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侵入者

 K霊園に隣接する林内で、身元不明の白骨化死体が発見されました、という正午前のニュースがTVから流れた時、Mはバスタブに浸かりながら足の裏を削っていた。いや、正確に言うなら、白い大理石のバスタブに囲まれた犬小屋のような生ぬるい空間で、である。湯は入っていないが、その名残の熱気が体中にぺったりと吸いついてくる。そして今、彼女が手にした手術道具は、元直方体のピンクの軽石――すでに二隅の角は丸く不均等な傾斜を湛えていた。Mの青白い右足の裏側は親指の付け根付近が少し黄色く、その丘は子象の牙のように無邪気だがどこか原始的な印象を与えた。Mはその部分を注意深く、何度も何度も丸くなった軽石の角でこすり続けた。生まれたばかりの子象に牙が生えているのかどうか、ふと疑問に思ったが、こすり続ける内にそんなことは忘れてしまった。


 彼女の両手の爪は、すべて軽石と同じ淡いピンクに染められていた。そして彼女はまたもや軽石で、左足の親指の丘をこすり始めた。しかしこちらは先ほどよりかは短く、すぐに動きを止めてしまった。湯で洗った軽石を鏡の前の石鹸台――正確には石鹸台にいるマヌケにカビた2羽の黄色いアヒルの上――に置き、束ねていた長い髪をほどいた。生成りレースのキャミソールからはみでた両肩に、少しうねった亜麻色の髪が無遠慮に広がる。醜いそばかすだらけのごつごつした両腕で膝を抱えながら、彼女は両目を軽くつぶった。象たちが甘ったるいクリームタルトを食べると仮定して、あのごつい鼻の先をどのように最適な輪状にするのか想像してみた。


 Mがデニム・パンツのバックポケットに手を突っ込もうとした時、突然電話のベルが鳴り出した。自宅の電話だ。革の斜め掛け鞄に仕舞いこんでいた携帯電話を見ると、「着信あり」の文字が並んでいた。発信元は予想できる。会合中の母親であろう。

「もしもし」

「まだ家なの?」

 家の電話に出たのだからまだ家である、とは言わなかった。これが「早く行きなさい」という意味であることぐらい、一般平均的小学生でも理解できる範疇である。空気を読むことさえできればだが。

「まだ家。でもじきに出るよ」

「そう。気をつけて。電気は全部消して。戸閉まりしっかり」

「ん……ありがと」


 返事と同時に電話を切り、Mは昨日の行動の検分を再開した。予想通り、金属臭い真鍮の鍵は右のバックポケットに入ったままだった。その収穫物を握り、例の鞄を肩に掛ける。年季の入ったえび茶色の編み上げブーツの紐がしっかりと結ばれているのを確認すると、彼女は扉を開けて表に出た。この時彼女は、自分が3分後に自転車の鍵を取りに戻ってくるとは、よもや思いもしていなかった。


 彼らは実在の人間だったのだろうか、とMは考えていた。彼女の周囲には、彼女よりもずっと年上の紳士淑女たちが、バクの剥製を題材に熱心にデッサンを続けていた。事件――と言えるかどうかは疑問だが――が起こったのは2時間前、Mが自転車の鍵を取りに家へ戻った時のことであった。外は思いのほか薄ら寒く、でっぷり太ったムクドリたちが肩を寄せ合い梢に止まっていた。彼女は両手をこすり合わせながら、春を迎えたであろう南半球の人たちを想った。彼女自身は南半球どころか異国自体に行ったことがなかったが、友人の旅行写真やネットやテレビ・雑誌の海外特集で、この世界のある程度を見たことはあった。つい先日も、愛想笑いに徹した現地の動物と疲れ切った友人の2ショット写真を見せられ、そこに観光啓蒙係の憂鬱さを重ねてギョッとさせられたばかりだった。そんなこんなを考えていたら、自転車の鍵を忘れたことに気づき、彼女は再び家に戻ったのである。


