5話
菜緒と別れた琥珀は、足早に廊下を歩いていた。
思考を埋め尽くすのは、先程の殺気。
これまで幾度となく当てられてきた鬼のものと同等の気配だったが、それにしては妙な感覚だった。
(・・・あれは、どちらかというと牽制に近かったな)
殺気と言うにはあまり命の危険を感じず、威圧のようなものだった。
こちらの正体がバレて、これ以上詮索するなと脅しを掛けてきたのかもしれない。
殺気は一瞬とはいえ、あのままあの場に居て最悪襲ってこられても困るため離れたが、果たして正解だったかどうか。
「・・・颯」
『何だ、お嬢』
今日も主である仁ではなく琥珀の近くで待機している颯に小さく呼びかければ、すぐさま脳内に返事があった。
「鬼と思しき気配が出た。姿も何も分からないが、学校内に鬼がいるのは間違いなさそうだと、仁に伝えて欲しい」
『了解した』
颯に伝言を頼み終えると、琥珀は足を止め深く息を吐いた。
(このまま調査を続けていればいずれ鬼が出てくるかもしれない。だが、一般人を巻き添えにしてしまう事を考えれば、一度切り上げた方が良いか・・・)
「――――月守さん?」
「!」
背後から突然名を呼ばれ、琥珀は驚いたように背後を振り返った。
考え込み過ぎていたせいで近づいてくる気配に気づかなかった。
不覚、と心中で自身を叱咤し、琥珀は声の主を確認する。
そこに立っていたのは不思議そうに首を傾げる佳月だった。
一方、仁はコンビニのレジ袋を右腕に引っかけ街中をゆったりと歩いていた。
サラリーマンや観光客といった人混みを抜け、閑静とした路地裏に身を滑り込ませる。半ばまで進んだところで、何の変哲もないただの壁に向かって五芒星の形に指先を動かした。すると、壁に縦の長方形の切れ目が入り、まるで最初から存在していなかったかのようにその部分だけが溶けるように消えていった。漆黒の闇が広がる先には、下に続く階段らしき段差がぼんやりと発光し、その存在を知らせていた。現れた階段を仁が下っていけば、すぐさま出来た空間が塞がりそこは元通り、ただの壁となった。
十数メートル下った先には、太極図が描かれた黒いドアが静かに設置されていた。これもまた暗闇の中で薄らぼんやりと光り、人によっては急に現れたように感じるだろう。
「入るぞ長舟」
一言断りを入れ、仁は勝手知ったるという風にドアを開け中に入る。
中は二十畳くらいの大きさの密閉空間で、畳が敷き詰められた部屋の中央部分にちゃぶ台と丸い色とりどりのクッションのような分厚めの座布団が台を囲うように五個並べられており、両端の壁には文字や浮世絵などの掛け軸が飾られている。更に奥の壁には、和を取り入れた空間にはおおよそ似つかわしくない大型のディスプレイモニターが一つ、その左右に一回り小さいモニターが取り付けられている。
「よぉ鷹乃守」
モニター前に配置されているデスクの椅子に腰掛け、背もたれを頼りに大きく身体を仰け反らせた男が気怠げに仁に笑いかけた。
深緑の癖の強そうな長い髪を適当に結い上げ、緩く弧を描いた金木犀色の目の下には濃い隈が貼り付いている。タンクトップにスウェットパンツという楽な格好をした男の名は長舟 黎。
“柊の牙”の中にある、鬼に関連する情報を収集することを専門とした忍だけで設立された“鳩”という役職に就いている。“鳩”は協会が用意した特殊な空間に拠点を置いており、陰陽師や忍者が彼らを訪れる際はパスワード代わりの印を組むこととなっている。このパスワードは定期的に変更され、“鳩”自身から担当地区にいる陰陽師・忍者に通知している。ちなみに、協会本部も同じような仕組みになっており一般の目には触れられないように、そして鬼に感知されないように結界が張られている。
くるりと椅子を回し仁に向かい直ると、黎は大きく伸びをした。パキ、ポキと骨が鳴る音が、機械の駆動音に混じって仁の耳に届く。
「相変わらず不摂生な生活送ってるな。ホラ、差し入れ」
「おっ、サンキュー」
仁が持っていたレジ袋を差し出せば、黎は目を輝かせて受け取った。中身は二、三種類の飲料水とおにぎりがいくつか入っており、黎は嬉しそうに笑みを深めた。
そこでふと、仁の傍らで常に控えている少女がいないことに気づいた。
「あれ、チビちゃんは?」
チビちゃんとはもちろん琥珀のことである。仁と出会う数年前から琥珀と黎は知り合いで、何があったか不明だが黎は琥珀を大のお気に入りとして可愛がっている。将来は“鳩”の一員として一緒に仕事が出来るようにと情報収集のノウハウを琥珀に教え込んだのだが、残念ながら琥珀は仁の相棒として日夜鬼と戦っている。
「琥珀は今、潜入調査中だ」
「・・・・・・チッ」
仁の答えに盛大な舌打ちをしたかと思えば、黎はそのままガックリと項垂れた。
「何だよ、チビちゃんいないのかよ。チビちゃん来ると思ってケーキ用意してたのに・・・・・・」
「お前のことだから知ってるのかと思ってたんだが・・・」
情報収集のプロである彼らは、ハッキングはもちろん、盗聴・盗撮、果ては探偵顔負けの張り込み調査なども行う。今回、仁と琥珀が別行動しているのも把握済みだと思っていたのだが、知らなかったことに仁は僅かに驚いた。
「鬼に関する情報は集めても任務のことは俺らノータッチだからな。それにプライバシーやプライベートに関わることは、ずっと前にチビちゃんに嫌がられたし。それからは盗聴も盗撮もしてねぇよ」
