第7話
その人物の背中は頼りない年配の男性のものであり、姿はただの人間、即ち、変身している悪の組織所属の人間ではないということは見てすぐに分かった。
しかし、その事実をしっかり認識したのは、さしてこの調査に対して強い意志を持ち合わせていなかった佐々だけであった。佐々はとにかく面倒事を避けたかったし、何かことが起きて時間が消費されることに対して心底面倒くさいと思っていたため、何に対しても冷静に観察することができていたのだ。そして、今回の調査、佐々は所長から大事な使命を預かっていた。それこそ、今、佐々がやらなければならないことである。
すぐにその男目がけてものすごい勢いで駆け出す者が二人いた。
無論、美夢と東野の二名である。彼女たちは、何も考えていなかった。その頭に思い浮かんだのはとにもかくにも怒り。ただそれだけだが、ただそれだけで行動を起こすには十二分。
両名は、ものすごい速さで男に向かって走りながら、ヒーローとしての姿に変身する──とはいっても、両名とも、その身なりは妖艶で、悪っぽい風貌であるが……。
彼女たちが考えていることは実にシンプルだ。目の前の男をぶっ潰す、ぶっ倒す、完膚なきまでに叩きのめす、泣いて許しを請うても許しはせず、自分たちが満足いくまで、自分たちが受けたであろう恥辱を晴らす、というところである。彼女たちは、目の前の男が変身していない、悪の組織所属の人間とは限らないということになど全く気がついていない。叫びもせず、無言で走り近寄っていく彼女たち。
その二人を止めることこそが、佐々が所長から与えられた使命であった。もし二人が暴走するようなことがあったら、例えば、二人が一般人を襲い出すようながあればそれを止めてくれ、という使命。まさに今、目の前で起きようとしていることである。
佐々はすぐに自身の姿を変える。変身──佐々の意志により、街に張り巡らされた拡張現実の仕組みを利用、作動、自身と連動させることにより、佐々はイベイジョンへと姿を変える。
走る佐々。しかし、残念なことに二人はもう既に一軒家の塀の中へ進入しようとしている男の身柄を取り押さえ、というか、投げ飛ばし、地面へ叩きつけ、その身体を見下ろしてどう調理してやろうかと舌なめずりをしているところであった。
「さぁて──私たちの下着を盗んだ罪が、どれくらいの重さなのか、味わってもらいましょうか……」
「彩夏ちゃん~こっわぁ~い、ねぇ~、おじさん~、謝った方がいいんじゃないぃ~?」
裁きを下そうとする二人。
まだ悪の組織の所属しているとは分からない人間の、そして、変身さえしていない一般人かもしれない人にこれ以上の被害を与える訳にはいかない。佐々は男と美夢、割り込み、繰り出される二人の攻撃を受け止め──ずに避ける! 男性に直撃する二人の足。踏みつけられる男性。
「あー! しまった! つい本能的に避けてしまった……って、おい、待って、待てって!」
二人を止める。
「何よ」
「何」
どうやら、二人の踏みつけは本気で負傷させるべく行われたものではなく、ジャブのようなものであったらしく、男性に怪我はない様子だった。怯えて逃げ出そうとする男性をそうはさせるかと退路を断つ東野。ひぃ、と声が漏れる男性はさておき、佐々がとりあえず説明に入る。
「だから、待て、待てぇい! その人、まず、変身してないだろ!? ダメじゃないか、攻撃しちゃあ!」
はぁ~? という美夢からの返答。
「何言ってるのぉ? こいつは悪事を働こうとした。いいえ、もう働いた、そして、その悪事はみゆたちの下着を盗んだという一生かけても償いえない大罪……。そんな罪を犯した男に慈悲をかけるなんて心が太平洋より広いみゆでもむぅりっ!」
美夢の言葉に同意するに優雅に首を何度か縦に振る東野。
きっとその心は太平洋どころか四畳半にも満たないくらいの大きさだろうと心の中で突っ込みを何とか飲み込み、佐々は反論する。
「いや、そうじゃない。大体、だ。その人に一言も話を聞かずに断言だなんてして良い訳ないだろ! もっと、平和的に解決をだなぁ……」
