糸口
どれほどの日が経ったのか、正確にはもう思い出せない。奴隷としての生活は、そのくらい過酷で単調だ。
毎朝、食事と呼べるか怪しいパンくずを口に押し込み、使用人から怒鳴り声を浴びながら重い荷物を運ぶ。仕事が終われば、倉庫の隅で体を丸めて眠る。そんな繰り返しに飲み込まれ、時間の感覚がすっかり麻痺していた。
にもかかわらず、俺は夜になるとこっそり廊下を抜け出し、埃まみれの“廃棄部屋”へ足を運ぶ。屋敷の持ち物を勝手に使うなんて、奴隷の身であまりにも危険な行為だ。
だが、どうにかして脱出の可能性を探らなければ――その思いだけが、意識を保つギリギリの糸だった。
廃棄部屋に転がる壊れた魔導具の中から、比較的損傷の少ないものを選ぶ。焦げ付いた金属パーツや割れた魔石の破片を、盗み読んだ資料に照らし合わせて組み直してみる。
これ自体が今すぐ役立つわけじゃない。スキルを持たない俺が作ったところで、大した力になるとも思えない。けれど、まずは実験だ。小さな光すら灯せれば、この世界の仕組みに踏み込む手がかりになるかもしれない。
「……まるであの研究室に戻ったみたいだ」
真夜中の部屋でカバーを外しながら、ふいにそんな言葉が漏れた。
かつて現代の研究施設で、締め切り間際に追われながら回路を組み替えていたあの日々……あの頃も疲れていたが、少なくとも“殺されるかもしれない”なんて恐怖はなかった。
今の俺は一体なんの締め切りに追われているのか――せいぜい“命の期限”とでも呼ぶべきかと、皮肉な笑みが込み上げる。
工具代わりの細い棒で魔導具のカバーをこじ開け、内部の回路状の紋様を眺める。資料には、魔石から魔力を流すルートを整えれば、スキル類似の効果が得られると書かれていた。
ふと、この世界では“スキル”という力がどれほどの異常事態を起こせるのかを、まざまざと見せつけられた光景を思い出す。
――数日前、昼の作業の合間に中庭を横切ったときのことだ。
ちょうど衛兵が訓練をしていたのだろうか。ひとりの男が掲げた手から紫色の炎が噴き出し、目の前の木製人形を一瞬で炭の塊に変えた。
それも火を放ったというより、空間が歪んだように見えるほどの熱量とオーラが男の手を中心に炸裂していた。それこそ、この世界独特の物理法則にあぐらをかいたような“不合理”に満ちた光景。
「……あんなバカげた力を人間が持てるんだもんな。そりゃ“無能”の奴隷は相手にされないわけだ」
思い返すだけで背筋が寒くなる。俺の世界ではどれだけ努力を積んでも、あの現象を再現するなどあり得ない。熱量を発生させるエネルギー源からして桁外れだ。
それでも、だからこそ――魔石と魔導具を通じて、かすかでもこの世界の“理”を解き明かせたら、俺にも何かできるかもしれない。そんな期待が拭えない。
さっと頭を振って意識を戻し、分解中の装置に集中する。細かな断線部分をつなぎ、魔力の流れを阻む障害を取り除いていく。すると、廊下でかすかな足音が聞こえた。嫌な予感がして物陰に身を潜めようとするが、時すでに遅い。
「……誰がいるの?」
ドアが静かに開き、低く通る声が耳を刺す。金色の髪――リディアだ。
これが初めて、俺の作業が人に見つかった瞬間だった。もし告げ口されたら間違いなく重罪……そんな最悪の想像が頭を駆け巡り、心臓が大きく跳ねる。
「くそ……」
思わず小声が漏れる。リディアは部屋の中央まで踏み込み、足元の散乱したパーツを見下ろす。俺はどう言い訳していいか分からず、ただ金属棒を握りしめたまま硬直する。
彼女は驚きや失望を見せるでもなく、ふとした“無関心”を装うような瞳でこちらを見やると、小さく息をついた。
「……そんなに怯えなくてもいいわ。私には関係ないから」
あまりに素っ気ない言葉に、こっちが拍子抜けしてしまう。正直、ここで土下座でもすれば勘弁してもらえるのかと思ったが、彼女はそれを待つ素振りすら見せない。
理由は分からないが、通報する気はなさそうだ。しかしそれ以上、助ける気配もない。ただ一瞥しただけで踵を返そうとする。
「な、なんで……」
ごく小さく呟いた問いには、彼女は答えなかった。
振り返った横顔に読み取れる感情はほとんどない。俺の行動が馬鹿らしいとでも思っているのか、それとも興味がないだけなのか――こちらからは何も見えない。
リディアはそのまま部屋を出て行き、扉が静かに閉まる。俺は一拍遅れて息を吐いた。
「……助かった、のか?」
胸の奥でまだ心臓がうるさく脈打っている。告げ口される可能性は否定できないが、少なくとも今すぐに騒ぎになることはなさそうだ。
ほっとするのと同時に、あれは何だったのかという混乱が渦巻く。あの貴族令嬢が、奴隷の俺に何も言わず立ち去るなんて――ただの無関心? 利用価値なしと判断された?