「おい待て、聞き捨てならねぇことさらっと言うな」
「安心しろよ、お前にゃこれっぽっちも興味はない」
「ひとっつも安心できねぇよ。俺の相棒に何してくれてんだてめぇ」
知らぬ間に相棒が盗聴盗撮されていたなど寝耳に水にもほどがある。帰ったら琥珀もきっちりと問い詰めなければならない。
仁の握りしめた拳がプルプルと震え始めたのを目にとめ、黎は慌てて話題を変えた。
「それより、今日来たのはこれだろ。ちゃんと調べてあるぜ」
デスクの端にプリントアウトして置いてあった資料を仁に手渡す。昨夜、急に仁に依頼されて急いで調べ上げたものだ。
ひったくるようにして資料を取った仁は、座布団に腰掛けた。
記載されているのは、五十嵐 佳月の友人であり鳳樹香と小林真尋のいじめが原因で転校し、その後自殺したという《 》女生徒、桐生 彩葉に関することだ。念には念を入れ自殺に至るまでの経緯や彼女の遺族が今どうしているのかなどを黎に調べてもらったのだ。
桐生 彩葉とその家族の詳細なプロフィールを始め、交友関係なども洗いざらい調査されており、一番下の紙に簡略的に纏められた経緯が載ってあった。
桐生 彩葉――――。
運輸会社に勤める父・桐生 隆とイラストレーターとして働く母・桐生 彩の一人娘として誕生。都内の幼稚園、小学校を卒業後、星ノ咲学園に入学した。五十嵐佳月とは幼稚園の頃からの幼馴染みで、家族ぐるみでの付き合いだったらしい。
友達にも恵まれ、まさに順風満帆といった学園生活を送っていたが鳳 樹香と些細なことで言い争いになったことが原因で目をつけられ、度重なるいじめに耐えきれず転校。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、転校からわずか一週間後に自室で首を吊り、死亡した。遺族は現在、父親が仕事を辞めて妻とともに地方に引っ越し他者との関わりを一切断っているとのことだ。
そして――――、
読み進めていく仁の目が、最後の一文で止まった。
胡座をかいた脚に乗せた右腕で頬杖をつき、仁は深く溜息を吐く。
「・・・・・・遺族がやるせねぇな、これは」
「そうだな・・・」
差し入れのスポーツドリンクの飲み口にストローを差し、一口吸い上げて嚥下すると黎は前髪を掻き上げた。
「でもまぁ、どうしようもできないだろ。遺体が一瞬で消えたとあっちゃ、警察も捜査の仕様がないさ」
最後の一文に書かれていた言葉。
それは、検視のために霊安室に安置されていた桐生 彩葉の遺体が、解剖医がふと目を離した隙に忽然と消えていたとのことだった。
監視カメラを確認したところ、一秒にも満たないノイズが一瞬入ったかと思えば、次の瞬間に映った映像にはすでに遺体が影も形もなかった。映像に手が加えられた形跡もなく、警察は一応捜索はしたものの遺体は見つからず、この件は謎と恐怖を残したまま幕を閉じた。
「鬼が遺体を持ち出したと見て間違いないだろうな」
「あぁ、だがその目的が分かんねぇな。時間が経った遺体なんざ、言っちゃ悪いが新鮮味がないだろうし・・・」
鬼は基本、生きたまま人間を喰らうことが多い。黎が言うとおり、生きているうちが一番新鮮で美味しいからだ。過去に、襲った人間の死体を冷凍保存して一日に身体の一部位を解凍して食べる鬼がいたが、あれは特異中の特異な鬼だった。
まさか、今回の鬼はその特異な鬼と同じ死体を喰らうのが好きなのだろうか。
だが、桐生 彩葉の遺体だけを持ち出した理由が分からない。鬼の腕力なら人間の二人や三人くらい簡単に運べるのに、安置されていた他の遺体も持ち出さなかったことが引っかかる。
顎をさすり、唸っていた仁が突然弾かれたように顔を上げ、右耳に右手を添えた。
「どうした、・・・・・・あぁ、そうか分かった。無事ならいい」
端から見れば大きい独り言のようだが、黎は近くにいる式神からの連絡だと察した。
「そうだな、一般人への被害を考えれば一旦切り上げてもいいかもな。それはあいつも分かってるだろ。じゃあ、今日も迎えに行くから時間教えてくれ」
耳から手を離し、仁は眉間を揉んだ。
「チビちゃん、何かあったのか?」
「いや、大したことじゃない。鬼と思われる気配が現れたらしくてな、その報告だ」
「じゃあ、やっぱ学園に鬼がいるのか」
「おそらくな」
そう答えながら資料をバッグに仕舞うと、仁は立ち上がった。
「資料ありがとな。次は琥珀も連れて来るわ」
「絶対だぞ」
念を押す黎に「はいはい」と返事し、仁は足早に部屋を出て行った。
(相変わらず過保護だなぁ、あいつ)
クツクツと喉奥で笑いながら、黎はレジ袋からおにぎりを取り出す。
何かあったとき、すぐに琥珀の元に駆けつけられるように行ったのだろうと容易に想像がつき、笑いが止まらない。
二個ほど出し、残りは冷蔵庫に入れておこうと腰を上げた瞬間、黎はしまった、と顔を顰めた。
一人暮らしの、それも食事を必要最低限に済ます男の部屋にある冷蔵庫は膝くらいの高さしかない、中が二段となったコンパクトサイズで、入る容量もそんなに多くない。その上の段はお気に入りの少女のために購入した数種類のケーキが収まった箱が占領している。
そのことをすっかり忘れていた黎は、慌てて携帯を手に取った。