至極もっともな、大人っぽい意見を述べる佐々の存在に安心したのか、男性はうんうんと頷く。見れば、その身なりはとても平凡で、年齢は四十から五十、大した特徴も見られないその姿からして、どこからどう見ても、悪の組織の人間が変身した姿とは思えない。
悪の組織に所属していない一般人を取り締まるのは警察の仕事であり、佐々らヒーローの役割ではない。確かに、現行犯という観点から見れば、捕らえても問題はないかもしれないが、今、美夢と東野が行おうとしていることは完全なる私刑である。さらに付け加えるならば、そこに慈悲が生じる様子も見えず、このまま佐々が止めなければ、この法の支配する日本社会において立ち入ってはならない領域に立ち入ることになる可能性も捨てきれない。
しかし、佐々の言葉一つで美夢たちは引き下がらない。
「あぁ~出た出たぁ! そうやっていーっつも口で解決しようとする! あのねぇ、市民の皆さんはね、みゆみたいな可愛い女の子が可憐に戦って可憐に悪党を成敗して、懲らしめる、そんな姿が見たいの。正義くんはさぁ~、ヒーローの自覚、あるぅ? 情けなくない?」
「ぐぬぬ……いやでもまて、その前にだな、その人がそもそも本当に犯人なのかとか、確かめないといけないことがあるだろう」
その言葉にようやく美夢たちも冷静を取り戻したのか、そうねぇ、と犯人を見下ろし、問う。
「あんたがやったんでしょ?」
「あなたがやったんですよね?」
顔を近づけ、威圧する。
「い、いや、な、何の、何のことだ、一体、何を……」
男がおどおどしながら答える。そりゃあそうである。彼は何一つ現状を把握できていないのだ。何についての問いかも分かっていないだろう。
「いいから、首を縦に振りなさいな」
「そうそう、言っちゃった方が、楽になるよォ~?」
かけられる圧力、歪む男の顔、違う意味で歪んでいる美夢と東野の顔。その顔はまるで男が追いつめられる様子に興奮を覚えているようであり、佐々は本能的に恐怖を感じ取るが、ここでひるんではヒーローではない。佐々は、目の前の巨大な力を持つ二人に立ち向かわなければならないという使命を持っているのだ。いけ、イベイジョン、負けるなイベイジョン、佐々は心の中でそう呟きつつ、自らを奮い立たせる。
「そ、そんな無理矢理白状させて何になるんだ。事情を聴こう、もっと冷静に事情をだな」
「ぐちぐちうるさいなぁー」
不機嫌な声。
「冷静だから無理矢理言わせようとしてるんですよ、分からないんですか?」
嫌そうな声。
それでも負けない、だって佐々は正義のヒーロー、イベイジョンなのだから。
「いいや、ダメだダメダメ! 二人が話を聞かないというのなら、俺が代わりに話を聞く。ほら、どいて、追いつめないで、追いつめないでぇー」
佐々は道を切り開く。自らの手で。
美夢と東野はそれはもう嫌な顔をしながらも、渋々佐々に道を譲る。こうしてようやく、男は無事に、話を聞いてもらい、平和的な解決に向けての一歩を歩み出すこととなる。
男の話によれば──曰く、この閉塞感溢れる社会に嫌になった、と。自らの欲望を抑えきれず、何か悪いことでもしてみようと思ったが、悪の組織に入るのは気が引けるし、かといって、誰かを傷つけるなんてことはできない……そう考えていた男は、会社からの帰路についていた。その時、目に入ったのが、一軒家の軒先にかけられている女性の下着……つい、魔がさして、これならばと突発的に体が動いてしまったのだという。
つまるところ、男の話を聞くに、今回のこの不法侵入未遂は男が突発的に思いついて行ってしまった行為であるということである。それもそのはず、今の日本において、事前に周到な準備や心構えをしていれば、それだけで観察の対象となってしまうのであるから。犯罪は事前に防がれる、それが今の日本という国なのだ。
となれば、当然のことながら、この男は、美夢や東野の下着を盗んだ犯人ではないということが明らかになっている訳だが──。
「よーし! 話は聞いた! じゃ、もうぼこぼこにしていいよね!?」
ぶんぶんと腕を振り回し、風を巻き起こす美夢。にっこり笑顔で、その拳を振り回す。
「良く分からないですが、悪いことをしそうだったので事前に私が罰を与えていいってことですよね……?」
