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国王との謁見の後に領地に帰ると、屋敷で私の亡き夫の妻とやらが「当然の権利」なるものを行使していた。しかも、私の夫と似ても似つかぬ可愛すぎる隠し子を連れて。っていうか、私の夫は生きているはずなんですが?

作者: ぽんた

「わたしはプレイステッド侯爵家夫人だけど、あなたはだれ?」


 彼女は、わたしを上から下まで無遠慮に見つめてから甲高い声で尋ねてきた。


「はい?」


 まったく意味が分からない。


 それが正直な感想だ。


 彼女越しに、執事やメイドたちが冷めた表情でこちらを見ている。


 ここは、エインズワース王国と隣国ダグラス国との国境地帯。


 プレイステッド侯爵家は、もっともエインズワース王国で貢献し、なおかついまでも活躍している武門の家系。それは、ときには大公家や三大公爵家よりも重要視される名家中の名家。


 そして、ここはそのプレイステッド侯爵家領にあるプレイステッド侯爵家の屋敷のエントランス。


 エインズワース王国の国王に呼ばれたことと、さまざまな雑務や社交界での付き合いも兼ねて王都に行っていた。二週間近くの間、王都にあるプレイステッド侯爵邸ですごし、その間にこれでもかこれでもかというほど社交界で飛び回らねばならなかった。わたし自身、プレイステッド侯爵家同様古くから続く武門の家系の出身で、嫁ぐ前までは将校のひとりとして活躍していた。それがたたってか、いまだに社交界のムダにキラキラおどろおどろしい場は慣れてはいない。というか、苦手だし嫌いでもある。


 そこでのやり取りは、心身ともに疲弊しきってしまう。戦場や軍事訓練の方がよほどいい。つかみどころのない貴族や官僚たちなどより、荒くれ者どもを相手にする方がずっと気はラクだ。


 きわめつけは国王と王妃との歓談だった。


 わざわざ呼びつけるので何事かと思ったけれど、「跡継ぎはまだか?」とか「年齢的にもはやく子をなした方がいい」とか、まるでおせっかいな身内や知り合いが言いそうなことをしたり顔で言う始末。


 まぁ国王夫妻にしてみれば、親的に心配なのだろう。


 適当にやりすごし、すべての雑事や付き合いを終了し、やっと領地に戻って来ることが出来た。


 そして、戻って来たらこれだ。


 わが家の玄関扉を開け、心から安堵した瞬間の、それはまさしく奇襲攻撃だったのだ。


「あなたがプレイステッド侯爵夫人?」


 わたしは、バカみたいに尋ねていた。


 それはそうだろう。


 尋ねない方がおかしい。


「ええ、そうよ。まっ、厳密には未亡人だけどね」

「未亡人?」


 再度、彼女越しに執事やメイドたちを見た。


 執事は首を左右に振っているし、メイドたちは揃って肩をすくめている。


「死んだのよ」

「死んだ? だれがですか?」

「あなた、バカなの?」

「はい?」


 バカ呼ばわりされてしまった。


「いまの話の流れでいけば、プレイステッド侯爵にきまっているでしょう? 彼、ダグラス国で死んだのよ」

「ああ、なるほど」


 それで合点がいった。


 口を開こうとした瞬間、エントランスにある二階へと続く階段に少年が現れた。


 それはもう可愛らしい、それでいて美しい、いわゆるカッコ可愛いという表現がピッタリな少年だ。年の頃は七歳か八歳くらいだろうか。四、五年もすれば美しさが際立つだろう。


 が、どこかオドオドしている。しかも服装は控えめにいっても粗末である。


「は、母上……」


 階段を降りながら言ったその声も怯えたものだった。


 大人たちをこわごわ見ているその様子に、胸が痛んだ。


「なんなの? 部屋にこもってな、と言ったわよね?」


 自称プレイステッド侯爵夫人は、振り返りもせずに言った。その声音は、恫喝めいていた。


「し、しかし、は、母上……」

「はやく行きな。部屋へ行くんだよ」


 彼女は、やはり振り返らずに言った。


 階段の中途で足を止めた少年と目が合った。


 距離があるにもかかわらず、その瞳の色が金色であることがわかった。


 かすかに頷いた。すると、彼はペコリと頭をさげてから振り返って階段をのぼって行った。


「あー、わたしはプレイステッド侯爵家の留守を任されている者です」


 彼女の最初の質問に答えておいた。


 彼女の関心を、少年からわたしへと戻すためにであることはいうまでもない。


「あら、そう? だったらもういいわよ。すでにわたしがここを取り仕切っているのだから」

「とはいえ、領地経営を引き継いでもらわねばなりません」

「なんですって? あー、そんなの面倒くさいわ。そこのイケてない執事にでも引き継いでちょうだい。そして、あんたはとっとと出て行ってちょうだい。ほら、そこをどきなさいよ。いまから買い物に行くんだから。馬車はまだなの?」


 最後の言葉は、イケてない執事にたいして、のようだ。


 そのイケてない執事が溜息をついているのを見ながら、脇へどいて彼女のために道を開けたのだった。



 プレイステッド侯爵家の馭者であるニコラス・ドーソンにお願いし、自称プレイステッド侯爵夫人を町へと送ってもらった。


「遅い。さっさとしなさい」という彼女の喚き声が聞こえなくなってから、執事のコンラッド・ドットウェルに事情を尋ねた。


「彼女が現れたのは、一昨日の夜です。玄関扉を開けるなり、彼女は『わたしは、プレイステッド侯爵夫人よ。これからは、わたしが采配をふるうのでしっかり仕えてちょうだい。それが、プレイステッド侯爵夫人としての当然の権利だから』と言いました。王都に急使を送ろうと思いましたが、奥様と入れ違いになる可能性が高いため放置しています」

