第2話
日本国内で行われる国家公認の戦闘行為において唯一許されるのは、悪の組織に所属する者と正義の組織の所属する者によって行われるものである。
では、彼らがどのようにして戦い、どのようにして勝敗を決めるのか。
それは、単なる殴り合いによって行われる訳ではなく、かといって、武器──剣、銃、その他人間に対して致命傷を負わせることができる凶器を用いて行われる訳でもない。
二十一世紀初頭に訪れた空前の仮想現実ブーム。それらは娯楽の世界からさらに発展し、日常生活の中にまで溢れ出た。それらの技術の進化は留まることを知らず、現二十二世紀において、それら仮想現実はさらなる進化を遂げ拡張現実としてもはや人々の生活から切り離すことは不可能なまでに浸透していた。
その拡張現実の技術を用いて行われる戦闘行為。それは、実際に存在する物の上で、現実世界の上で、行われる戦闘であるが、それによる打撃を初めとしたありとあらゆるダメージは肉体へ直接の損傷を与えることなく脳の痛覚他あらゆる感覚に働きかけるという形で与えられる。
分かりやすく言えば、ニセモノの戦闘だ。ニセモノの戦闘ではあるが、しかし、脳は確かに現実としてあらゆる刺激を与えられる。骨折をしたり出血をしたりということは基本的にはあり得ないが、一方で、脳に与えらえている感覚は本物であるからして、脳が体を動かすことを拒否するほどのダメージを与えられれば戦闘不能になることは十二分にあり得る。
これらの戦闘は、悪の組織、正義の組織が共に特別な装備──ヒーローであればヒーロー衣装を身の纏うことで可能となる。逆に言えば、それらを身につけていない状態で戦闘と呼ばれるものを行えば完全なる犯罪として国により裁かれることになるのである。衣装といっても、物理的に身に纏う装置は限られ、その多くは先の述べた拡張現実によって保管されるため、外から見て行われているのは、衣装を着る、というよりは、変身しているという形に近いといえる。
ヒーローとしての力は個々がそれまで育ってきた環境、または、それによって培われた考え方、性格、そういったものから機械的に導き出された答えによって決まる。それが佐々の場合は避ける力であり、美夢の場合は物理攻──ラブパワーであり、東野の場合は毒クラゲの力であるのだ。
無論、ヒーローが個々にそのような能力を持つと同時に、悪の組織の所属する人間たちもそのような能力を持っている。
そして──今、負け知らずのヒーローであった美夢みゆと東野彩夏は、悪の組織、堕の魔女王レイジーの能力によって──。
「ふ、二人に何をした!」
道行く人が何人か大きく円を描き、その様子を見守っている。その場所に辿り着いた佐々は、いつもとは全く様子が違う味方二人に何かが起きたものだとすぐに分かった。
「あははは! 何を!? 簡単なことさ!」
言うのは、自らを堕の魔女王レイジーと名乗る悪の組織の人間。まだ年端の行かない少女のように見えるが、外見なんてものはいくらでも拡張現実によって書き換えられる世の中だ、アテにはならない。身にまとっているのは一見セーラー服のように見えるが、違う。彼女が見に纏うのはセーラー服を連想させるものの、セーラー服とは全く違った衣装。セーラー服にエナメル質の黒が組み込まれたものとでも表現できようか。
しかし、その彼女の両脇に立っているのは、悪の組織の戦闘員ではない。そこに立っているのは、見慣れない二人、見慣れないようでいて、しかし、良く見れば、いや、良く見ずとも、佐々が知っている二人……。
「どうしたんだ、二人とも! 早くそいつをやっつけないと!」
しかし、それに対する返答は鈍い。
二人とも、気味の悪い笑みを浮かべて、佐々のことを見ている。
美夢みゆ、いや、恐らく、美夢みゆであった何者かが口を開く。
「え~、でもなぁ~なんかめんどくさいからなぁ~みゆだけの仕事じゃないっていうかー」
「め、めんどっ……って!」
確かに、彼女は美夢みゆらしい。佐々との会話によって、彼女は心のどこかでは、敵であるレイジーを倒さなければならないということを理解しているようだからだ。しかし、彼女は変わっていた。態度や行動だけではない。まず何より、決定的に、姿が変わっていたのだ。
