風のうたをさがして
北の国の果てに、小さな子ぎつねが住んでいました。
名前はシロ。真冬の雪のように白く、まだ幼いけれど、村の誰よりも好奇心が強く、勇気のある子でした。
ある晩、シロはおばあちゃんぎつねのそばで月をながめていました。
おばあちゃんの声は、風が木々をゆらす音とともに、静かに響きました。
「シロ。風にはうたがあるのさ。それは世界をめぐり、遠く離れた者どうしをやさしく結ぶんだよ」
シロは小さな耳をぴくりと動かしました。
「ぼくには聞こえないよ」
「本当に誰かを思ったときに、風のうたは聞こえるのさ」
おばあちゃんは静かに、にっこりと目を細めました。
その夜、シロはひとりで考えました。
風のうたを聞きたい。誰よりも遠くの風の音を知りたい。
それができれば、きっと自分はすごいきつねになれる。そう思ったのです。
次の朝。冷たい風が森をわたるころ、シロはそっと旅に出ました。
背中の毛は朝の霧にぬれ、足元にはまだ冬の名残の雪がところどころ残っていました。
「風のうたをさがすんだ」
シロはそう心に決め、北の山をこえ、西の谷をわたり、南の森へと歩きました。
けれども、どの風もただ冷たく、何のうたも聞こえませんでした。
夜になるとシロはひとりで星を見上げ、「明日はきっと聞こえるはずだ」と自分に言い聞かせました。
心のどこかでは、「風のうたさえ聞こえれば、それでいい」と思っていたのです。
ある夕暮れ、シロは森の奥の道ばたで、
片羽をけがしたすずめに出会いました。
すずめは小さな体を震わせて言いました。
「たすけて…もう飛べないの」
シロは最初、迷いました。
「今は急がなきゃ。風のうたを探すのが先だ」
けれども、すずめの目を見たとき、シロの胸はちくりと痛みました。
「ぼくの背中に乗って」
シロはすずめを背に乗せ、森の奥の巣まで送りました。
枝や葉を集めてあたたかい寝床を作り、「安心して休んで」と静かにささやきました。
すずめは涙をこぼして言いました。
「ありがとう。君の背中は春の風のように柔らかかったよ」
そのときでした。
ひゅう…ふわり…
どこからともなく、やさしい音が耳に届きました。
それは、生まれてはじめて聞いた風のうたでした。
シロは旅をつづけました。
シロが森の奥を歩いていたある日のことでした。
空は晴れ、青い空に白い雲が流れていました。
葉のすき間から射す陽の光の中に、かすかにか細い助けの声がまじって聞こえてきました。
「たすけて!」
シロは耳をぴんと立て、声のする方へと駆けだしました。
やがて見つけたのは、小さなリスが大きな倒木の陰に追い込まれ、灰色の大きな狼が低いうなり声をあげてじりじりと近づいている光景でした。
リスは体を震わせ、木の枝の根元にしがみついています。
狼はゆっくりと前足を踏み出し、冷たい目で獲物をにらんでいました。
「にげてもむだだ」
「ぼくには関係ない…」
シロはそう思いながらも、倒木の上からすっと飛び降りました。
「やめろ!」
狼は驚いてシロを見ました。
「なんだ、小さなきつねか。おまえも食われたいのか?」
シロは勇気をふりしぼって、狼の前に立ちはだかりました。
風がシロの白い毛並みをそっとゆらしました。
その姿は小さくても凛としていて、どこか不思議な力を感じさせました。
「このリスはぼくの仲間だ。あっちへ行け」
狼はにやりと牙をむきました。
「小さなきつねごときが、俺にかなうと思っているのか」
しかし次の瞬間。
風がざわりと森の中を駆け抜け、木々を揺らしました。
枯れ葉が渦をまき、狼の目の前をさえぎるように舞い上がりました。
狼は思わず身を引きました。
そして、シロの静かな瞳と向き合ったとき、なぜかこれ以上進めないと感じたのです。
「…おもしろくない…が今日は引いてやろう」
狼は鼻を鳴らし、森の奥へと消えていきました。
シロはすぐにリスのもとへかけよりました。
リスはまだ震えていましたが、シロを見るとほっとして小さくうなずきました。
「ありがとう。きみは夏の風のように強い心をもっているね」
そのときです。
ひゅう…さーっ…
やわらかく温かい風のうたが、シロの耳にやさしく届きました。
シロが南の森を旅していたころ、風が静かに葉を揺らしていました。