「なるほど」


 ひとつ頷くと、彼は続けた。


「彼女がひとりならば有無を言わさず放り出したのですが、彼女が連れている少年のことが気になりまして……」

「いい判断だわ、コンラッド。それで?」

「もちろん、すでにカールが隣国に潜入しております」

「さすがだわ。ありがとう」


 大満足だ。


 カール・アナキンは、わたしの部下のひとりだ。凄腕の諜報員で、彼のお蔭でこのウィンズワース王国が救われたことは一度や二度ではない。


 ちなみに、カール・アナキンというのは諜報員時代のコードネーム。彼の本名や軍以前の過去は、わたしでさえ知らない。


「彼女は、あの少年の母親じゃないわよね。すくなくとも、彼女が騙るプレイステッド侯爵との間の子どもではない」

「そうでしょうとも」

「ずいぶんと怯えていたわね」

「はい。あの少年は、彼女にたいしてだけではなくわれわれにたいしても怯えています」

「よほど怖い思いをしているのかしらね」


 いったん執務室へ入った。帰ってきたばかりだけれど、留守中に書類がたまっていることはわかっている。それを片付けようと思ったのだ。


「彼女は、『息子にはパンとスープだけでいい。てきとうに部屋に放り込んでおいてちょうだい。それから、鬱陶しいから部屋から出ないようにして』、とわれわれに命じました。ですが、食事はちゃんとしたものを部屋へ運んでおります。それから、彼女と鉢合わせしないように屋敷内や庭を散歩させています。あの子はその年頃の子より小柄で、栄養も足りていないようです。ろくに食事を食べさせてもらっていないのでしょう。それから、湯あみをさせたサリーが言うには、体中に痣や火傷の跡があるそうです」

「なんですって?」


 おもわず、叫んでしまった。


「あの子と直接話をしてみるわ」


 思い立つとすぐに行動だ。


 体ごと振り向くと、わたしのこういう性格に慣れているコンラッドはすぐに脇にどきつつ執務室の扉を開けてくれた。


「ところで、プレイステッド侯爵夫人の名前は? それから、プレイステッド侯爵家の跡取りになるであろうあの子の名前は?」


 ふと思いついた。だから、顔だけコンラッドへ向けて尋ねてみた。


「さぁ? 口を開ければ『プレイステッド侯爵夫人』としか言いませんので、それが名前なのかも」

「そんなわけないでしょう?」


 うそぶくコンラッドに笑みを見せ、二階へと向かった。



 階段でメイドのサリーとアリーに会った。


 ふたりは、燃えるような赤色の髪と瞳を持つ双子の姉妹。外見はめちゃくちゃ似ているけれど、性格は正反対。


「あなたたちに迷惑をかけ、ストレスを与えているみたいね。だけど、まさかぶっ飛ばしてやしないわよね?」


 妹のアリーは、とにかく短気なのだ。しかも剣術と体術が男性に負けやしないので、領地内に賊や悪漢がでようものなら、馬で駆けつけあっという間に成敗や討伐をしてしまう。


「まさか」


 アリーは、わたしの言葉が自分にたいしてだとわかっている。その可愛らしい顔に可愛らしい笑みを浮かべた。


「脳内で二十八回ぶっ飛ばしましたけど、リアルにはやってません。いまのところは、ですけど」


 彼女らしい返答に笑ってしまった。


「やめなさい、アリー。それでなくても『野獣姫』と呼ばれている奥様なのに、そのメイドが暴力沙汰ばかりだなんて、奥様の評判をますます貶めることになるわ」


 双子の姉のサリーがたしなめた。


 彼女は、遠まわしにわたしをたしなめているのに違いない。


「だけどまぁ、あれはたしかに稀にみる愚か者ね」


 サリーは、わたしと視線が合うとそう言って両肩をすくめた。


「隣国からせっかく来たんですもの。カールの調べが終わるまで脳内だけにとどめてね、アリー?」

「わかっています。ですが、それも時間の問題かも」

「アリー。そんなに暴れたいなら、軍に戻ったら?」

「姉さん、冗談言わないで。平和ボケしていてお上品な軍人相手だと、つまらないのよ。それだったら、ここら辺に出没する賊や悪漢どもの方がよほどストレス解消になる。そうですよね、奥様?」

「アリー、わたしにふらないでちょうだい。あなたの姉さんに頭ごなしに叱られたり、嫌味をぶちかまされたくないから」


 苦笑するしかない。


 わたしもアリーと同じ気持ちだから。


 わたしの場合、お上品で高慢ちきな貴族連中も相手にしなければならないのだ。


 戦争があった頃が懐かしすぎる。


「それで、あの子は? 名前は聞いているのかしら?」

「はい。ライオネル、というそうです。姓は言ってくれません。いまは、部屋で読書をしています。あの愚か者が飲んだくれて眠っている間に図書室に案内したら、よろこんで本をチョイスしていました。その中の一冊を読んでいます。奥様、彼は母親を自称する愚か者の息子ではありません」

