第19話
セロは右左手だけでなく、両足も器用に用いて、攻撃してくる。恐らく、何らかの武術の心得があるのだろうが、佐々はそれら武術に詳しくはない。詳しくはないが、そういった礼儀正しい戦い方を相手にする場合において、佐々のような独自スタイルというのは通常ならば不利となる。だが、それは、通常ならば、の話だ。
佐々は、物理的にセロの攻撃を見切っていた。
いくらセロの戦闘が的確なものであったとしても、今、佐々の目はそれについてきているのだ。よってこれはもはや本能的な戦いではなく、実力のぶつかり合い。
佐々の攻撃は、セロに当たるが、しかし、それでもセロに決定打は与えられない。やきもきしつつも、佐々は焦らずに戦いを続ける。
時に、互いの手によって叩かれ、躱され、あるいは、防がれる。顔面、腹部、等の圧倒的にダメージが入りやすい部分を狙っての攻撃に対しては、互いに一歩も引かない攻防だ。それは完璧なる打ち合い。実力は拮抗していた。となると、決定打を入れることは難しい。
パン、パンと拳を打ち合う音だけが街に響き渡り、いつしか空は曇り、小粒の雨が降り始める。
佐々とセロの体には、雨粒が当たり、それは徐々に勢いを増していくが、二人の視界に入るのは今戦っている相手だけであり、二人の意識にあるのもまた、今戦っている相手だけ。雨は二人の肌を濡らし、激しくなった雨音はまるで全国民の涙のようだった。
「はっ、はっ……!」
「ぬっ、ふっ……!」
二人の僅かな息音は、激しい雨音により打ち消され、互いの耳に届くことなく、また、二人の意識も互いの心に届くことはない。
互いに考えるはただ自身に振り注がれる攻撃に的確に対処すること、そして、目の前の人間を打ちのめすことのみであり、それ以外のことなど考える余地はない。時間が経つにつれ、二人とも自分が何故戦っているのかということさえ脳の彼方へ消えていく。
戦いは続いた。
長い、と感じたのはお互いに同じだろう。けれども、その意識さえ、すぐにどこか遠くへ行ってしまう。
戦いのこと以外、考える余地などなかった。そして、戦いのことさえ、考える余地はなくなっていく。
朦朧とする意識は、果たして、この雨のせいか、はたまた、相手の攻撃を僅かながらに受けているせいか、二人は二人ともそんなことを感じていたに違いなかったが、ただ一つ、違ったことがある。
それは──佐々とセロの経験の差である。
確かに、頭で考えられるうちは──それはつまり、佐々の感覚器官がセロの動きを捉え、脳に送り届け、それによって脳がどのように防御行動を取り、どのように攻撃を繰り出すのか選択できているうちは、実力のぶつかり合いと言えよう。そこに経験の差は出にくい。
だが、戦闘が長引けば、疲労が重なる。
疲労が重なれば、次に問題となってくるのは体の反応速度の問題だ。いくら、佐々が視覚でセロの動きを捉えることができていたとしても、体が脳からの指令に間に合わないのであれば、それは無用の長物となってしまう。
そうなると、佐々は、次に感覚に頼るしかなくなる。
それは、これまで佐々が積み重ねてきた戦闘に頼るということであり、同時に、佐々は攻撃を繰り出すことが難しくなり、防御で精一杯という状況に追い込まれてしまうことになる。
「はは、どうした、どうした」
セロが挑発する。それだけ彼には余裕が生まれたという事であり、それに返答できない佐々は余裕がないということを露わになる。
実力は、確かに拮抗していた。
だからこそ、生じた結果。
セロの拳が佐々の腹部へと直撃する。隙が生まれた、と書くのが最も的確であり、それにより、なし崩し的に佐々は顔、脇腹へと連撃を受け、最後に蹴り飛ばされる。佐々の両足はアスファルトを離れ、佐々の体は宙を飛び、鈍い音を大地へ伝え停止する。
佐々はすぐに立ち上がろうとするが、両膝をついたまま、セロへ体を向けるので精いっぱいだった。しかし、これでも一定の意味はある。セロへの一定のプレッシャーは彼が容易に追撃を行うことを出来なくする。セロは佐々よりも歳を取っていたが故に、戦闘の経験も多く積んでいた。最後に油断して、相手の捨て身の反撃を喰らえば相打ちになる可能性が高い、ということを知っていたし、事実、佐々もそれを狙っていた。相手が最後に攻撃を仕掛けるその瞬間は、それだけ相手の意識が攻めに偏っている瞬間であり、それならば、先に自分が決めたクロスカウンターを今度こそ、全身全霊を込めて撃ち放つことができると考えていたのだ。
けれども、その佐々の一瞬のひらめきはセロが賢明であったことにより頓挫し、すぐに佐々は次の一手を考えなければならない立場に陥る。そこに二人の会話などない。二人はこの今の状況を肌で感じているに過ぎないのだ。
「さぁ、立て」
セロは佐々に立つことを要求し、
「当たり前だ」
佐々はそれに答える。そして、立ち上がり、身構える。
互いの企みは何も交錯することなく、再び戦いの火蓋が切って落とされた。