天使を思わせるアイドルじみたぶりっ子っぽい衣装はどこへやら、身にまとうのは、黒を基調とした露出の多いヘソ出しルックな小悪魔系衣装。確かに、これはこれで一定の層には人気が出るだろうが、その姿が正義の組織よりか悪の組織よりかといえば、間違いなく悪という印象を受ける衣装だ。
「な、なら! 東野! 君は!」
対する東野は、はぁ、と深い深いため息をついた。今までなら絶対にありえないような行動であるが、今の彼女はまず、その身につけている衣装からして今までの東野彩夏でないことは明らかである。
戸惑う市民と共に、佐々もまたとんでもなく戸惑っていた。
彼女がこれまで身にまとっていたのはラバースーツ。クールビューティーという言葉が似合うようなものであるが、そこにはまるで派手さはなく、ただ、行動しやすいことや、激しい動きであっても視界を一切遮らないという機能的な面で、東野自身が思考し導き出した衣装であった。けれど、今、彼女が見に纏うラバースーツには、赤、紫といった刺激色によるワンポイントが多く見られ、部位によっては軽量化の意図なのか、それとも、デザインを重視してなのか、ラバーをくりぬいたように地肌が僅かに見える薄手の生地がはめ込まれている。唯一、肩のみが露出しているが、さて、それの意図するのは一体何なのか──それはこの衣装を形作ったであろう東野本人さえも分からないのかもしれない。
そんな東野が長い長い溜息を吐き終えた後、肥溜めに唾を吐き捨てるかのような表情で佐々に言い放つ。
「な、ぜ、で、す、か?」
敬語ではある、敬語ではあるが、そこに敬意など微塵も感じられない言い方。
「な、何故って──」
佐々の言葉を遮るようにして、東野がこれまた大きなため息をつく。本来、このような大きなため息は見ている人を大変不愉快させる代物であろう。しかしながら、そこに立っているのが東野だから、その息を吐き出したのが東野だから、不思議と周囲の人々もそんな気にはならない。美人というパワーこそ、万物を超越する力なのだろうか。
「あのですねぇ、佐々くん?」
東野は佐々から見て明らかに年下であるが、君付けに呼称が変わっていることにピクリと反応する佐々。しかし、東野はそんなことを少しも気にせず続ける。
「前々から思っていたんですけど、なんで、自分で戦わないんですか? いや、違いますよね、戦えないんですよね……。避けて避けて、避けてばかり。恥ずかしくはないんですか? はたはた愛想がつきたんです。そんなに悪の組織と戦いたいなら自分でやればいいじゃないですか? 違います?」
佐々の図星を的確についてくる東野。
佐々は反論したいところではあるが、あまりにも的確なその指摘にぐぅの音も出ない。
それどころか、東野の隣に立つ美夢には、あははは、ウケるー、と笑われる始末。
こうなれば、仕方がない。仕方がないから、どうする、佐々は考えた。自分で立ち向かう? いやいや、無理だ、それは。ようやくこの状況が飲み込めてきて、それが最も無理難題であることを佐々は悟っていた。
まぁ簡単に言ってしまえば、目の前の二人のヒーロー、いや、かつてヒーローだった二人は、悪に染まってしまったのだということが見て取れた。
そんなものは最初から分かっていたかもしれないが、二人が一向に堕の魔女王レイジーと名乗った悪の組織に所属している女を攻撃しないことや、佐々に向けて放たれた暴言とも呼べる発言によってその事実はより明確になったのである。
「あぁ、なんてこった、これは」
「おいおい、正義のヒーローはもうあのいっつも何もしない男だけになっちまったのかよ」
佐々の絶望は、周囲から落胆の声が聞こえてくることによりその濃さを増す。しかし、だからといって、自分が立ち向かうことは先に述べたように難しい。となると、もう一度、もう一度だけ、美夢に頼んでみるしかない。みっともなくも、そう決心した佐々であったが、それより前に、時間が訪れる。