「そうね。わたしの推測もあなたのと同じよ、サリー。それと、体の痣や傷のことも聞いたわ」


 階下を見下ろした。


 質素倹約が家訓のため、屋敷内にはムダな装飾品や調度はない。そのかわり、自然の花を飾ったり木や岩を彫った作品を置いている。


 もちろん、屋敷中すべてがピッカピカに清掃されている。


「ライオネルの衣服をお願い出来るかしら? ついでにカフェでお茶でもして来てくれていいわよ」

「ほんとですか? よろこんで。帰りに奥様の大好物のケーキを買ってきますね」


 アリーは、子どもみたいにはしゃいだ。


「じゃあ、お願いね」


 双子の姉妹にお願いし、階段をのぼりきった。


「お茶とスイーツはなににしようかな。迷っちゃう」というアリーの悩みに、「本日のケーキセットでいいんじゃない?」とサリーの解決案が聞こえてきた。 



 ライオネルのいる部屋の扉をノックした。


 三度めでやっと反応があった。


 彼も一度めと二度めは、どうしていいのかわからなかったのだろう。


「ライオネル、入っていいかしら?」


 自分ではできるだけやさしく言ったつもりだ。声音も言い方も。


 現役時代は荒くれ兵士どもを前に檄を飛ばし、敵には怖れを抱かせていた。うちの使用人たちは、それが慣れっこになっている。だから、日頃は声音も言い方もきつくてぶっきらぼうなのだ。


 そういうわけで、いまも自分が思っているほどやさしくはなかったのだ。つまり、声音も言い方もきつすぎたのだろう。


 その証拠に扉の向こうに気配は感じるものの、扉が開かないのだ。


 再度、許可を得ようとしたタイミングで扉がそっと開いた。とはいえ、ほんのちょっぴりだけど。


「ライオネル、話をしたいの。いいかしら?」


 ほんのちょっぴり開いた扉の間から、彼がオドオドとこちらを見つめている。視線が合ったが、すぐにそれをそらされてしまった。が、意外にもさらに扉を開けてくれた。


 彼と自称プレイステッド侯爵夫人は、それぞれ客間を与えられている。どちらの部屋にも当然トイレと浴室が完備されている。


 とはいえ、この辺境の地までやって来る客人はほとんどいない。というわけで、客間が使われることもない。それでもサリーとアリーの双子姉妹、ときにはわたしがいつでもちゃんと使えるように清掃をしている。


「座りましょう」


 ライオネルに微笑みつつ彼には寝台の上に座るよう促し、わたし自身は椅子をひっぱって来て彼の前に置いて座った。


 サッと室内を見まわすと、なるほどベッドサイドテーブルと机の上に本が積み重ねられている。


 その背表紙を見て驚きを禁じ得なかった。


 多岐の分野に渡る専門書だけでなく、あらゆるジャンルの書物のタイトルがあるからだ。


 専門書だけでなく、書物も大人の読むものばかり。中には、大陸共通語ではなく古語であったりエインズワース王国語で記されているものもすくなくない。


 ただ眺めているだけかもしれない。とはいえ、図入りの専門書ならともかく、書物は眺めていても面白くないだろう。


 ということは、この少年は自称プレイステッド侯爵夫人には似つかわしくない知識や教養が備わっていることになる。


「あらためまして、わたしはサヨ・プレイステッドよ」


 手を差し出すと、彼はモジモジおどおどするだけだ。視線は床に釘付けで、それがわたしに向くことはない。


「ライオネル、よね? 大丈夫よ。あなたを虐めたり貶めるようなことはしないから。まずは、握手をしない? それで、わたしたちは友達になれるわ」


 みんなが「魔女の微笑み」という笑みを浮かべ、真摯に言った。


 ライオネルは、もとが素直なのだろう。視線は上げようとはしないけれど、おずおずと手をあげて握手をしてくれた。


 握手をしながら、彼を観察した。


「ライオネルは、何歳なのかしら? ああ、ごめんなさい。わたしの年齢は機密情報なの」


 悪戯っぽい笑みで冗談を言った。すると、彼がやっと顔を上げた。


「十歳です。プレイステッド侯爵夫人」


 そして、ニッコリ笑って言った。


 そのカッコ可愛い顔に浮かんだ可愛らしすぎる笑みに、キュンどころかズキュンと心臓を矢で射抜かれた。


(というか、彼はわたしがプレイステッド侯爵夫人だとわかっているのね)


 彼は、そうとう洞察力や観察眼があるようだ。


(それにしても、十歳のわりにはちいさいわね)


 十歳のわりには小柄すぎる。背はもちろんのこと、痩せすぎている。


 栄養がまったく足りていないのだ。


 それを考えると悲しみと怒りがわいてきた。


 とりあえずは、それらを脳裏と心の中から振り払い、いまは彼といろいろ話すことだけに集中した。



 ライオネルには、自称プレイステッド侯爵夫人について話すことを強要しない。もちろん、彼自身のことについても。


 ほんとうに信頼してくれるようになったら、みずから話してくれる。そう信じている。


 もっとも、彼の好きな食べ物や飲み物や趣味といった当たり障りのないことは尋ね、彼もそういったことについては控えめな感じで答えてくれた。



 初対面以降も、自称プレイステッド侯爵夫人とライオネルのことを調べに行ってくれたカールが戻ってくるまで、ひたすらライオネルと一緒にすごした。


 自称プレイステッド侯爵夫人がわけのわからぬ、あるいは愚かきわまりないことをほざくのを右から左へと流し、彼と会話を交わしたり遊んだり読書をした。それから、遠乗りやピクニックや魚釣りや果実やキノコ採りなどもやった。