能力発動の準備をし始める東野。
「ダメだから! 話聞いてた!? 二人とも知ってる!? 今のこの日本社会においては、こういう一般人は警察によってどうにかこうにかされるんだよ!? もし知らなかったらいい機会だから学んで!? 今の俺たちのとるべき行動は、警察にこの人をつきだす! それ以上でもそれ以下でもないから!」
佐々の物言いに、ようやく諦めたのか、二人は男を置いて、佐々まで置いて歩きだす。舌打ちしながら。
「……ええと、あの、ありがとうございました」
何故か佐々にお礼を言う男に、佐々は苦笑いを返しつつ、警察を呼んだ。
夜のパトロールはそれからも続けられた。翌日、また翌日となっても、一向に悪の組織からの犯行声明は出されず、もしかしたらこれは高度な一般人による高度な下着泥棒なのではないかとにわかに噂されていたが、まぁ、基本的にそんなことはあり得ない。
何故ならば、今の日本社会における監視の目を掻い潜って定期的に下着泥棒をするということは不可能に近いからである。
とはいっても、情報は出てこない。秘密基地から表に出て、今日も今日とてパトロールをする三人。佐々は完全に飽きていたが、美夢と東野は違う。日が経つにつれ、その怒りのボルテージは上がっていっているようで、佐々は、犯人に対し、今すぐ出てきてくれないと大変なことになるぞ、とメッセージを送りたい気分であった。
しかし、今日、この日は、いつもとは違っていた。
いつものように、夜のパトロールをする三人。人通りは少ない。ほとんどいない、そんな住宅街。
闇夜。月明りと人の動きを探知して点灯する街灯が立ち並ぶ、並木道。自動車も通らないその道の中央に、人影がある。
「……ん?」
一番最初に気づいたのは佐々だった。ただの人影なら、何も問題なかろう。ただ歩いているだけの通行人なら何も問題なかろうが、道の中央に人影があるのだから、疑問に思わない訳がない。おまけに、その人影は動かない。長らくそこにいたらしく、人影の周りの街灯も点灯していないのである。闇夜の中に、月明かりの下にある、人影。これを疑問に思わずして、何を疑問に思えようか。
「なに、あれ」
「……人……?」
近づく佐々たち。近づくにつれ、その人影の情報が少しずつ明らかになっていく。
まず、人影は一つではない。かといって、物凄い数がいる訳でもない。数は二つ。そして、二人とも腕を組んでいて、背丈はさほど高くはない。子供……とまではいかないだろうが、成長しきっているとは思えない小柄な体型だ。無論、故に、体型は華奢。
であるからして、そんな人物が、この夜の街に動かずに立ちふさがっているということ自体が、明らかに異様であった。異様過ぎるが故に、すぐに気がつく。
「悪の組織のやつらか……!」
佐々の呟き。佐々らと、人影二つの距離は、大きく縮まっていた。佐々らが近づいたことにより、灯っていなかった人影二つの近くの街灯も点灯する。
そこに居たのは一人の少年に、一人の少女。にやと笑う二人の少年、少女の顔。まるで、佐々たちがここを通るのを知っていたかのような落ち着きっぷりに、佐々は慌てる。もしや、これは罠か? そう考え、辺りを見回すが、戦闘員などが大量にいるような痕跡は見られない。警戒して辺りを見る佐々とは対照的に、美夢と東野は、それはもう嬉しそうな顔をしていた。首をくるくる回し、戦闘開始前の準備運動をし始める始末である。
誰が合図するでもなく、佐々たちは変身する。相手は既に変身済み。その衣装は、少年少女の普段着っぽいが、ミリタリーチックな様相。
シンと静まる住宅街。誰も観戦者はいないが、街に置かれているカメラは、今行われようとしている正義の組織対悪の組織の戦いをじっと映して、市民らに配信している。
少年と少女は、ふふ、と笑って、二人で言う。
「「待っていたよ、ヒーローさん」」
佐々、改め、イベイジョンは、その挑戦を受けて立つ。
「いい度胸だ、俺こ──」
そのイベイジョンを押しのけて、美夢と東野が前へ出る。
「君たちが犯人、ってことで良いのよね?」
それに、少年と少女は、示す。肯定の返事を。そして、名乗る。