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シーと21世紀の阿呆船

作者: ユッキー



《第一の手紙》



 オレは貴方(あなた)の名前も知らない。しかし貴方(あなた)があの方の妹であることは、報道を通じて知ることができた。この手紙が貴方(あなた)に届くかどうかわからないし、封をあけてくれるかどうかも定かでない。けれどもオレは、数十億光年を旅して赤く(またた)く一等星を見つめ、貴方(あなた)にこの手紙を書きはじめたのだ。 ──貴方(あなた)が母親とともに父親の兄である伯父のもとで暮らしはじめたとの情報を得ることができた──

 秋になれば一本の金木犀きんもくせいが香ばしい匂いを発し、春になれば赤いアネモネが庭いちめんを飾る木造家屋。十字架は掲げられていないものの、まるで教会堂を思わせる鋭角な三角屋根は紅焔(こうえん)のように(あか)蒼穹(そうきゅう)を貫く。両側に垣根付きの舗道のある県道から、南方へ延びる専用通路 ──約30メートルほどの── のいちばん奥の堅牢なこの木造家屋に、オレと愛犬シーズーのシーが移り住んだのは、あの方つまり貴方(あなた)の兄が起こした ──日本中を揺るがした── あの事件が契機となってのことだった。そう向日葵たちがやや上を向き、真夏の太陽に毅然(きぜん)と対峙している季節だった。


 貴方(あなた)の兄が起こした元首相銃撃事件の衝撃は、すぐに現実的なことというよりもどこか夢幻的なものとしてオレの脳裏に刻まれた。オレは職場の大型テレビの前で茫然自失(ぼうぜんじしつ)となって立ち尽くし、窓から差しこむ陽光がとても眩しく感じられた。いつかはオレこそが成し遂げたいと、子どもの頃から密かにこころの奥底で育んでいた願望が、現実のものとなったことを悟りはじめながら、貴方(あなた)の兄が数人のSPに取り押さえられた際の無表情な顔が忘れられない。あの方は焼けつくアスファルトの地面に顔を押さえつけながらも、こころの底で笑っているようにも見えた……






《第二の手紙》



 心奥(しんおう)に秘めていたオレの願望がどのようなものであったのか、そこから貴方(あなた)に語ることをオレは望む。

 電電公社のいち社員にすぎなかった母方の亡き祖父は、太平洋戦争後しばらくすると将来を見すえて、仙台市近郊のいくつかの土地を購入した。 ──単なるサラリーマンがどのようにして数カ所の土地を購入できたのかは不明──

 さらに長女に孫 ──長女とはオレの母であり孫とはオレのこと── が生まれると、すぐに祖父はそのなかのとくに利便性がよい土地に、今度は付近の山の一区画を買いとり、樹々を伐採して良質な木材をふんだんに使った堅牢な木造家屋を建てた。 ──懇意にしていた腕利きの大工によって、すべての柱や梁に良質で丸太のような丈夫な木材が用いられ、まさに小さいながらも要塞のような建造物であった── しかもこの木造家屋は、その外観にも著しい特徴があったため、県道を行き交う車や垣根付きの舗道を歩く人々は、さも異様に感じながら紅焔のように赫い鋭角な三角屋根を見あげていただろう。


 亡き母は何も教えてくれなかったけれど、どうやらオレは双子として生まれてきたはずなのに、ひとりっ子として育てられた。

 オレがまだ小学生だった夏休みの、東の空が不思議な色に染まった朝だった。祖父の家の庭にある井戸の手押しポンプで ──奇妙な音に驚きつつ── 水を()み、いくぶん冷んやりする水で顔を洗っていると、母の妹のまだ結婚前だったヨーコチャンが、背後で右手を眩しそうに(かざ)し囁いた。身体を(かが)ませ洗面器の水で顔をビシャビシャさせていたオレの耳には、けっして聞こえないだろうと鷹を(くく)っていたのかもしれないが……


 ──ほんとうは、オジイサンは初孫の名前をヒロミとしたかったんだけどね、でも双子だったから……


 微風のようなかすかな囁きは、オレにとってなによりも大切な新しい真実だった。オレは強い衝撃を受けながらも、聴こえていない素ぶりのまま水をビシャビシャさせ、いつもよりも念入りに顔を洗いつづけた。