 町で購入した服に着替えた彼は、どこからどうみても貴族子弟だ。しかも、予想以上に聡明でマナーも身についている。


 しばらく一緒にすごすうちに、カッコ可愛いということに関係なくすっかり彼の虜になってしまった。


 そして、彼もじょじょにではあるけれど、わたしやみんなに慣れてきた。もちろん、彼は自称プレイステッド侯爵夫人に近づこうとはしないし、わたしたちも彼を彼女に近づけさせないようにした。




「あー、そろそろ限界のようです」


 ある日の朝食時、サリーが給仕をしながら囁いた。


 自称プレイステッド侯爵夫人は、どれだけはやくても昼前にしか起きない。だから、朝食時のみ食堂でライオネルと一緒に食事をする。ランチはたいていサンドイッチを持ってふたりでどこかに行くか、街の食堂で済ませている。夕食は、厨房にあるテーブルでライオネルも含めてみんなで一緒に食べる。おとなに囲まれ、最初こそライオネルも居心地悪そうにしていた。しかし、いまでは笑顔でみんなの話を聞いている。みんなもまた、ライオネルを気遣って子どもでも喜びそうな話題を提供してくれる。


「もしかして、アリーのことかしら?」


 サリーの囁き声に囁き声で返すと、彼女は両肩をすくめて肯定した。


「短気でけんかっ早い彼女にしたら、今回はもった方よね」

「もっとも、アリーだけでなくわたしもですけど。それから、コンラッドやニコラスも」

「そこにわたしも加えなきゃ、よね? そうね。彼女のプレイステッド侯爵夫人っぷりは常軌を逸しているわ。プレイステッド侯爵家の財産を食いつぶすだけならまだしも、領地内の人たちにも迷惑がかかっているし」


 右斜め前で静かに食べているライオネルを見ると、彼はいたたまれないのだろう。カッコ可愛い顔がなんともいえない表情になっている。


 胸が痛んだ。


 彼のせいでも責任でもないのに、彼は自分のせいで責任だと思い込んでいるのだ。


「あと二、三日ガマンしましょう。それまでにカールが戻ってこなければ、彼女は問答無用でここから放り出すから」


 サリーに言うと、彼女は不敵な笑みとともに空いた皿を持って厨房へとさがった。


「ライオネル、大丈夫。あなたのことは、わたしがなんとかするから」


 右手を伸ばして彼の手を握ると、彼は気弱な笑みを浮かべた。


 その笑みが不安に彩られているのが、わたしにはよくわかった。



 が、そこまで待つ必要はなかった。


 待ち人であるカールが帰ってきたのである。


 カールは、エインズワース王国軍では伝説級の諜報員だった。金髪碧眼。中肉中背。カッコよすぎず、かといってマズくもない。つまり、どこにでもいるフツーの男だ。だからこそどこにでも溶け込み、与えられた任務を正確にこなせるのだ。


 彼の報告は、ほぼわたしの推測、というか予測通りだった。


 あるひとつのことをのぞいて。


「あー、サヨ。じつは、悪い報告もある」


 彼は、上官だろうと主人だろうとざっくばらんに接するのだ。


「あら? だったら先に聞きたかったわね。それって、アリーやわたしがワクワクするような類のことかしら?」


 つまり、厄介なことや危険なことだ。


「あいかわらずだな、サヨ」


 カールは、苦笑した。


「すくなくとも、きみとアリーはすぐにでも武装したがるだろう」

「まぁっ!」


 驚いてみせたが、すでにワクワクしている。


「おれが国境を越えたタイミングで、隣国の騎士たちが様子を探っていた。いずれも乗馬服姿だが、剣を佩いていて鞍には弓矢を装備している。あれは、ダグラス国の王族の直属の騎士団だ。連中、罪人を連れている。もう間もなく、ここにやって来るんじゃないかな?」