「君が戻ってくることは予測していた。君はこの半年、3割5分8厘の確率で自転車の鍵を忘れていく。この数字自体には、大した意味はないがね。7歳までに3割5分8厘のコドモが死ぬのと同じだよ。そう、3割5分8厘のコドモが神のうちに神の下へと召し上げられ、奇跡を知る者だけが7歳で『神の子』の称号と特権を与えられる。君のようにね。おっと失敬、私の名前は川田ジョージ。こちらは秘書のレディ・バウンティフル。美しい名前だろ。もちろん3美神の特権者だ。おや、君は今こう思っているねえ。『この男の目的はなんだ』と。そしてこうも思っている。『この男は一体どこから入ってきたのか。これはまさかの泥棒ではないのか?』とねえ。率直に言って答えは否。私は不幸なことにコソ泥でもいっぱしのギャングスターでもない。物質的にそこそこ満たされた生活を送っている、つまりは一介の富裕層紳士だ。それも最上級と自ら名乗ってさしつかえない程の富裕層紳士だ。したがって、堂々と玄関から失礼したよ。彼女はなかなか優秀な秘書でね。大概のものは、期限内に予算内で入手してくる。そもそも君のちっぽけな玄関の鍵ぐらい、たいした代物じゃないからねえ。でも安心してくれたまえ。ちっぽけな鍵は返すし、もうニ度とここにもこない。では用件に入ろうか。私が話し出してから、すでに1分20秒の時間が過ぎ去ってしまったらしい。時は金なりとは、よく言ったものじゃないかねえ。まず確認だが、君は週2回、『公民のための一般教養教授教室レベル1-18』を受け持っている。専門は『美の創造』。一般人相手に、バカ大層なネーミングだ。そして君は12年前に認定されてから、まずまず勤勉に国務に従事している。なるほど、結構なことだねえ。そうして君の作品は富裕層のコレクションとして、徐々に高い地位を収めつつある。この私もまた、君の絵画を1枚所有しているのだよ。礼は結構。認定直後の、薄らクソ寒い少女趣味のバカセンチメンタルなものではなく、ここ3年以内で描かれたものだ。そう、バレエダンサーの女が2人、まさに晴れの舞台へと登場してきた一場面。先に登場した女は緋色の髪飾りを頭につけて、その白い揃えられた両足はしなやかに伸びきり、ふくらはぎが力強く、魅力的に隆起している。その筋肉、その肉体の均衡は、まさしく本物の物質的な存在の輝く一瞬だと観客達は息を飲む。時が切り取られ、無限の美が映し出されているね。画面下半分の舞台の余白が、さらに構図に緊張を与え、現実と絵画の世界の境界をうやむやにする。舞台と絵画の境界を、鑑賞者自身の意識が埋めてしまうと言ったほうがいいのだろうか。うむ、定型文づくしの幼稚な批評はうんざりといったところかねえ。だが私自身の内なる言葉はむやみに口にしたくないのだよ。まあつまり、私が言いたいのは、人間の自我とは恐ろしく自己中心的ということだ。自分は何のために存在しているのか、答えがあることを前提に模索し、苦悩し、時に己や周囲の人間を恨み憎む。そんな悩める自分を美しいとさえ錯覚する。確かに、ある視点からいえばそれは人間らしさの象徴であり、美の一形態かもしれない。我々は常に死を意識するからこそ、生まれた意味を、存在の幻想を追求せずにはいられないのだから。そうそう、ある哲学者はこう表現した。『真理は探求者の目の奥にある』。皮肉なことに、そいつは両目を突かれて死んでしまった。幸運にも即死だよ。単なる酔っ払い同士のけんかの果てに。いや、これはとんだ横道に入ってしまった。失敬。つまり私が言いたいのは、君が抱える『人間らしさ』に対し、ひとつヒントを与えることが出来そうなんだよ。君はうすうす気づいているはずだ。私はね、君の絵を独りでぼんやり見ていると、いつもあるひとりのバカな男を思い出す」


 男は一気にここまでまくし立てると、行儀の良いカラスの羽根のような漆黒のベルベット・ジャケットの内ポケットから、銀紙に包まれた真緑のガムを1枚取り出し、わざとらしく優雅な指使いで口に投げ入れた。彼の両手にはまるでこれから執刀する外科医かのように、指にぴったりと吸いついた革の白手袋がはめられていた。稚拙で人工的なミントの臭気が、Mの鼻の奥まですっと流れ込む。遠慮のない目の前の男そのものの下品さだ。Mは慣れない鼻腔の刺激に顔をしかめながら、男の一挙手一投足を無言で観察していた。

 その男は癖毛の細い銀髪に、右耳だけ大きな金環のピアスをし、髪色より若干黄ばんだ無精ひげを生やしていた。瞳は薄いブルーグレーで、やぶ睨みぎみ。薄い唇は右側に若干ゆがんでいる。ジャケットの下は黒のピンストライプ・シャツで、きっちり首まで閉めた襟元には飾り文字『K』が踊るシルバーのネックレスをしていた。がっちりした上半身の割に足は長細く、白革のソファから唐突に2本の枝が生えているといった感じである。靴は白のサイドゴアで、念入りに手入れがしてあった。まあ、彼自身が手入れしたのではないだろうが。年齢はおそらく、30代中盤であろう。しかし声は野太く濁っており、外見に比べてずっと年配の印象を与えた。彼の後方左側には、レディ・バウンティフルと呼ばれた20歳前後の長身の若い女が立っていた。鼻筋の通った色白で、アングルの作品のモデルになりそうな艶めかしさ。しかも燃え立つような赤毛をしている。Mが彼女を観察し始めた瞬間、男がそれを察知したのか突如口を開いた。彼は口の中にあった例のガムを、いつの間にか細長い人差指と親指の間に挟んでいた。もちろん白手袋はピッチリとはめたままだ。


