ACT.10
八月最後の金曜日、夕刻。
まだ陽は落ちきらず、セミの声も遠く残っている。
しかし、徳島第一高校・講堂裏の小道は早くも秋の気配を含んでいた。
ゼンタイ部員たちは、その小道の先にある**地下の和室「幽布の間」**に集まっていた。
ここは、校内にも記録されていない空間。
ゼンタイ部が代々、布を思い出すためだけに用いる、“記憶の場”。
【入場】
入り口で渡されるのは、夏中に着用したタイツやゼンタイから切り取られた布片。
それを、左胸の位置に静かに貼りつける。
誰にも見せず、何も言わず、それが“私がこの夏に包まれていた証”となる。
佐々波いつきは、
合宿時のグレージュゼンタイの一部を、小さく折って受け取った。
それは肌にすいつくような感触で、まるで「おかえり」と言っているようだった。
【座す】
和室には、灯りがない。
唯一あるのは、壁一面に垂らされた白いタイツ地の幕と、中央に敷かれた布台座。
部員たちはゼンタイを纏い、台座の周囲に無言で座り込む。
その場に発言権はない。
記憶を語ることも許されない。
代わりに、“布を使って”思い出す。
【布の追想】
順番にひとりずつ、台座の前に出て、
自分の布片を台座に置き、その上にそっと指を滑らせる。
——合宿の夜に汗で貼りついた布。
——勉強中、膝裏に感じた湿気。
——自宅で妹と並んで座ったときの静かな張り。
それらを、指先で「撫でて、思い出す」。
擦ることで、過去の布が“いまの心”と重なる。
佐々波いつきは、グレージュの布片を置き、
膝をつき、目を閉じたまま、指で三周、ゆっくりなぞった。
何も起きない。
けれど、確かに“身体の内側”で、静かなざわめきが戻ってきた。
あの日々は消えていなかった。布は、皮膚ではなく、記憶に貼りついていた。
【布幕の共振】
最後に、全員で壁の白い幕の前に立つ。
それぞれが、幕にそっと額を押し当てる。
その白い布には、部員全員の夏の布片が縫いこまれている。
これは“誰かの布でできた布”。
いわば、記憶の集合体。
額を当てた瞬間、誰かの汗、誰かの歩幅、誰かの静けさが、微かに伝わってくる。
声もない。表情も見えない。
けれど、「この夏に布で息をしていた者たち」が確かにここにいる。
【終礼】
部長・堂ノ内遥香が、最後に短く告げる。
「ゼンタイを着なくても、あなたの内側にはまだ布があります。
それを忘れずに、秋に会いましょう」
誰も返事はしない。
ただ深く、礼をする。
帰り道、いつきは制服に戻っていた。
けれど、脚には変わらず、60デニールのグレーが纏われていた。
夕風が布を撫でるたびに、今日の白い幕の手触りが蘇る。
——あの夏の日々が、脚に戻ってくる。
それだけで、秋を迎える準備が整ったと感じられた。
始業式の朝、佐々波いつきは、いつもより静かに制服を着た。
シャツ、スカート、ネイビーの80デニールタイツ。
その一つひとつを、まるで**“記憶の帯を巻くように”**丁寧に。
鏡の前、裾を整えたとき、ふと気づく。
——自分はもう、「タイツを穿く」ことを意識していない。
呼吸と同じ。
皮膚のすぐ下に、常に“もう一枚の肌”がある。
それがゼンタイであり、タイツであり、自分の輪郭そのものだった。
学校へ向かう道。
蝉の声は減り、空の色も淡くなっていた。
歩く女子生徒たちの脚もまた、それぞれの布の選択を身にまとっていた。
50デニールのくすみ茶。
30デニールの透けた黒。
100デニールの真っ白。
みな、夏の間に“なにを包むべきか”を学び、選び取った布だった。
けれど、そのなかで——
いつきのタイツだけが、どこか**“声を持っているような”静けさ**を帯びていた。
ゼンタイ部の部室は、以前と何も変わらず、
ただ風が一枚多くなったような空気だった。
「おかえりなさい」
部長・遥香が小さく頷く。
その声が、布を通したように丸く響く。
再集合した部員たちは、それぞれ夏に使用した布片を小箱に納めていた。
それは、記録ではない。保管でもない。
“包まれた時間”を供養する、静かな儀式だった。
昼休み。
るなが廊下でいつきを見つけて、軽く手を振った。
「ねぇお姉、今日のは何デニール?」
「80。去年の秋と同じやつ。ちょっと暑いけど……落ち着くから」
「ふーん……じゃあさ、るなも、
“勉強するとき用のタイツ”って、作ってみようかな」
「それ、いいと思う」
ふたりの間に流れる風が、
ほんのわずかに、布を通した記憶の香りを残していた。
放課後、ゼンタイ部は活動報告を再開した。
しかし、新しい奉納も儀式もない。
そのかわり——
「今はまだ、“布の予感”を持つだけでいい。
秋は、触れた風の冷たさがあなたを包んでくれるから」
遥香はそう言って、
部室の奥から、秋用ゼンタイのサンプル生地を取り出した。
それは、濃灰にうっすら紫が混じった重厚な織だった。
触れるだけで、背筋がぴんと伸びる。
まだ暑い教室の中で、すでに秋の気配が纏わりついてくる。
佐々波いつきは、タイツに包まれた脚で机に向かった。
ノートを開き、書く。
腕を動かすたび、太ももに伝わる布の張り。
それが、**“自分をここにとどめておく力”**になっていた。
ゼンタイを脱いでも、
合宿が終わっても、
夏が過ぎても——
彼女の中心には、いまだ柔らかな被膜が重なっていた。