 カールは、そう告げるとオーソドックスな顔に満面の笑みを浮かべた。あきらかにわたしの反応を愉しみにしているようだ。


「まぁぁぁぁっ! なんてことかしら。大変。わたしたち、その騎士団に襲われるわけ?」


 癪に思いつつも、カールの期待通りの反応をしてしまった。


 すでに興奮状態だからだ。


 そのとき、執務室の扉がノックされた。


「どうぞ」


 という返事をしたときには、執事のコンラッドが室内に立っている。


「奥様。傲慢不遜な連中が、一方的にわめいています。なんでも、かくまっている大罪人をだせとかなんとか……」

「ああ、やって来たのね。すぐに行くわ。自称プレイステッド侯爵夫人とライオネルを連れて来てちょうだい」


 カールの言った、隣国の王家直属の騎士団がやって来たのだ。


「奥様、すでにアリーがヤル気満々のようですが?」

「かまわないわ」


 そう言いながら身だしなみを整えた。


 わたしの場合、身だしなみといえば帯剣することだ。


 だいたいシャツにズボンなので、身だしなみはあっという間に終わる。


 それから、階下へと降りた。


 隣国の武装した客人と、彼らの連れる大罪人とやらを相手にする為に。



「あの、サヨ様」


 いままさしく玄関扉から出ようとしたタイミングで、ライオネルが走って来た。


 彼は、コンラッドが呼びに行くまでもなく窓から招かざる客人たちが来るのを見ていたのだろう。


「ライオネル、心配しないで」


 彼にやさしく微笑むと、彼はカッコ可愛い顔を上下させた。


「ちょっと、なによ? せっかく爪の手入れをしていたのに、だいなしじゃない」


 自称プレイステッド侯爵夫人は、階段上に現れた途端にわめきだした。


「侯爵夫人」


 ライオネルのカッコ可愛い顔から階段上へと視線を移し、満面の笑みを浮かべて言った。


「奥様のあの笑顔、怖すぎるわ」


 サリーのつぶやきが、たしかに聞こえた。


 その横では、アリーが玄関扉を開けてすぐにでも飛び出しそうな勢いで控えているだろう。


「プレイステッド侯爵家にお客様です。侯爵夫人として、しっかり応対なさってくださいな」


 さらなる笑み。


「怖すぎるだろ、あれ?」


 その笑みを見たカールのつぶやき。


「知らないわよ。客が来るなんてこと、聞いてないもの。そんなことは、あんたたちが応対なさい」

「そういうわけにはいきません。こういうことは、侯爵自身かその代理である侯爵夫人でなくては務まらないのですから。お客人は、大分と待たされてイライラしているでしょう。さあ、はやく」


 三歳児に言い聞かせるように言い終えるまでに、アリーが階段を駆け上って自称プレイステッド侯爵夫人の手をつかみ、なかばひきずりおろした。


 すばやく扉を開け、自称プレイステッド侯爵夫人をひっぱりだす。


 その間にも彼女はヒステリックに叫びまくっている。


 それこそ、眉を顰めるほどの汚い言葉を羅列して。


「お待たせいたしました。こちらがプレイステッド侯爵夫人です」


 招かざる客人たちを油断なく見まわしながら紹介した。


「おまえっ! こんなところでなにをやっているんだ?」


 同時に怒鳴り声が発せられた。


 それは、カールの言っていた大罪人のようだ。


 隣国から道中ひきずられてきたのだろう。


 体を縄でくくられ、その縄の先は馬の鞍に結ばれている。


 そう。文字通り馬にひきずられたのだ。衣服は泥だらけで破け放題。顔は傷だらけ。破けた衣服の下の肌は、血と泥にまみれている。


 つまり、半端なくズタボロなわけだ。


「このクソ女っ! すべては貴様のせいだっ」


 大罪人は、叫び続けている。


「おまえらが捜しているのは、このクソ女だ。こいつがすべての元凶だ。おれは、こいつに騙されたんだ」


 大罪人は、身動き取れない中でも必死で顎で自称プレイステッド侯爵夫人を示している。


「ち、違うわ。わたしは、この国で生まれ育ったプレイステッド侯爵夫人よ。そんな男は知らない。ましてや、難癖付けられるいわれはない」


 自称プレイステッド侯爵夫人は、元の髪色が何色かがわからないほど染めてボロボロになっている髪を振り乱し、必死に叫び返している。


 すると、大罪人の方がさらに逆上して叫び返す。


 そんな中、招かざる客人たちの責任者らしき黒馬にまたがる男と目が合った。


「こいつは、プレイステッド侯爵だろう? 自分では、そう言っているが? だとすれば、由々しき問題だ」


 彼は、言い放った。


 彼は、わたしが本物のプレイステッド侯爵夫人とわかっているのだ。


 その傲慢な言い方がムカついた。


 わたしのうしろでアリーが息をのんだのがわかった。


 彼女は、わたしがブチぎれると踏んだのだ。そうすれば、一緒にひと暴れできると期待している。


 が、まだはやい。とはいえ、ブチぎれる一歩手前だけど。


 だから、気を落ち着かせるために軽く深呼吸をしなければならなかった。同時に、剣に触れるはずだった手をアリーに向けた。


 それが、彼女とわたし自身とを制止するためであることはいうまでもない。


 もっとも、それもいまのところは、だけど。


「ダグラス国の騎士団は、ずいぶんと横柄なのね。というか、道理や筋道という言葉を知らないのね」


 騎士団の団長か隊長か知らないけれど、彼の目を見つめたまま言った。


 この場にいる全員がハッとした。もっとも、アリーだけはみんなとは違って満面の笑みだろうけれど。


「かりにその男がプレイステッド侯爵だとして、勝手に越境して攻め込んでくるなんてどういうことなのかしらね?」

「事情はわかっているだろう? 貴様は、すでにわれわれの正体を知っているのだから」


 彼は、それでもまだ騎士らしくするつもりはないらしい。あくまでも秘密裡にことを運びたいのだ。


 まぁ、ダグラス国の王家のゴタゴタを未然に防ぐためなのだ。こうするしかないのだろう。それでも、少数とはいえ騎士団が他国に侵入していいわけではない。密使でもよこして許可を得るのが常識だ。


「それから、『貴様』呼ばわりされる覚えはないわ」


 馬上を見上げた。


「おお、怖いっ!」


 またしてもカールのつぶやき。とはいえ、つぶやきにしてはおおきかったけれど。


 隣国の騎士たち全員が殺気立った。


 もちろん、それを受けてこちら側も殺気立つ。


 アリーは、頭の中でひとりで何人やれるか考えているだろう。


 もっとも、わたしもだけど。


「王家直属の騎士団にしては、すべてがお粗末すぎるわね。それとも、王家の命令かしら? いずれにせよ、わが国はだまってはいないわね。というか、ほんもののプレイステッド侯爵はただではすまさないわ。もちろん、プレイステッド侯爵夫人であるわたしもだけど」