赤や黄色の葉がふわふわと空を舞い、森の道をやわらかく包んでいました。
夕暮れどき、シロはふと、すすきの茂みの中からくすんだ鳴き声を聞きました。
「う…うぅ…おかあさん…」
シロが近づくと、そこには小さなたぬきの子が、丸くなって泣いていました。
まだ毛もふわふわで、小さな前足で目をこすっています。
「どうしたの?」
シロはやわらかく声をかけました。
たぬきの子は顔をあげ、しゃくりあげながら言いました。
「おかあさんとはぐれちゃって、さがしてたら森で道に迷ったの…」
シロは自分の胸が少しだけちくりと痛むのを感じました。
(ぼくも昔、森でひとりになった夜があった…)
「だいじょうぶ。ぼくがいっしょに探してあげるよ」
シロはたぬきの子にそっと尾を巻き、静かに歩きはじめました。
日は沈み、夜の帷が降りてきます。
夜の森は暗く冷たく、風が木の枝をきしませましたが、シロは何度も「ここにいるよ」「こわがらなくていいよ」と語りかけながら歩きました。
やがて、遠くから「クークー」という低い音が聞こえました。
たぬきの親が、子を探して鳴いていたのです。
「おかあさんだ!」
たぬきの子はぱっと顔を明るくしました。
シロは茂みの影に隠れ、そっとその様子を見守りました。
親たぬきと子たぬきがしっかりと抱き合う姿に、シロの胸はやさしく温まりました。
親たぬきは、隠れているシロに気がつくとお礼を言いました。
「ありがとう。あなたは秋の風のように、やさしく私の子を連れて来てくれましたね」
そのときでした。
すぅ…ひゅう…
秋の風がすすきの間を通りぬけ、静かにシロの耳にうたを届けました。
シロはさらに南の大きな湖まで歩きました。
風は冷たく、湖面には氷のかけらが揺れていました。
湖の岸辺で、シロは老いたカメを見つけました。
カメは甲羅に雪をかぶり、じっと動かずに座り込んでいました。
「どうしたの?」とシロがたずねると、カメはゆっくりと目をあけました。
「若いきつねよ…わしは旅の途中で力尽きた。この冷たい夜と共に永い眠りにつこうと思う…」
シロはふとためらいました。
もう日は暮れかけています。このままでは自分も凍えてしまうかもしれません。
「風のうたを聞くためには急がなくては…」
そんな思いが胸をよぎりました。
しかし、シロは甲羅の雪を払い、枝葉を集めてカメのまわりにやさしく敷きつめました。
そして、冷たい風から守るように、そっと自分の体を寄せました。
カメは静かに言いました。
「冬の風のような澄んだ目をした若者がいるんだ。世の中はまだ捨てたもんじゃないな」
ひゅるり…ひゅう…
その瞬間、湖の水面をわたって低く、深いうたが聞こえてきました。
それはこれまでのどの音よりも重みとぬくもりのある風のうたでした。
旅のあいだにシロの耳はたくさんの風のうたを聞きました。
すずめ、リス、たぬき、カメ。
シロは思い出しました。自分はこの旅のはじめ、ただ「自分がすごいきつねになりたい」という気持ちで旅に出たことを。
「ぼくは…知らないうちに風のうたを聞いていた」
シロは小さくつぶやきました。
そう。本当の風のうたは誰かを思う心、そっと手を差しのべるやさしさから生まれていたのです。
そしてそのうたは、聞こうとした者の耳ではなく、思いやりを行動にした者の心にこそ届くものでした。
春の匂いがただようころ。
シロは長い旅を終え、北の丘に帰ってきました。
あたりは淡く雪がとけ、風がやわらかく草の芽をゆらしていました。
シロは丘のうえに座り、空を仰ぎました。
おばあちゃんの言葉を思い出します。
「本当に誰かを思ったときに、風のうたは聞こえるのさ」
そのときでした。
ひゅう…ふわり…
どこからともなく、やさしく包みこむような音が耳に届きました。
遠くのすずめのさえずり、森のリスのかすかな足音、たぬきの子どもの鳴き声、湖のカメのゆったりとした呼吸。
すべての思いが風に乗り、ひとつのうたになって響いていました。
シロは静かに目を閉じ、にっこりとほほえみました。
「これが…風のうた」
それは世界のどこかで誰かが誰かを想い、やさしく手をのばすたびに生まれ、めぐり、響きつづける風とやさしさのうたでした。