたも、タイツの世界に来るのよ」
そして、脚を交差させ、静かに眠りについた。
タイツに包まれた妊婦の寝息と、お腹の鼓動だけが、部屋に響いていた。
翌朝、いつきは校門をくぐった瞬間から、周囲の視線に気づいた。
「……あの子、昨日の……」
「え、あの全身タイツ部?マジで入ったの?正気?」
「てか、怖くね?顔まで包んでスリスリとか……もう宗教じゃん……」
ざわつく声。ひそやかな視線。それがタイツ越しの脚にまでじんじん響くようだった。
——だけど。
どこか、誇らしかった。
スカートの下、脚にぴったり張りついたネイビーの80デニール。
歩くたびに擦れる布と肌の微かな摩擦音。あのゼンタイウォークで覚えた“脚先から意識する歩み”が、自然と身についていた。
「見られてる……でも、いい」
タイツの中に包まれているという事実が、逆に彼女を守ってくれているように感じた。
昼休み。中庭の片隅。
いつきはパンをかじりながら、ゼンタイ部のことを思い返していた。
——あの静寂。
——擦れ合う音。
——遥香の、感情を持たないような声。
しかし、そこに現れた一人の女子生徒の言葉が、空気を切り裂いた。
「……アンタ、堂ノ内部長に気に入られたんだって?」
見上げると、腰に手を当てた長身の先輩女子。短めのスカートから覗くのは、焦げ茶色の30デニール・シアータイツ。
見せつけるように脚を組み、顎をしゃくって続ける。
「悪いけど、あたしゼンタイ部、嫌いなのよ。“見せないことが美しい”って態度、何様って思わない?」
「……別に、誰も強制してないし……」
「でもアンタ、顔まで隠して擦られてたんでしょ?そんなの変態よ。あたしらの“見せるためのタイツ”を冒涜してる」
タイツ文化が一般化したこの世界では、“見せるためのタイツ”と、“隠すためのゼンタイ”という二極が、常に相克していた。
放課後、講堂裏。
「先輩に絡まれた? ……あるあるよ、それ」
遥香は、微かに笑ったようだった。
「タイツは本来、女性の脚を美しく“見せる”もの。ゼンタイ部はそれを否定しているように見える。だから嫌われるの。でも私たちは——」
「“見る目から逃れる”ことで、もっと深いものに触れてるの」
その夜、部室の奥。いつきは遥香に連れられて、禁じられたスペースへ案内される。
「ここは“始まりの間”。姉さんが、最初にゼンタイを纏った場所」
そこは狭い、畳一畳ほどの黒い小部屋だった。中央にあるのは、額縁のように飾られた一着のゼンタイ——
妊娠中の優子が纏った、最初の黒タイツゼンタイ。
「姉さんはね……一人目を妊娠したとき、“自分”が消えるのが怖かったんだって。名前を呼ばれるたび、“母親”にされていく気がしたって」
「だから纏った。顔を隠し、名前を捨てて、ゼンタイになったの。自分を、自分のままにするために」
いつきは言葉を失った。
部長の、顧問の、あの“冷たさ”と“優しさ”の根源に、初めて触れた気がした。
そして、その夜。顧問・優子は自宅の書斎でひとり、静かに筆を走らせていた。
『第三女 奉納儀、準備進行中。ゼンタイ奉納式、来週金曜。候補:佐々波いつき。布の祈り、受容の儀を以て認可』
その足元では、長女がパジャマ姿で眠り、二女が指をしゃぶっている。どちらも、淡いタイツを穿いていた。
優子は、お腹に手を置いて、ささやいた。
「あなたの初めてのゼンタイ、きっと、あの子が見届けてくれるわね」