「さぁ! これでもうこの二人は今や、我の手下! 残念だったな、ヒーローよ、そして、市民よぉ! もうこの街に平和が訪れることはない。明日からは安心して夜も眠れない不安な日々におびえるがいい! もしくは、我の手下として、悪の組織へ転職活動を行うといい! 結構席は空いているぞ!」
さりげない求人活動に、あっちも人手足りないのかなぁと無用な心配をしていた佐々だったが、そんなことを考えている暇は断じてない。
「という訳で、さあ、美夢に東野、まずは手始めにその目の前の男をやってしまえ!」
ばっと勢いよく振りかざされるレイジーの右腕。それが指し示すのは勿論佐々。絶体絶命である。佐々が二人と戦って勝てる確率は、とても分かりやすく言えばゼロパーセントだろう。攻撃を避け続けることはできるかもしれないが、それは決して勝利へ繋がる訳ではないし、いくら避けるのがうまいといっても、いずれは仕留められる。二人がかりで来られたら佐々などひとたまりもない。
どうする、どうすればいい、佐々は頭をひねった。
こんな時、例えば地球を救った正義のヒーローだったらどうするか。いや、そんなことを考えても何にもならない。何せ、自分は地球を救うほどの力を持っているはずがないからだ。
じゃあ、どうしたら無事に済むか。
どうしたら、どうしたら──結果、佐々は決める。逃げよう、と。逃げるしかない、ここは一旦逃げて体制を整え直すしか方法はないだろうと断定する。これは戦略的撤退であるということを強く強く言い聞かせる。踵を返し、いざ逃げん、とヒーローにあるまじき行為をしようとしたその時だった。
「はぁ?」
異議の声。
それは、佐々に向けられたものではない。その声を発したのは美夢であり、その声が向けられたのは今や彼女の心の友になっているであろうレイジーだった。
「聞こえなかったのか? 二人とも、あの正義のヒーローを倒せ、と言っているんだ!」
次に反応するのは東野。大きなため息をつき、ゴミを見るような目でレイジーを見て言う。
「な、ぜ、で、す、か?」
かつて正義のヒーローだった者は、佐々を襲うことなく、命令をしてきたレイジーに向かって距離を詰めていた。
「みゆ、こいつのこと、なーんか気に入らないな~」
美夢はそう言うと、ツバを地面へ吐きつける。これはもう言うまでもなくヒロインにとって、ヒーローに取って断じて行ってはいけない行為であるが、安心して欲しい、この正義の組織と悪の組織が繰り広げている戦闘によって発生している戦闘空間の中で起きたことは拡張現実によって処理されるため、街の道は実際には汚れない。
「き、気に入らない、って、そんな……」
取られるはずもない反応をされ、しどろもどろしているレイジーだったが、そこは流石自らを女王と名乗るだけあって、すぐに表情を元に戻す。
「美夢みゆ! お前には、我の悪の力によって、お前が欲しくても手に入れられなかった、圧倒的な力を授けたではないか! 伝統的に、あまりに強すぎる力を自分の努力とは関係なく突発的に手に入れてしまった者は、その力故に驕り昂り、正義という小さなしがらみになど縛られることなく、自由奔放に生きる道、即ち、悪へと堕ちるはずだ! これは過去いろんな力を手に入れた数々のヒーローたちの話の中にも頻繁に出てきたはず!」
「う~ん、そんな訳わかんないこと言われてもなぁ~」
すっとぼける美夢。レイジーは諦めたのか、続いて、同じく全く佐々に対して攻撃を仕掛けない東野に言う。
「東野彩夏! お前には、その生真面目すぎる性格、表に全てを出さない堅苦しい性格から脱却させるべく、悪の価値観を授けたではないか! それまで自分を抑圧してきた人間は、開放的な価値観を知ると同時に、それが唐突であり他者から与えられたものであれば、そのままそちらへと傾くということが言われているはずだ! なのに、何故だ! 何故、我に従わない!」
東野は少し考えてから、言う。
「なんで、貴方のような力のない人間に従わなければいけないの?」
二人の予想外の行動に、レイジーはガクリと膝をついた。そして、佐々は、逃げる必要のなくなった足を何事もなかったかのようにレイジーへと向けなおし、言い放った。
「それみろ! 正義は勝つんだ!」