 ほんとうはヒロミと名づけられるはずだった双子のアネは、物心ついたときからもちろん存在していなかったし、当然生まれてからオレはひとりっ子として育てられ、父も母も、そして祖父においても双子だったことを口にしたことはなかった。それでもオレは、夜明け前のなんとも不思議な色の東の空が神々しく美しかった記憶とともに、ヨーコチャンが囁いた微風のような言葉を新しい真実だと確信し、双子のアネがこの宇宙のどこかで生きつづけていると信じはじめた。 ──もうひとりの胎児が死産だったり出生後に急死したとは思えなかった── 以来オレは、母や父よりも身近な存在として、そして生きていくうえでのかけがえのない励ましつづけてくれるパートナーとして、見たことも会ったこともない双子のアネに、大切なことを語りかけつづけながら成長してきた。


 ──アネちゃん! オレが住む国鉄官舎に、ひと足先に中学生になったひとつ歳上のナミちゃんという女の子がいるんだ。ナミちゃんもひとりっ子だけれど、オレたちは兄弟のように仲がいい。待ち合わせて一緒に下校した際、一生ほんとうの姉弟のように仲良くしようね! といったら、ナミちゃんは、一瞬じっとオレを見つめると急に走り出してしまった。あのときオレは、どうしてナミちゃんが急に走り出してしまったのか、まったく理解できなかったけれど……

 それからナミちゃんは、急に立ち止まって振りかえると、長い髪を(わずら)わしそうにしながら(つほみ)のような口を小さく動かした。声が小さくてオレには何も聴こえなかったけれど……


 東北地方太平洋沿岸の小さな村にある国鉄官舎に、オレの家族もナミの家族も住んでいた。白いコンクリート造りで2階建の官舎は、南北に3棟平行に並んでおり、父はこの村から10数キロ南下した地方都市の国鉄の電力区まで通っていた。

 晩ご飯を終えて、2階の自室の、南側のカーテンを開けると、ひとつ南棟の平行にまっすぐ先のナミの部屋がまだ暗いままだった。しかたなく紺碧色(こんぺきいろ)の夜空に(きら)めく星たちを眺めながら、いま自分が見ている星の光が何十億光年もむかしに発せられたものだという覚えたばかりの知識に思いを巡らせていると、ようやくピンク色のカーテンが明るくなってうっすらと人の動く影が認められた。

 オレはうっすらとした人影が止まったまま動かなくなったのを見定めると、ふたたび紺碧色の夜空を見あげ、煌めく星たちの中からひときわ赤く光る一等星を見つけた。ずっとオレやナミを見守ってくれている一等星として……

 ほどなくして明るいピンク色のカーテンにもう一つの大きな人影が映り、明るかったカーテンが暗くなった。オレは暗くなった窓を凝視しながら不安にかられ、アネちゃんに語りかけずにはいられなかった。


 ──アネちゃん! あの大きな人影はきっとナミちゃんのお父さんの影だろう。ナミちゃんは酔ったお父さんはすごく息が臭くて、大嫌いだといっていたけれど!


 同じ年の蒸し暑い夏の晩、 ──ちょうどお盆の頃、晩ご飯を食べ終え茶の間でテレビを観ていると── ナミの父親がいつになく真剣な表情で訪ねてきた。オレが2階の自室へ上がると、父と母とナミの父親は、1階の茶の間で息を詰めたように話しはじめた。どうしても気になったオレは、暗い階段を踏みはずさないよう慎重に下段まで下りると、茶の間の3人の会話が聴こえてきた。 ──蒸し暑さのためTシャツの裾で顔の汗を何度も(ぬぐ)いながら── どうやらナミの父親は自分の妻であるナミの母親ついて、語気を強めたやや低い声で、ひとつのことをくり返し訴えているようだった。女房が勝手に貯金を全額使ってしまったと! ──後日、ナミの母親がある韓国系の宗教団体にのめり込んで貯金を全額献金していたことを知ったのだが── ナミの母親は、ナミの華やかで端麗な容姿とは違い、どことなく地味でおとなしい印象があり、いつも長い髪を後ろで束ねていた。ナミと兄弟のようにとても仲がよいオレに対して、いつもゆっくとした丁寧な口調でお礼を述べてくれた。


 ──ユウちゃん! いつもナミと仲良くしてくれてありがとうね。ユウチャンのことはいつもナミから聞かされているんですよ!