戦闘は再び長期戦へと突入する。雨の勢いが衰えないように、二人の戦いの激しさも衰えない。けれど、結果は、残念なことに──佐々にとっては、非常に残念なことに、負けだった。
再び、佐々は吹き飛ばされる。けれど、佐々はそれでも立ち上がる。
それが、自分の選択なのか、あるいは、最初の選択に流された惰性なのか、どちらかは佐々自身にも分からないことだ。しかしながら、例え、仮に、これが惰性のなしうる業であったとしても──それは、自分の選択の結果訪れたものであり、決して他の誰かの行動による惰性ではないことだけは確かだ。
佐々は戦った。
勝ちを見て戦った訳ではない。ただ、自分の選択を成し遂げるために戦ったのである。だが、佐々の体力は必然的に徐々に奪われていった。
セロの狙いはこれだ。
圧倒的な勝利こそ、セロが安心できる唯一の勝利である。下手にとどめを刺しにいくのは、反撃の恐れがある。相手が可能な限り向かってきてくれるなら、それに越したことはない。全てはセロの手の上で起きていることだ。
セロは、次第に勝利に確信を覚えていった。
最初、自分と同等に渡り合ってきたこの佐々正義という男に対して、抱いていた警戒心は、実は不必要なものだったという思いが強くなってくる。同時に、そんな焦りを僅かでも生んだ相手にわずらわしささえ覚える。
何度も立ち上がって向かってくる佐々という男。もうこれだけ体力を削れば、セロの勝ちは確定したようなものだった。そして、セロ自身も、佐々を吹き飛ばす度に、その思いを強めていく。
「何故立ち上がんです。もういいでしょう」
そう言いながら、再び佐々を吹き飛ばす。しかし、佐々は、よろよろと立ち上がる。
「…………」
無言でセロに向かってくる。そして、ほんの数回攻撃を交錯させ、やはり、結局セロに負ける。
「無駄なんですよ、無駄、無駄、無駄。どれだけやる気があっても、どれだけ諦めが悪くても、方向が間違っていれば全て、無駄っ!」
佐々の身体は飛ぶ。
そして、よろ、よろ、と再び立ち上がろうとする。
セロの煩わしさは限界に達した。もういい、最後に思いっきり強い一撃を喰らわせよう、と。勿論、カウンターは警戒する。しかし、それこそ好機。仮にカウンターを放ってきたとしたならば、それを上回る一撃を見舞ってやればいいだけの話だ。
相手が、攻撃にモーションを変えるということは、即ち、防御を捨てるという事、セロはそのことを良く分かっていた。分かっていたからこそ、今がチャンスととらえたのだ。セロは負けないと思ったのである。それは、ある種の、傲慢とも言えよう。けれども、それこそ、強さの表れであり、勝負を決定づける力でもある。
セロは一歩近づく。まだ体勢が整っていない佐々は急いで体勢を整えようとするが、セロの動きに躊躇いはない。
繰り出される右拳は佐々の顔を狙ったものであり、その一撃は、確実に佐々の動きを止めるために放たれる一撃だ。
目さえ開き切らない佐々は、けれども、目の前にセロの本気の攻撃が迫ってきていることを悟る。同時、思う。打て、と。己の拳を放て、と。
佐々は躊躇いなく、自らの右手をセロの顔に向かって突き出すように動かす。その動作は、佐々の力が覚醒したことを意味していた。
二つの拳は見事に交差し、佐々の目もセロの目も弾けんばかりに見開かれ──互いの顔に、拳は強くめり込んだ。二人の拳は、それぞれの顔の頬の肉へ強くめり込み、音を発することもなく、二人の体を交互に吹き飛ばす。
威力は──互角──いや、吹き飛んだ体の距離は、明らかに、圧倒的に、セロの方が大きかった。即ち、威力は互角ではなく、佐々の拳の方が高かったということ。その様子を見ていたのは、ただ一人、倒れ込んだ所長だけだった。
誰も立っている者のいない街。セロも佐々も天を見上げ、そして、何とか目を開いているようであったが、立ち上がる力はもう残っていなかった。
「何故、だ」
セロは呟く。もう少しだったのに、と思っていた。彼は、もう少しで己の野望を達成できたはずだと考えていた。その呟きに答えるものはいない。
そして、再び、セロは誰も聞く者がいない街──いや、世界に向かって呟く。
「間違っていなかった。私は間違っていなかったはずだ……」
誰も答える者はいない。
ただ、破壊された街がそこにあり、ただ、横たわった人たちがそこにいる。微かに聞こえるサイレンの音だけが、この世界は全く死んでいないということを知らせてくれる合図であった。
「私はまだ、間違ってなど……私は……」
セロの無念の声は誰に伝えたいものでもない。所長と佐々だけが唯一その声を耳にしていたが、彼らはそれに答えなかった。
佐々は、ようやく終わったと強く感じていた。
何が終わったか、と聞かれれば、それは、ただ簡単に言えば、戦いが終わったのである。セロとの戦いだけではない、佐々自身との戦いが終わったのである。佐々はもう正義のヒーローイベイジョンではなくなったという話なのだ。
「イベイジョン──意味は、回避……」
所長が、目の前の光景を見て、ふつふつと呟く。そして、言う。
「さようならイベイジョン」




