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孤独な門番

 ワタナベ君のアトリエは、狭いながらに使い勝手が良さそうだった。大きく採られた明かり窓の上部には、チューリップを模ったステンド・グラスが数枚はめ込まれている。油絵具の独特の香りが染みついたテーブルが、部屋の中央にでんと備えられ、形状の異なる油彩筆やペンチングナイフなど画材道具が、乱雑に置かれていた。そしてそれらに埋もれる形で、Mは自分の画集の存在を認めた。2年前に出版されたものだ。がそれには触れずに、彼女は木製のイーゼルに掛かったカンバスに目を向けた。まだ下書き段階の河原の風景だった。


「よく分かったね」とワタナベ君が言った。彼は画材道具を押しのけた机上の空間にティーカップ2客をねじ込み、注意深く紅茶を注いでいた。半透明のカーディナルレッドの液体が、白磁のカップに良く映えた。

「うん、入り組んだ路地もないし、あの地図ですぐに分かったよ。シンプル・イズ・ベスト」とMは、温かいカップに冷えた指先を添えながら答えた。指先が感じる熱が、腕を伝って首筋まで走った。

「いや、そのことじゃないんだ。僕自身のこと」とワタナベ君は、自分の顔に人差し指を突き立てながら微笑んだ。彼の顔に掛かった老眼鏡越しに、両目尻の放射状のシワがギュッと寄る。Mは7歳のワタナベ君の目尻がどんな風だったか、思い出そうとした。

「どうして分かったの。すっかり変わったって自覚してるんだよ、これでも」

「どうしてって……、声と手、かな。後はその笑い方も変わってない気がする」

「そうか。君は覚えててくれたんだね、有難う」


Mはどう答えるべきか分からず、とっさに目を伏せて紅茶を一口飲んだ。そして、美味しい、と笑顔で一言告げた。ワタナベ君の「君は」という表現に引っかかったのか、最後の感謝の言葉に戸惑ったのか、彼女は自分自身の気持ちが見えなかった。そもそもなぜ自分が12年の時を経て、年老いたワタナベ君と向かい合っているのか、Mはこの状況こそ不可思議だと思った。彼女の記憶の中では、幼い彼の姿だけが「ワタナベ君」だったのに、今はもうその記憶さえ、改ざん済みの幻想となってしまったようだった。


 アップル・ティーの甘酸っぱい香りが、テーブル越しの彼らを取り巻いた。Mはその香りが、まだ若干のぎこちなさを残す2人を繋いでくれるように願った。ワタナベ君も一口カップに口をつけ、風味を確かめるようにゆっくりと喉に流した。先程のMの証言の真偽を吟味しているようだった。そうしてワタナベ君は話を続けた。


「この間君の隣に座ったのは、偶然といえば偶然だけど、故意といえば故意なんだ。なんていうか、空席があそこだけだったのは偶然。でも一瞬君の横顔が見えて、普段は昔の知り合いがいると避けるんだけど、あの時は無意識に足が前に進んだんだ。なぜかな、気づかれるかどうか、試したかったのかも。もう随分、昔の僕を知ってる人と話してなかったから。それに君は昔のまま、良い意味で『普通』だったしね。それにあの一緒にいた女性……、あの人には一種の超越性を感じたんだ。なんていうか、彼女と一緒にいると、君まで時間の隙間に引きずり込まれるって、急にそう思ってね。だから僕が隣に座って、君を救わなくてはいけないって思ったんだ。こんなヨレヨレ老人の姿なのに、救うも何もないと思うだろうけどさ」


 ワタナベ君の言葉を聞いて、Mはレディ・バウンティフルのことを思い出した。気配のない赤毛の女。適した状況の下で、適した代価を試算する女秘書。そういえばあのカフェの日以来、一切の連絡がない。もちろんMはあの川田とか名乗る成金趣味の言いなりになるつもりはない。だが彼の言う「犠牲」とはどういう意味なのか、気にならない訳ではないのだ。Mは鞄から封筒を取り出し、例の老人の素描を慎重に広げた。