「ちょっと、どういうこと? あいつ、侯爵じゃないわけ?」

「なんだと、貴様っ!」


 自称プレイステッド侯爵夫人と騎士団のボスの言葉がかぶった。


「わたし、あいつにだまされていたわけ?」

「女の分際でわれわれを愚弄するかっ!」


 またかぶった。


 自称プレイステッド侯爵夫人はともかく、隣国の騎士どもにはいますぐお尻ぺんぺんしなくてはならない。


 だから、挑発しまくった。


 一触即発。


 わたしのうしろにいるコンラッドとカールとサリーとアリーは、すでにヤル気満々。そして、馭者のニコラスは、逃げだした騎士を追うために騎馬に跨って森に潜んでいる。


 戦闘になれば、コンラッドはすぐにライオネルを屋敷内に誘導する。


 なにせわたしたち全員が歴戦の勇士。眼前にいるなまっちろい騎士どもなら相手にとって不足はない。というか、楽しませてくれないと困る。


 ここのところ、わたしも含めて全員が自称プレイステッド侯爵夫人のお蔭でストレスがたまりまくっている。ちょうどいいストレス解消になるだろう。


 ありがたいことに、隣国の騎士たちは間抜けだった。


 手続きや根回しをせずにここにきたことじたい、浅慮妄動と考えざるをえない。先程は、王家が下した密命かと思ったけれど、それはどうも違ったようだ。


「ならば、口封じをするまで。こんなカスどもを連れ帰ったとて、どうせ処刑になる。ならば、ことごとくここで首を刎ね、なにもなかったことにすればいい。ここでの不幸な出来事は、盗賊の仕業というわけだ」


 なんと、騎士団のボスは、救いようのないバカらしい。


 そして、その部下たちも似たり寄ったりだ。


 鞍上、全員が剣を抜いた。


 緊張が走った。


 わたしも剣を抜こうとした瞬間である、ライオネルがわたしの前に飛び出した。


 そのとき、騎士たちのむこうにある木々の間からさらなる男たちが現れたのが、隣国の騎士ごしに見えた。


「わたしのせいなのです。わたしが、わたしがこの人たちにさらわれたからなのです。プレイステッド侯爵夫人や侯爵家の人たちには関係のないことです」


 ライオネルは、怒鳴った。


 年齢より貧弱な体は、不安と恐怖で震えている。


 おもわず、うしろから抱きしめそうになった。


「ガキが、貴様の存在自体が騒動の元だ」


 よりにもよって、騎士団のボスがそういうなりライオネルに剣を向けた。


 無抵抗な子どもにたいして、である。


「おいおい、わが領地、いや、このエインズワース王国でずいぶんとなめた真似をしてくれるではないか?」


 そのタイミングで、気配を消して馬をよせてきた大男が言った。


 その声音は、まるで獣の唸り声だ。その恫喝めいた言葉に、ダグラス国の騎士団のボスの動きが止まった。


「まぁ、イヤだわ。せっかくストレス解消ができると思ったのに」


 つくづく残念そうにつぶやいたのは、アリーだ。


「はやかったわね、ほんもののプレイステッド侯爵」


 苦笑とともに大男に言っていた。


 つくづく残念なのはアリーだけではない。


 わたしもだ。


 わたしたちのことはともかく、ライオネルにまで手をだそうとした連中は許せない。


 八つ裂きにしてやりたいくらいだ。


 しかし、これから先は駆けつけてくれた夫とその側近たちに任せるべきだ。


 妻として、夫とその部下をたてることは当然なのだから。


「プレイステッド侯爵?」


 ダグラス国の騎士たちがいっせいに振り返った。


 もちろん、自称プレイステッド侯爵夫人と自称プレイステッド侯爵もだ。


 自称プレイステッド侯爵にいたっては、縄で縛られているという情けない恰好の上情けない表情になっている。


 彼らの視線の先には、巨大な赤毛の騎馬にまたがる強面の大男がいる。しかも、その利き手にはすでに自慢の大剣が抜き放たれている。


「彼こそが、ほんもののプレイステッド侯爵よ。そちらの国ではどうかわからないけれど、わが国では『大竜の剣』と呼ばれる百戦錬磨の剣士。ちなみに、そこのプレイステッド侯爵だけれど……」


 騎士たちがプレイステッド侯爵からわたしへと視線を戻したタイミングで、プレイステッド侯爵を自称する隣国の大罪人を、いや、わが国においても罪を犯した男を顎で示した。


「ほんもののプレイステッド侯爵夫人であるわたしの夫だった人なの。もっとも、いまはプレイステッド侯爵家と縁もゆかりもないどころか、この国から追放された大罪人だけど」

「くそっ! おれが正当な当主だ。侯爵だっ! それを貴様らが……」

「だまれ、クソ野郎っ!」


 偽のプレイステッド侯爵の主張は、ほんもののプレイステッド侯爵の怒鳴り声にかき消された。


 このふたりは、兄弟だ。が、兄のほうは子どもの頃から素行が悪く、侯爵家の後継者から外されていた。が、王家に多大な貢献をしている家柄ということもあり、王家が縁談を勧めた。というか、命じた。その相手がわたしだった。