 しかしナミの母親は、ナミをおいたままなかなか国鉄官舎の自宅に帰って来なかった。


 ──アネちゃん! ナミちゃんのお母さんが帰って来なくなってしまったよ! どうしてだろう、あんなにナミちゃんのことを(いと)おしく大切に思っていたはずなのに!


 それからいく日かが経過した晩夏の遅い時間に、突然ナミがパジャマ姿のまま茶の間のサッシ窓を叩いた。驚いた母がわけを尋ねると、ナミの父親が酔って物を投げつけてきたという。母は、とりあえず今晩はウチに泊まりなさいといって、泣きはじめてしまったナミをやさしく(なだ)めた。


 ──明日の朝には酔いも覚めるだろうから、そうしたらおばさんがナミちゃんのお父さんときちんと話しをしますから。今晩はユウちゃんと一緒におやすみなさい。


 オレとナミは並んだ布団の上で、スズメやらの小鳥の(さえず)りが聞こえはじめる明け方まで眠らずにいた。ナミはずっと啜り泣きが止まらなかったし、言い知れぬ怒りに襲われたオレは、無意識に右手のこぶしを握ったまま、なぜナミが泣きつづけているのかぼんやりと浮かぶ天井を ──身近なひとつの宇宙として── 睨みながら考えつづけた。


 ──アネちゃん! なぜナミちゃんは泣きつづけているのだろう? ナミちゃんを泣かせている奴をオレは絶対に許さない! 朝陽が昇り小鳥が囀る世界はとても美しいけれど、この世界は美しいものだけではなく、どこか醜く歪んでいるものが存在している。いつの日かオレは、醜くく歪んだ存在のいちばんてっぺんに立って偉そうにしている奴をやっつけてやりたい。二度とナミちゃんが泣いたりしないように!


 道端にススキの穂が目立つ初秋になっても、ナミの母親は戻らなかった。事情を知った母方の祖父母が、ナミの今後を心配して引き取ることになった。祖父母は宗教団体から娘を取り戻すため、いろいろな手段を使い力を尽くしているようだったが、簡単なことではなかった。ナミは母親が宗教団体の信者になって戻らなくなったことをきちんと理解していた。


 ──ユウちゃん! お母さんがこんなことになった責任はワタシにもあるのよ。お父さんを(こば)むことができなかったから。お母さんをひどく悲しませてしまった……

 ユウちゃん! きっと手紙を書くから!

 またふたりで赤い一等星を眺める日が来ることを願って……






《第三の手紙》



 ──もう4年くらい会ってないし、一緒に住んでもおらんから、事件起こしたとか言われても、知らん!


 貴方(あなた)は兄の起こした元首相銃撃殺害事件について、上記のようなコメントをマスコミのインタビューで答えていたようだが、オレはそのような貴方(あなた)に、ひと昔前に起きたあるひとつの小さな出来事を伝えたいと願う。きっと貴方なら不機嫌な顔をしながらも耳を傾けてくれると信じて…… 地元テレビのローカルニュース番組や地方新聞の県内版に掲載されたひとつの小さな事件を。今でも紺碧色の夜空に煌めく赤い一等星を見つけると思い出す、ほんに小さな生命のまことの叫びのような事件を……


 十数年前、 ──オレが高校2年生のとき── その事件は仙台市内のある施設で起きた。地元のローカルニュース番組で報道され、地方新聞の県内版にも掲載されたが、まだ韓国系の宗教団体がほとんど社会問題化されていない時期だったため、すぐに人々の記憶から忘れ去られる程度の事件だった。