「これ、この間持っていたものだね。あの女性と関係があるの?」とワタナベ君が訊ねた。

「うん、そう。実はこの老人を探さないといけなくなって」

 Mはこれまでのいきさつを、ワタナベ君に説明した。見知らぬ2人組との出会い、彼らの荒唐無稽な脅迫と命令、突然の人探し。ワタナベ君は興味深げに、幾つかの質問以外は黙ってMの話を聞いていた。彼女が話し終えると、彼はおもむろに素描を手に取り、絵の老人と向かい合った。ある一点から微動だにしない彼の姿は、フェルメールの人物画に匹敵する、完璧な構図の下で光を捉えたものだった。Mはその完璧さに目を奪われ、猛烈にデッサンしたい衝動に駆られた。が彼女は己の感情を抑え、うつむいたワタナベ君の額にのみ、自身の全意識を集中させた。この完璧な瞬間に肉をつけることは、たとえ神の子であっても不謹慎な気がしたからだ。Mは、2人の年老いた男の間でどのような会話がなされているのか見当もつかない悲しみを感じながら、時に身を任せた。


 5分が経過した。Mは自分の腕時計で時間を確認し、室内に時計がひとつも無いことに気づいた。ワタナベ君の腕にも時計はない。懐中時計をポケットに忍ばせているとも思えない。そういえば、カレンダーの類も見当たらない。


 まるで彼女のことなど忘れてしまったように、ワタナベ君は一心不乱に素描を見続けている。彼にとって時間とは、彼自身が線引きできる「固体」ではないのだろう。Mや他の人が属する時間軸に、彼はもはや戻れないのだ。Mはその男の生真面目に直線的な額を観察しながら、彼の境遇に思いを巡らせた。何歳の時に、彼は「老い」という病に絡め捕られたのか。本来なら彼女と同じ19歳の肉体であるにも関わらず、現実の彼は一体何年物の肉体を保有しているというのか。いや、彼は彼自身の肉体さえ保有してはいない。彼の肉体は彼の意思から遠く離れた時間内で生かされているのみ。分裂も合致もしない箱と中身を抱える辛さは、孤独な門番に似ている。自分が何を守っているのかも忘れ、自身の存在理由も忘れ、それでも他人の所有物を死守し続けなくてはならない。そしていつか、たったひとりで静かに朽ちていくのだ。


 Mがここまで考えた時、ワタナベ君がゆっくりと顔を上げた。彼は一瞬、彼女の存在に戸惑った表情をした。しかしすぐに彼は笑みを浮かべ、軽くMに頷いた。


「残念ながら僕はこの人を見たことないよ。でもなんだか単なる人物画ではなさそうだね、これは。この画からは、生身の人間が発する『気』みたいなものを感じる。それも普通の人間の気じゃなく、狂気じみた支配欲の塊。それにしても、そもそもこれは何年前に描かれたんだろう。紙から察するに、結構経ってるんじゃないかな」

「そういえば……、もしかしてもうこのおじいさん……」Mは最後の言葉を濁した。しかしワタナベ君は「死んでるかもね」と軽く言い、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。老眼鏡で拡大された瞳に、薄氷色の光が宿っていた。


「君の依頼者、と言うか脅迫者は、その人を探し出せば最終的に『完璧な美』に辿り着くと考えているんだろう? それで納得してくれるなら、手分けして探してみよう。君にわざわざ探させるということは、この人物も画家で、この町に縁があるのかもしれない。もしかしたら彼も『カミノコ』で、若くして資格を失ったのかも。それなら老いた顔を知られてなくても仕方がない。とりあえずこの町の病院に絵の画像を送るよ。老人といえば、病院が社交場だからね」

「うん、分かった。予算内で期限内で、精一杯やってみるか。私はクラスの生徒さん達にも訊いてみる。ワタナベ君、手伝ってくれて、ありがとう」

「この世界で生きるには、自力で厄介事を処理していくしかないからね。時間が許す限りやってみよう」


 ワタナベ君は机に両手を突いて立ち上がり、杖を掴むと、カンバスの方へ向かった。Mも彼の動きに合わせて立ち上がり、彼に並んでカンバスの前に立った。沈黙が落ちた、気がした。