 わたしは、王家の命に従って兄の方に嫁がざるを得なかった。愛する人がいたにもかかわらず。


 貴族だから仕方がないといえばそうなのだろう。そんな無茶苦茶な王命でも従わざるをえないのだから。


 当時、まだ戦時下にあったため、嫁いでも一緒にすごすことはできないこともわかっていた。それでも、嫁いだかぎりはプレイステッド侯爵家と夫に尽くすつもりであった。ちなみに、夫になる男に会ったことはなかった。嫁ぐ前にも、それから嫁いだ後も。


 なぜなら、戦争が終結するまでに夫は不貞に始まり、じつにさまざまな不行跡を重ねたからだ。そしてついに、他人を傷つけてしまった。借金と不貞による不祥事だった。


 結局、彼はそのままこの国から消えた。その直後、彼とわたしの離縁が成立し、彼は追放された。このエインズワース王国から永遠に。


 プレイステッド侯爵、つまり弟は、わたしにたいして責任をとってくれた。はやい話が、ろくでなしの兄にかわってわたしをもらい、妻にしてくれたわけだ。


 そしていま、わたしはほんもののプレイステッド侯爵の妻として、彼にかわって領地経営も含めたもろもろのことを行っている。


 もっとも、そんな事情をいまここで隣国の騎士たちに語る必要はないけれど。


「貴様は、すでにプレイステッド侯爵家の人間ではない。それどころか、このエインズワース王国から追放されている。わが家とは、いっさい関係のないクズ野郎だ。くわえて、貴様はわが妻を泣かせ、矜持と心を傷つけた。これは、万死に値する」


 ほんもののプレイステッド侯爵が吠えた。いくつもの戦場で味方の将兵には勇気とヤル気を与え、敵の将兵には恐怖と畏怖を与えたその大音声で。


 もっとも、わたしは最初の夫、というか彼の兄とのことで泣いたことはない。最初の夫に蔑ろにされまくったのは事実だけれど、わたしは彼の兄を愛したこともなければ寂しい思いをしたこともない。というか、顔さえ見たことのない男を愛せるわけはないし会えなくて寂しく思ういわれもない。というわけで、正直なところ、彼の兄が愚かきわまりのない男でよかったのだ。


 彼の兄が追放されたお蔭で、わたしは彼と一緒になれたのだから。


「というわけだ、隣国のお間抜け騎士ども。いずれにせよ、武装の上での越境。わが領地への侵入。そしてなにより、愛する妻と家人たちへの脅しと殺人未遂。どれをとってもただではすまぬ。わが国がおまえたちに制裁を加えるだろう。刃をおさめ、このまま去るなら命は助けてやる。さっさと立ち去るがいい」


 ほんもののプレイステッド侯爵は、けっして残酷ではないし冷酷でもない。しかし、国や領地、なにより部下や領民や家人や家族に危害を加える者がいれば、何の躊躇もなく残酷にもなるし冷酷にもなる。


 隣国の騎士たちは、あきらかにビビっている。


「わかった。すぐに立ち去る。だが、こいつらは連れて行く」


 騎士団のボスは、剣先で大罪人の男女、それからライオネルを示した。


(隣国に戻りしだい殺すつもりね)


 そう直感した。


 カールの調べで、ライオネルはダグラス国のふたりしかいない王子のひとりだということがわかった。母親が王宮付きの侍女であったため、これまで公式には認められなかった。が、国王の容態が思わしくないいま、ライオネルの存在が重要視されている。というのも、もうひとりの王子、つまり王太子がクズだからだ。ライオネルの母親は、すでに亡くなっている。ライオネル自身は母親が亡くなると市井に放り出され、母親の妹が面倒をみていた。とはいえ、ロクに食事を与えられず、虐待を受け続けたという悲惨な環境だったが。そして、その妹というのが自称プレイステッド侯爵夫人なのだ。彼女は、どこでどう知り合ったのか、夫の兄と画策してライオネルを反王太子派に売りつけようとした。それが王太子派にバレたわけだ。結局、夫の兄だけがつかまり、自称プレイステッド侯爵夫人はここへ逃げてきたというわけだ。


 自称プレイステッド侯爵夫人もまた、夫の兄にだまされていたわけだ。つまり、夫の兄がプレイステッド侯爵を自称したわけである。



「ああ、もちろんだとも。こいつらを連れ帰り、煮るなり焼くなりしろ」


 プレイステッド侯爵、いや、夫が言っていた。


「ちょっとまって……」


 言いかけた瞬間、眼前のライオネルがこちらを振り返った。


『プレイステッド侯爵夫人、ほんとうにありがとうございました。あなたに出会えてよかった。お母様というのは、あなたのような人のことなのですね』


 彼は、口の形だけで言った。


 不覚にも涙があふれた。


「ちょっと待て」


 そのとき、騎士団のボスがこちらへ騎馬をよせようとした。それを夫が制止した。


「貴様らが連れ帰るのはおとなだけだ。その子は、妻とわたしの大切なわが子。わがプレイステッド侯爵家の跡取りだ」

「なんだと?」


 驚いたのは、隣国の騎士たちだけではない。


 わたし、それからライオネルもだ。


 全員が夫に注目した。


「わが子やわが妻には指一本触れさせぬ。不服なら、おれみずからが受けて立ってやる」


 夫は、怒鳴るなり頭上の太陽に向けて大剣を振りかざした。


 このエインズワース王国一の剣士である夫のその雄姿は、いつみてもうっとりする。


「ひ、退くぞ」


 騎士団のボスの号令以下、隣国の騎士たちは慌てて馬首を返した。そして、いっせいに拍車をかけて去って行った。


 どさくさにまぎれ、偽者のプレイステッド侯爵夫婦も駆け去った。もちろん、こちらは自分の足でだけど。夫の兄などは、縄で縛られたまま転がるようにして自称プレイステッド侯爵夫人を追いかけていた。


