薄青の空の下のライカ
「写真を撮らせて貰っても良いですか、」
遠慮がちに聞いてきた彼女の手には、小さなライカのカメラが収められていた。萌黄色の毛糸でざっくりと編んである手袋が、彼女には大き過ぎる印象があった。その大きな手に、すっぽりと包み込まれている古めかしいカメラ。
今時、珍しいカメラを持っているんだな、そう思ったけれど、俺はいつもそうするように、小さく断りを入れた。
「ごめんね、悪いけど」
この言い方には賛否両論ある。あんた一体何様、みたいに言われることもある。けれど、最近では肖像権の意味を分かっている人が多いから、そうですかと残念そうに引き下がる人の方が大半だ。
じゃあ、握手して下さい、お願いします。
そう来るのが本来のファンなのに、いや、ファンでなくてもそう来るのに、彼女は、「そうですか、ありがとう」と、容易に去っていった。長いスカートを翻した後ろ姿、くるくるとした短い髪が所々にぴんっと跳ねている。
印象深い、黒い瞳。それ程までに、僕の心を掴んだというのに、彼女は本当にあっさりと去っていった。
あっけない程に。そのまま自分の何一つをも、残さないという雰囲気で。
その清々しさに、俺はもう一度やられてしまった。そんな風に、俺は彼女を初めて知ったのだった。
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「本当に、良いんですか?」
怪訝な目で俺を見る。そこら辺をうろうろと探して、やっと見つけ出した彼女が遠慮がちに問う。マフラーで顔が埋もれそうだよ、僕はそう言いたくてしょうがなかった。
「うん、良いよ。特別ね」
「じゃあ、そこ、」
彼女が指をさす。指した先に、マンホールがある。
「そこに立って」
一緒に撮るんじゃないのか。
俺がまだ駆け出しの俳優であった頃、同期の俳優と競い合って一人でも多くのファンを獲得しようとしていた頃、写真や握手、愛想笑いの全てをばら撒いていた頃、写真を撮らせて下さいと言われると、いつも自分と俺のツーショット。
皆んなに見せて自慢するんだろ、そう思っていた。自撮り棒って何だよ、と馬鹿にしたりもしていた。
だから、今から撮る写真に彼女が入らないというだけで、俺は少し動揺した。
彼女が毛糸の分厚い手袋を取って、鞄の中に押し込む。
「もう少し、後ろ」
しかもタメ口か、そう言い掛けたけれど口を噤む。一体、幾つなんだ、こっちは二十八だぞ、そう抗議したいのを我慢して、後ろに少し首を傾けながら、マンホールまで下がる。
そこで、パシャと音がした。おいおい、まだ準備段階だろ。マンホールまで辿り着けてないぞ。
「何、もう撮ってるの」
俺は今回は抗議も含めた口調で少しだけ強く言った。
「…………」
無言。いや、彼女は眼で言った。
早くそこへ立って。
何だよ、俺はブツブツと文句を言いながら、マンホールに足を揃えて立った。彼女を見る。
すると、彼女は俺を見ていなかった。いや、眼は俺を見ている。けれど、俺が透明人間であるかのように、そこに俺が存在していないかのような瞳と面持ちで、俺の背後を見ているんだ。景色の全てを見ているというのに、けれど俺を視界に一ミリも捉えずに。
俺は背景の一部と成り果てた。被写体としての俺ではなく、背景の一ピースとして。この、俳優として名を馳せた、有名人の俺であるのに。
彼女はパシャ、パシャと二度、シャッターを切った。
不思議なことに、それは無機質な機械音であるはずであるのに、自然と調和した音のような、何かの打楽器が奏でたような、そんな美しい音のように思えた。しんと冷えた空気を切るようにして、鳴らされる音が数回。
俺が今立っているマンホールは、この地の小高い丘の一角に存在していた。
そのマンホールに立つ俺の後ろには、眼下には枯葉を落とした樹々が寒々と広がり、眼前には澄んだ薄青の空がどこまでも延びている。いや、どこまでもと言うと語弊があるか。そう、この狭い視界の中では、地平線までという区切りがあるから。
俺はいつの間にか、振り返って景色を見ていた。
何度か、パシャと聞こえてきたような気がしたが、構わず見つめていた。
おい、今撮ったの、俺の後ろ姿だろ。苦笑した顔も彼女には見えない。俺が今、どんな顔をしているのか、彼女は知らない。
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「ありがとう、写真送るから」
少しして、首を傾げて俺を見る。当たり前だ、俺が答えないから。けれど連絡先は教えられない。それが契約している事務所との取り決めの一つにある。俺が言い淀んでいると、
「ごめん、要らないね」
そう言って、手袋をはめてから、彼女が笑った。
笑わない無愛想な人だと思っていたから、これには心底、意表を突かれた。
振り返って、去ろうとする。珍しく、俺の中で俺の心がはっきりと意思表示をしている。駄目だよ、まだ行かないで欲しい、と。
「お、お礼に食事でもどう?」
ポケットに手を入れた彼女の腕をぐっと掴むと、もうこの手に捕まえたような気持ちになる。彼女はもう一度首を傾げて、目を丸く見開いた。その顔に大きくハテナの文字が浮かぶ。
「奢るよ、俺が」
すると彼女がもう一度笑った。
うわ、と思う。きっと、誰でもそう思う。その笑顔。
「結構です、でもありがとう」
嘘だろ、おい、俺の誘いを断るなんて。俺は今までに一度も来たことの無いこの見知らぬ土地で、来年早々に出版予定の写真集の撮影をしているのだが、四日後には東京に帰ってしまうから、このまま君が帰ってしまったら、もう二度と会えないじゃないか。
俺はいちいち、そう説明をしたくなる気持ちを抑え込んで、
「じゃ、じゃあこれ、」
鞄から、そこら辺で手渡された何かのチラシを出して、その裏に俺が今滞在しているホテルの名前と部屋の番号、そして大体の地図を書く。押し付けるようにして手渡すと、
「写真、欲しいから」
持ってきて、か。お前が何様だ、と自分で自分を罵った。
すると意外にも、分かったと小さく言うと、彼女は紙を見、それから俺を見た。
その漆黒の瞳。その瞳がカメラを通して、俺を見た。その証拠となる写真が、どうしても欲しい。どうしても、手に入れたい。
彼女は初めて逢った時にもそうしたように、すいっと、シンプルに去った。
去り際に、ホテル来たらフロントで声を掛けて、そう言葉を投げた。彼女が斜め後ろに目を遣りながら、こくっと頷いたのを見ると、俺はもうそれだけで安心してしまった。
何という力だ、まさかこれが恋というやつか。いや、それはまだ分からない。それを見極めなくてはならない。
写真を貰う時、名前を聞くかもしれない、携帯の番号を聞くかもしれない、もしかしたら好きだと言うかもしれない。それが大仰なら、君のことが気になるんだと言うのかもしれない。その時の俺がどうなっているのかは、今の自分では分からない。
それが、衝動というものだ。
任せよう、俺の中で燻っている、情熱が向かう行方に。