「僕の両親は」カンバスを眺めたまま、ワタナベ君が話し出した。「僕の両親は、僕が認定から漏れた時点で、僕を自由にしてくれたんだ。好きなことをすればいいし、自分で全て決めていいと言った。7歳だった僕は、認定されることがどれだけ重大なことか、全く理解していなかった。つまり認定されなかったことが、どれだけ両親を失望させたかも、本当の意味では理解できなかった。でもね、あの年は君だけが認定されたと聞いて、無性に涙が流れた。敗北感とは違った。でも喜びなんて偽善的なものじゃない。今までに感じたことのない感情が湧いてきて、涙で外に押し出したかったんだ。そのまま体内に残すと、その感情に本来の僕が喰われそうで怖かったよ。悪夢だった。早く目覚めたかったのに、現実から醒めることはなかった。そうして君は特権を得ていなくなり、僕たち凡人は無防備なままで世界へ放り出された。それでも僕は、描くことを止めなかった。たとえ画家として一生存在できなくても、誰も僕の作品を目にしなくても、とにかくこの時代を生きていこうと思ったんだ。でも僕の時間は予想以上に少なかった。僕の肉体は乾いたスポンジのように、時間をどんどん吸収することにしたようだ。こいつはね、とっくに80歳を越えているらしいよ」ワタナベ君は自分の胸を軽く叩いた。


「ご両親は?今は一緒に暮らしてないの?」Mが訊いた。

「うん。両親とは5年前に別れたきりだ。まだ発病する前だった。彼らは革命の意義を信じていたし、失敗の代償も了解していた。全て仕方のないことなんだ。彼らは、僕の精神だけは守ってくれたんだから」


 ワタナベ君は未完成のカンバス上を、指でさっとなぞった。久しぶりに長い話をしたのか、少し横顔が疲れていた。Mは話題を変えようと、7歳の彼に関する記憶を探った。当時の彼の絵は、どんなものだったろうか。「ワタナベ君、たしか昔は植物の細密画が好きだったよね」

「え、ああ。そうだったね。でももう随分描いてないな、なんせ老眼がきつくなったから。それに今は、観察の対象物ではなくて、僕というモノが実際にいた空間の模倣を残しておきたい気がするんだ。集中した存在の重みじゃなく、成立ちの連鎖を確認するようにね。確かにこの画の場所は、君と歩いた河原の一部だ。でもあの日の河原じゃない。君と出会う前の河原なんだ。しばらく前の日暮れ時、ひとりでぼんやり散歩をしていた。そしたら幼い姉妹がね、歩道の右脇に並んでなにやらコソコソとこちらを窺いつつ相談している。なんだろうと思ったけど、そのまま彼女たちの前まで突っきってみたんだ」 


「とーんだ」「とーんだ」


 その姉妹は、彼の身体よりも先ににゅっと伸びた影の先端部分を、2羽の子ウサギのようにぴょんぴょんと飛び越えた。彼女たちのスカートが順に翻り、小花模様が思いも掛けず彼の前に鮮やかに散った。その日の何度目かの試練に見事成功した幼い姉妹は、満足げにきゃっきゃと笑い合っている。その光景を目の端に残し、彼は黙々と歩き続けた。ほの寒い外気と対照的に、彼の掌から胸、喉の奥から鼻孔までを、熱く湿った塊が抜けていく。彼はその熱を感じながら、生きていてよかったと心から思える自分に気づいた。そして生まれて初めて、生きていることの驚きを誰かに伝えたいと願った。


「だから、このままの僕に気づいてくれて、ありがとう」


 ワタナベ君の変わらぬ幼い声を聞きながら、Mはその深遠さに心打たれた。老いて尚生きる意義を探して、彼の肉体の一部は時間を逆流させたのではないか。昔の記憶を共有する彼女に出会うために、彼女に気づかせるために。

 Mはただ黙って、カンバスの上辺に指を滑らせた。窓からは陽光が差し込み、路上の犬の鳴き声が騒々しく響いていた。鳩はのんきにくつろぎの歌を歌い、世界は優しく回っている。そして彼女は、この日を忘れることはないだろうと予感していた。

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