 森に潜んでいる馭者のニコラスも、こちらの様子をうかがっている。わざと見逃すだろう。


 あの連中のことは、いまはもうどうでもいい。あの連中のやることは、たかがしれている。せいぜいもがき苦しめばいい。


 目に余るようなら、夫が秘密裡に始末するだろうから。



 逃げるように、というか退散した隣国の騎士たちの気配が完全に消え去ってから、ライオネルを抱きしめていた。


 それは、自分でも驚くほど自然な動作だった。


「プレイステッド侯爵夫人?」


 さらに驚くべきことに、ライオネルの当惑の声で自分が涙を流していることに気がついた。


 ライオネルの置かれた立場にたいしてだけではない。彼の男気、というかわたしにたいする気持ちにたいして涙が止まらなかった。


 その瞬間、体全体にものすごい圧がかかった。


「愛する妻よ。遅くなってすまなかった」


 プレイステッド侯爵、いや、夫がライオネルごとわたしを抱きしめたのだ。


「獲物を奪ってしまって悪かった。きみの夫として、たまにはいいところを見せたかったのだ。エインズワース王国の将軍やプレイステッド侯爵などという地位や肩書とは関係なく、な」


 強面やおおきな体からはけっして想像できない甘えた声。そう。現役時代からの上官である夫は、こう見えても甘えん坊のワガママ坊主なのだ。


「って、そこはふつう『怖がらせて悪かった』とか『大丈夫だったか?』じゃないかしら?」


 夫は、なんだかズレている。もっとも、獲物を横取りされた感は否めないけれど。


「あー、そうかな? 悪い悪い」


 ちっとも悪く思っていなさそうな夫の言葉に、わたしの胸の中でライオネルが笑った。


 見おろすと、カッコ可愛い顔に少年らしい笑みが浮かんでいる。それがまたズキュンとくる。


「ライオネル。連中の手前、あのように申してしまったのだが……。その、うちでしばらく妻と一緒にすごしてくれないだろうか? その上で、もしもここが気に入ってくれるようならあらためておれたちの息子になって欲しい。もしも他にやりたいことや行きたいところがあるのなら、そのときには全力で援助しよう」


 夫とわたしとの付き合いは長い。彼には、わたしのことはすべてお見通しなのだ。


 たとえば、わたしがライオネルを養子に迎えたいと言いだすこととか……。


「ですが、プレイステッド侯爵……」


 ライオネルは、ハッとしたようにわたしよりはるかに背の高い夫を見上げた。


「ライオネル。きみは、勇敢にも妻やわが家の家人たちを守ってくれた。恩返しというにはおこがましいが、その勇気と男気に応えさせてほしいのだ」

「ライオネル。あなたの亡くなったお母様の代わりはできない。だけど、親友にはなれるわ。あるいは、お姉様とか?」

「お姉様? ちょっと厚かましすぎないかしら?」


 サリーの冷静かつ非情なつぶやきが聞こえたけれど、気にしない気にしない。


「もしも生い立ちのことを気にしているのだったら、心配しないで。夫やわたしはもちろんのこと、ここにいるみんなが守ってくれる。たとえどのような事態になろうとも、わたしたちはあなたの味方。あなたの親友なのだから」

「プレイステッド侯爵夫人……」


 ライオネルは、俯いた。が、すぐにそのカッコ可愛い顔を上げた。


 泣き笑いしている。


「お願いです。わたしを置いてください。手伝いでもなんでもやります」


 彼は、全力で言った。


「そうこなくちゃ、だな? ライオネル、心配するな。きみの、いや、おまえのことは妻同様愛する。そして、しあわせにする。だろう、愛する妻よ」


 その瞬間、夫がわたしの唇に自分の唇を重ねた。それから、ライオネルごとさらに抱きしめられた。


 その抱擁は、殺人的な力強さだ。きっと、ライオネルも苦しいだろう。


 だけどまぁ、しあわせの苦しみということでライオネルも耐えてくれるに違いない。


「あー、もうっ! こんな展開、不完全燃焼すぎる。ちょっと、あんたたち。せっかく演習から帰ってきたんだから、わたしとひと勝負しなさいよ」

「なんだって? 懲らしめる相手が違うだろうが?」

「そうだそうだ。おれたちをコテンパンにやっつけたところで、面白くないだろう?」

「聞いた、姉さん? 彼ら、そろいもそろってなんなのかしらね? プレイステッド将軍の側近とは思えないわ。とにかく、ウダウダ言わずに尋常に勝負なさい。もちろん、姉さんもやるわよね?」

「しょうがない子ね。わかったわ。やってやろうじゃないの」

「エーッ! 『地獄の双子姉妹』、降臨だぜ」


 外野が騒がしすぎる。


 ライオネルと夫も笑って聞いている。もちろん、わたしも。


 あたらしい家族を迎え、しあわせを噛みしめながら。



                             (了)

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