「私が君ぐらいの年の頃、我が家の古参の執事がこう言った。『あなた様はこのままでは、このお屋敷のもの塵ひとつだって受け継ぐことはできませぬ』と。それを聞いた母は怒り狂い、執事をひどくムチ打ち、ついには両目を失明させてしまった。執事は両目からぬらぬらと血の涙を流し、それでも私に何か告げようと、片腕をゆらゆらゆらゆら伸ばしていたよ。両膝をつきながら、生まれたばかりの子馬のように頼りなく不安げにね。恐ろしかったか? いや、そうじゃない。それは自らの予言で身を滅ぼす愚かな予言者を思わせた。私はその姿に呆然と見とれ、不思議な恍惚感に身をゆだねた。無数の光の波に包まれた赤子の気分だった。怒り、憎しみ、哀れみ、そんな感情は、真の美の前には全くもって機能しないのだと、私はようやく理解したのだよ。そして私はその日を境に審美眼を手に入れた。そうして現在まで、私の富にひきつけられたハエたちは、こぞって私の趣味の良さを褒め称え、次から次へと高価な美術品を持ち込んでくる。私は暇つぶしに、これと思うものだけを買い取り続ける。しかし、しかし未だにあの両目から血の涙を流す人間以上の美を手に入れることが出来んのだよ。おっと、君はなにか言いたそうだね。解っている。その執事は翌日死んだ。ただそれだけだ。出来ることならあのままの美しさで永久保存しておきたかったがな。イノチは儚くていけないねえ」


 男が人指し指と親指に挟まれたガムを器用に丸めた。と直ぐに後ろの赤毛女が、嘘のように――正に「嘘のように」とMは感じた――まっ白なレースのハンカチーフでそれを受け止めた。そして彼女は、その物体をくるくるとすばやく小さく包むと、小脇にかかえた黒いクラッチバックの中にしまった。バチンという、バッグの小ささからはおおよそ予測不可能な巨大な金属音が、彼らのいるリビングの空気を震わせた。Mは「はやく家に帰りたい」と念じ、ここがその帰るべき家である事実に愕然とした。


「つまり、私の用件というのはだ、君にその『完璧な美』を探してもらいたいんだ。美の創造主さん。期限内に、予算内で。君にはまだ理解できないかもしれないが、探し出せるのは君だけだと、あの老いぼれは死の間際に示唆したのだよ。ほほう、見返りが欲しいのか。だが見返りを望む前に、犠牲の心配をした方が得策かもしれんよ」


 男の話が終了すると、競技の始まりの合図のように、Mの携帯電話がブルブルと震え出した。男は上着のポケットから上品に輝く金の懐中時計を取り出し、口を更にゆがめた。「潮時だな。詳細は追って連絡する」

 Mは見慣れたリビングが白い霧に覆われていく光景を、全く何も感じずに見ていた。川田ジョージのしわがれた笑い声だけが、耳の奥でこだましていた。


 壁に掛かったガラス製の時計の音が響いている。コツ、コツ、コツと、規則正しい正常な鼓動を刻んでいる。Mが我に返ると、家の中は彼女ひとりだけだった。何も変わった形跡はなく、チリひとつ動いた気配が感じられなかった。ただひとつ、下品なミントの臭気を除いてだが。とそこに、家の電話がけたたましく鳴り響いた。


「もしもし」

「まだ家?」

「まだ家。でもじきに出る」

「そう。気をつけて。電気は全部消して。戸閉まりしっかり。それからごみを出しておいてね」

「ん、分かった。ありがと」


 返事と同時に電話を切り、あたりを見渡した。ベランダの戸は出掛ける前と同じく、きちんと閉まっていた。Mは玄関に行き、靴箱の上に置いたままの家の鍵が見当たらないことに気づいた。まさかね。一応彼女は自室に放置されているデニムのポケットを探ってみた。すると何の変哲もない、いつもの馴染みある鍵が、左の前ポケットから当然のごとく顔を出した。どうして、とMは不思議に感じながらそれを取り出し、目の前に掲げた。やけに生温かく、どこかよそよそしい表情だ。


 次に彼女は鞄から携帯電話を取り出した。しかし彼女の予想に反し、着信表示は全くなかった。待受け画面にしている理知的な老犬が、ちらりと彼女に視線を投げる。Mはその画面を人差指でそっと撫ぜてから、鞄に戻した。そして頼まれたゴミ出しを思い出し、ベランダに置かれたゴミ袋を取りにいった。半透明でパンパンに膨れたごみ袋はぽつねんと隅に転がっており、その結んだ口には、あの嘘みたいにまっ白なハンカチーフが、綺麗に丸まった状態で当然のように突っ込まれていた。ごみの後始末までさせられるとは、とMは軽い眩暈を覚えた。


〈続く〉


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