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必然性は本当ではない

「K霊園に隣接する林内で、身元不明の老人の遺体が発見された」というニュースが大画面スクリーンから流れ出た時、Mは空港のカウンターでチェックインをしていた。

 口元に笑みを湛えた若い女性が、テキパキと流れるように事務処理をしてくれた。なかなか好感の持てる丸顔の女性だった。無事に終わると、Mはロビーのソファにひとり腰を下ろした。空港にいる自分にまだ慣れなくて、人生初のパスポートを何度も見返した。最後のページには、彼女の無愛想な顔画像と共に、真新しい正式な氏名が刻印されていた。


 Mがパスポートを斜め掛け鞄に入れ、Tシャツの上に着ていた長袖シャツを丸めていると、背後から聞き慣れた声がした。

「見つけたよ」

 Mが振り返ると、杖をついたワタナベ君とジャック・ロンドンが並んで立っていた。以前に比べて一段としわが増えたな、とMはとっさに感じた。ビジネスマン風のスーツの男や、派手なキャリーバッグを引く初老の夫婦が彼らの横を通り過ぎ、空港スタッフ数人が何か大きな荷物を積み上げている。ワタナベ君はMの隣に座り、「きっと僕は、可愛い孫を見送りに来た心配性のおじいさんに見えるんだろうな」と楽しそうに笑った。


 Mは彼に微笑むと「わざわざ来てくれて、有難う」と感謝した。ここまで来るのが彼にとっては大変な遠出である事は、Mにも容易に想像できた。彼はつい最近まで、風邪をこじらせて入院していたのだから。


 そのときジャックが、ワタナベ君の膝に一方の前足を軽く乗せた。ジャックの首に下がったクリスタル・ガラスが揺れ、光を拡散させて虹色に輝く。その光を何気なく見つめた時、Mの脳裏にじいさんの最期の言葉が浮かんだ。電話から聞こえるじいさんの声は、今から思うと普段以上に明瞭で澄みきっていた。

「真理と作為の位置に捉われるな。必然性は本当ではない」

 じいさんがこう言い終わると、電話は突然ぷっつりと切れてしまった。録音に失敗した留守番電話のような、じいさんの声がギロチンにでも切断されたかのような人工的な冷気が背筋を走った。今から思えば、早朝の頭にはあまりに唐突すぎる別れだったのだ。これが例の代償だったのかと、Mは後に何度も自問した。しかし結局、証言者のいない謎解きの答えは、決して見つかりはしない。


「これをね、渡そうと思ってたんだよ」ワタナベ君はジャケットのポケットから古い本を一冊取り出した。表紙中央に淡い色彩の絵が描かれた、洗朱色の美しい装丁本だった。

「旅行の合間にでも読んで。時間つぶしに」


 予想以上にゆったりとした飛行機の座席で、Mは老人の肉体を持つ美しい青年について考えた。彼の作品が完成するまで、彼の身体は時間を弛めてくれるだろうか。かつて同じ時を過ごしながら、彼が経験することのない旅に出る「今」という瞬間に、彼女はどうしようもない不可思議さを感じた。これから目にする全ての事象もまた、ある時点での一瞬の創造物に過ぎないのではないかと思いながら、Mは本の1ページ目をめくった。黄金の昼下がりは、もう目の前だった。


《了)


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