いずれにせよ、今は作業を続けるしかない。俺は震える手で魔導具を抱え直し、再び分解に没頭した。
その後、何日経ったのかすっかり分からなくなった頃、俺の生活リズムは完全に崩壊していた。
夜ごと作業を続け、昼はろくに眠れず、雑用に集中する気力も尽きかけている。ミスが増えれば叱責と罰の回数も増え、身体の痛みはもちろん、精神的にも追い詰められていく。
だが、不思議と作業をやめる気にはならなかった。あの研究室で徹夜続きだった日々を思い出すと、むしろ妙な懐かしささえ感じる。あのときも、結果が出ないまま夜明けを迎えては自己嫌悪に沈み、たった一度の成功体験に救われていた。
今回も似たようなものだ。今すぐに何かが変わるわけじゃないが、小さな成功が得られれば明日を生きる理由になる。
「……頼むから動いてくれ」
ほつれの少ない魔石のかけらを慎重に組み込み、回路紋様の断線を補修する。丸一日かかった作業の末、装置が淡く光を放ったとき、胸に小さな達成感がこみ上げた。
もちろん、これで何を成せるわけでもない。しかし、火を噴くスキルを目撃したときの衝撃を考えれば、こうして光を灯せるだけでも十分に奇跡的だ。
「スキルなんてなくても……こんな風に魔力を扱えるんだ、俺だって」
微かに揺れる光を見つめながら、思わず口元が緩む。
せっかくだから、しばらく手元に置いておきたい。部屋に放置すれば誰かに見つかって壊されるかもしれないし、これが俺の糸口になる可能性を捨てたくなかった。
夜更けの廊下を、注意深く進む。心臓は早鐘を打ち、身体は鈍い疲労に蝕まれている。だが、あと少しで倉庫に戻れる――そう思った瞬間、
「おい、そこの奴隷。今何を持っている?」
ドキリとした。濁った声が背後から飛んできて、振り向くと巡回の衛兵がこちらを睨んでいた。
持ち物を聞かれれば、誤魔化しようがない。焦りと恐怖が一気に込み上げ、口がうまく動かない。
「い、いや……これは、その……」
衛兵の足音が迫り、腕をつかまれる。こんな形で見つかったら言い訳できるはずもない――どう考えても、俺は屋敷の物を盗んだ泥棒扱いされるだろう。最悪の場合、その場で処刑されてもおかしくない。
「見せろ。お前が勝手に持ち出していい物じゃないだろうが」
押し殺した声が耳に刺さる。振りほどこうとしても、疲弊しきった奴隷の身に抵抗する力など残っていない。
ああ、これで終わりか。数日かけてちまちまと修理してきた装置が、結局こうして奪われるなんて――現実はあまりに無慈悲だ。呼吸が詰まりそうになる中、廊下の暗がりを見渡す。
(……頼む、誰か……)
喉の奥で言葉が詰まり、衛兵の鋭い視線に押し潰されそうになる。助かる術などないと分かっていながら、薄れゆく意識の中で、一抹の奇跡を願わずにいられなかった。