 8月の初旬、盛夏(せいか)の仙台市内は東北三大まつりの一つの仙台七夕まつり ──3000本もの吹き流しを中心とした七夕飾りが仙台市中心部を(いろど)り、およそ200万人の観光客が訪れる── で賑わっていた。その仙台市中心部からほど近い場所にある韓国系の宗教団体の仙台支部にひとりの少女が現れた。少女は信者である自分の母親の名前を告げ、自分が2世信者だと申告し教会内に入ると支部長との面会を求めた。そして面会に応じた支部長 ──60代の初老の男性── と短いやり取りをしたのち、突然、持参したサバイバルナイフで切りつけたのだ。腹部を刺された支部長は重症を負い、少女は教会内の信者に取り押さえられ、通報を受けた警察官に引き渡された。

 少女が18歳の未成年者であり、実際に少女の母親がこの韓国系の宗教団体の信者であったことのほか、少女が起こした殺人未遂事件の動機等の詳細は報道されなかった。しかしオレはテレビのローカルニュース放送を観た瞬間から、激しい無力感と心奥から湧き起こる強い罪障感とともに、その少女が幼馴染みのアネモネのような笑顔のナミであることを疑わなかった。


 (つい)に殺人未遂事件を起こしたナミとは、彼女が祖父母に引き取られたあとも何度か手紙でのやり取りをつづけていたが、突然、返事が途絶えてしまっていた。

 早死にしたオレの母が病床のベットで教えくれたこととして、宗教団体へ入信したナミの母親は、韓国へ渡ったという噂もあったが、結局は行方(ゆくえ)がわからないこと。一方で父親は連日の深酒のため身体をこわしやはり数年後には亡くなってしまったこと。そしてナミについては、意外な真実を、黄疸(おうたん)のような気色の悪い顔をした母 ──このときオレは母の死が近いことを覚悟していた── は、遠いむかしを思い出すように話してくれた。


 ──ずっと内緒にしていたけれど、ナミちゃんはね、ほんとうは養子だったのよ。わからなかったわよね。あの夫婦はどうしても子どもができなかったため決心して養子を迎え入れたんだれど、結局あんなことになってしまって! お母 さんが宗教団体に入信したり、お父さんは酒浸りになったり、なんのための決心だったのか。ナミちゃんがほんとうに不憫(ふびん)でかわいそうだった。ところが血のつながりがなくても母方の祖父母が、ナミちゃんの将来をとても心配して引き取ってくれた。ほんとうにありがたいことだた。あのお祖父さんはとても責任感のある立派な人でした。


 ところがナミが高校へ入学した年に、その祖父も癌のために亡くなってしまった。日頃から祖母との折り合いが悪かったナミは、高校を卒業することなく祖母の家を出てしまったらしい。

 それからナミがどんな暮らしをしていたのか定かでない──のちに仙台市内の風俗店にナミに似た美しい少女がいたという噂は聞いた── が、8月の初旬、仙台七夕まつりで賑わう盛夏の仙台市中心部からほど近い韓国系の宗教団体の教会内で、18歳になったナミ ──世間一般の若者が謳歌する青春とは大きく隔たった時を過ごしたであろう── は支部長に対する殺人未遂事件を起こしたのだ。






《最後の手紙》



 オレがなぜ貴方(あなた)に手紙を書こうと思いいたったのか? はじめのうちはオレ自身も明確な答えに窮していたのだが、ようやくその理由が了解されてきた。韓国系の宗教団体に翻弄され崩壊した貴方(あなた)たち家族の実態について、さまざまなな報道に接しているうち、オはひとつの願いを(かな)えなければならないと強く渇望するようになった。そう、殺人未遂事件 ──本来ならオレが為すべきこと── を起こした幼馴染みのナミが別れ際に言ったひとつの願いを、愛犬シーズーのシーとともに叶えたいと……


 オレは小学校を卒業すると、父親の勤務地だった太平洋岸の地方都市に引越し、ナミのいなくなった国鉄官舎を去った。その後、高校、大学と進学し世間一般の若者と同じような青春を送ることができた。そうして社会の荒波にもまれながらも何とか一般的な社会人として生きている今、 ──ときおり脅迫観念の虜になり心療内科に通う日々もあったが── オレはある本を読んだことをきっかけに、ひとつのおそろしい事実を夢想しはじめるようになった。

 その本によると、南アメリカのコロンビア山岳地方の寒村では、畸形(きけい)のシャム双生児 ──シャム双生児=結合双生児とは、体が結合している双生児のこと── がしばしば誕生していたという。市場で泥人形を売る屋台でも、五体満足なのは真ん中に置くのに対し、欠けたりひん曲がったりしたものは、できるだけすみっこに置くように、世界の中心から遠い所のすみっこでは畸形の誕生が似つかわしいと記されていた。日本のすみっこの東北地方で誕生した双生児が、畸形のシャム双生児だったとしても不思議はない。しかもシャム双生児として生まれたふたりのうち、オレだけが選択され生かされたという真実さえも……

 たしかに物ごころついた時期に、オレは自分のヘソを中心にあたかも痕跡(こんせき)器官のような円輪の(あと)があることに気がついた。けっして他の子どもには見られない円輪の痕が、どうして自分にだけあるのか、浴室の鏡に映しながら不思議に思ったものだ。

 あくまで推測の域を出るものではないが、今思えば、祖父は畸形のシャム双生児を産んだ長女と秘密裏に選択され生き残った孫の身を案じ、この要塞のような堅牢な木造家屋を建築したのではなかったのか? 初孫の誕生を素直に喜べない苦渋の決断とともに、生かされなかったもうひとりの孫を鎮魂するための祈りの場所としても。

 そうしていまオレは、日本中を揺るがした貴方(あなた)の兄が起こした元首相銃撃殺害事件を契機として、ようやく今まで放置されつづけてきたこの堅牢な木造家屋で、祖父の願いよりもかなり年月が経ってしまったが、シーとともに隠遁(いんとん)生活をはじめたのだ。生かされなかった双子のアネを鎮魂しながら、またひとつの願いを叶えるために……


 ──アネちゃん! オレはこの紅焔のように赫い鋭角な三角屋根の木造家屋に移り住んでわかったことがあったんだ!

 2階には屋根裏につながる木製の階段が立てかけてあって、6畳ほどの屋根裏部屋があるんだ。三角屋根の頂点には大きな天窓があり、その真下には本格的な白い反射式の天体望遠鏡が備えられていた。この本格的な白い天体望遠鏡をはじめて見たときオレは、亡き母の言葉を思い出したよ!


 ──オジイサンは、いつも祈るように遠くを見つめていました。たえずやさしそうな表情で夜空を眺めていました。


 おそらくオジイサンは、白い天体望遠鏡で夜空を眺めながら、生かされなかったもうひとりの孫に話しかけていたのではないだろうか? オレの記憶に残るオジイサンのやさしく(いつく)しみに満ちた表情から、きっと哀惜と慈愛に満ちた言葉を語りかけていたに違いないだろう。


 そうしていまオレは、晴れた日には、この白い望遠鏡でオジイサンと同じように、紺碧色の夜空に煌めく赤い一等星を見つづけている。赤い一等星を見つめていると不思議と双子のアネの顔が浮かんできて、生まれてきた時のように一心同体に戻ったように感じられるのだ。大量の食糧を備蓄し隠遁生活をはじめたのは、ひとつの願いを叶えるためであり、もうひとつの目的を実現するためでもあった。


 最後に貴方(あなた)に伝えておきたい。貴方(あなた)の兄やナミのように人間社会と決別した人たちのために、いつの日にかオレは、この堅牢な木造家屋を一隻の船に造りかえて阿呆船(あほうぶね)にするつもりだ。 ──もちろん祖父が懇意にしていた腕利きの大工の跡取り息子に依頼をして── 貴方(あなた)の兄やナミたち人間社会と決別したオレたちだけのための阿呆船を…… ──オレはオジイサンの蔵書のなかから、15世紀のドイツの作家ゼバスティアン・ブラントによって書かれた『阿呆船』尾崎盛景訳を見つけていた──


 明け方、目覚めたシーを抱きあげ、まだ紺碧色に広がる夜空を見あげると、いくつもの尊い星たちの煌めきがあった。シーが小さなピンク色の舌で、オレの頬を舐めるのが合図だ。

 阿呆船は出航する! オレは甲板に屹立(きつりつ)しつぶらなひとみのシーをしっかりと抱きながら、アネモネのような笑顔のナミとともに前を見すえる。阿呆国ナラゴニアというよりも双子のアネがいる赤い一等星を目指して……




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