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終わらない話(いじめについての考察) 作者:斉藤めぐむ
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葉山結子

よろくおねがいします。

 なんでもできる。
 彼女はなんでもできる。でも落とされた。

「葉山結子さん」
 手渡されたテストはいつも通り満点だった。赤いペンで大きく華丸が描かれている。引き出しの中には彼女の名前の書かれた物が多数詰まっている。道具箱、糊、鋏、筆箱、教科書、定規、ノート、鉛筆。ありとあらゆる持ち物に名前が書かれている。折り畳んだテストの行き先はゴミ箱だ。誰の目にもつかないようにこっそり捨てるつもりだ。
 はやまゆいこ。名前を書いたのは母の字だ。きれいにふんわりとひらがなで書かれてある。彼女にはまだ書けない整った字。それはあの日の名札にも書かれてあった。
 お行儀というものを習いはじめてから彼女は毎日褒められ続けていた。
「上手ね、ゆいこちゃん」
「すばらしいわ、ゆいこちゃん」
 お辞儀をするたびに重ねられる賞賛の言葉。葉山は得意になって繰り返した。
「何の問題もありませんね」
 太鼓判を押されて母は嬉しそうに微笑んでいた。
「結子ちゃんなら大丈夫。必ず合格できるわ。自信を持って」
 あの日、母もそう約束した。ホテルのような豪奢なロビーを通り、部屋に入ると笑顔を向ける大人たちに葉山は両親とともに挨拶をした。数個の質問に淀みなく答え、教えられた通りに返事をした。
 両手を握りしめて母と葉山は面接の成功を祝った。
「本当によくできていたわ」
 何度も、何度も褒められた。褒められたが、合格はしなかった。
 腫れ物に触るように接する母も父も面接官たちも褒めちぎった先生たちも大人という大人が信用できなかった。じゃあ、どうして落ちたの。私の何が悪かったの。葉山の問いに答えてくれる大人は誰もいなかった。
 しかし葉山が一番腹の立つ相手は他にいた。
 彼のことを葉山は“何もできない子”と表現する。隣の席になってからしばらくは様子を見ていたが、彼はすべてについてどんくさかった。挨拶も返事もまともにできない。勉強も運動も、音楽も絵も彼は苦手だった。
 彼が葉山には腹立たしくてならなかった。どうして平気でいられるの。どうして誰も何も言わないの。
 数週間で机を数ミリ離した。間を空けることで共有する空気を少なくしたかった。
 真っ赤に赤ペンの入った答案を受け取って帰ってきた少年が席に座ると葉山はそれを覗き込んだ。あまりの酷さに顔を歪める。
「みなさん、たいへんよくできました」
 教師の声が空々しい。できてないじゃん。心の中で呟きながら視線を逸らせば、横の少年は朗らかに微笑んでいる。なに喜んでんの、あんたのことじゃないから。
 口呼吸がうるさく思え、鼻を啜る音、席を立つ音ですら少年のたてる音はすべて耳障りになった。
「消しゴム落としたよ」
 拾ってくれた優しさよりも、自分の名前の書かれた持ち物に触られたことが許せなかった。無視をしているとそっと机の境目に消しゴムが置かれた。しかし机の間に隙間が開いているため、消しゴムは不安定に揺れる。
 はやまゆいこ。白い消しゴムの後ろにフェルトペンで書かれた字が紫に滲んでいる。落ちる。“はやまゆいこ”と書かれた白いものが落とされる。
 葉山は授業後に消しゴムを掴むとトイレのゴミ箱に叩き付けるようにして捨てた。苛つく心のざわめきが彼女の真っ白だった心を黒く染めていく。
 隣に座る少年をもっと懲らしめたかった。思い知らせてやりたかった。あんたよりも私の方が数十倍も優れているのだと。あんたなんか私と並んでいられる価値はないのだと。
 グロテスクに膨れ上がった思いは葉山の幼い身体の中から彼女の感情を食い荒らしていく。憎い。はっきりと葉山は少年に憎悪を抱いた。
 葉山は少年に向けて悪意を投げつけはじめた。
 しかし、葉山の悪意は簡単に撥ね除けられた。彼は葉山の力一杯投げつけた悪意を笑った。嬉しそうに笑ったのだ。
 あの笑みはなんだったのか。瞼の裏で葉山は少年の笑みを見ていた。何度も繰り返し思い返す。背筋が寒くなるような笑み。およそ子どもがするはずのないそれは葉山に恐怖を抱かせた。それまで見せていた愛らしい、どこか間の抜けたような笑みではなく、狡猾で欲深い笑みに葉山は頬を引きつらせた。
 思っていたような子ではないのかもしれない。葉山は一歩後ろに身体を引くと友人たちとともにその場を立ち去った。
「ゆいこちゃん、どうしたの」
 友達に聞かれても葉山は少年の笑みを思い返していた。数度目かの呼びかけの後に彼女たちは目を吊り上げた。
「わけわかんない。行こ」
 少女たちは葉山に背を向けてかけていった。
 廊下を立ち去る彼女たちを葉山が振り返った時にはすべてが遅かった。
「ゆいこちゃんって、わたしたちのこと、バカにしてるでしょ」
「絶対そうだよ。なんでもできるからってさ」
 囁き声はクラス中から聞こえてくるようだった。そんなことないと反論したくとも話しかけられたわけではないから言い返しにも行けない。無言のまま葉山は名前の書かれた道具を一つずつランドセルから取り出して机に並べていく。
 新しい消しゴムの入った真っ赤な筆箱、丁寧な字で書かれたノート、綺麗なままの教科書。
 投げつけられる悪意の玉は葉山の背中に当たっては床に転がり、当たっては葉山の中に吸収された。数日そうしているうちにすっかり葉山も悪意をぶつけられることに慣れてきてしまった。
 ああ、バカにしている。葉山は自分の黒い部分を自覚していた。実際、バカじゃない? 皮肉を思い浮かべて横の席を見れば、少年は不思議そうな顔でクラスを見回していた。すべての原因はこいつにある。運動会の後あたりから仲良くなった小林と話す少年は葉山に気をやりながら会話していた。
 ランドセルを後ろのロッカーへ片付けようとした時、手に何かが引っかかった。見ればランドセルの底に白い紙が畳まれて入っている。昨晩時間割の時には気がつかなかったそれを手にして葉山は開いた。
「たいへんよくできました」
 数日前に返された答案用紙だった。捨て忘れていたらしい。赤い華丸が白々しいほど大きく描かれていた。葉山はびりびりとそれを破くとクラス内のゴミ箱へ捨てた。
 教室は静まり返り目という目が葉山に注がれた。その中には少年の目もある。
「私の何がいけないの」
 なんで私だけ。小さく口の中だけで呟く。褒めておいてどうして私を落とすの。何が悪かったの。友人だった一人一人の顔を見比べる。どの口も彼女を褒めた。
「ゆいこちゃん、すごいね」
「ゆいこちゃんはなんでもできるね」
 やめて、ほめないで。葉山は耳を抑えると机に向かって顔を俯けた。もう、何も期待したくも、期待されたくもなかった。どうせ、突き落とすくせに。
「葉山さん」
 横を向くと普段ぼんやりと外を見ているだけの小林が葉山を見ていた。少年は困った顔で二人を見比べる。
「大丈夫?」
 葉山は耳から手を放して小林を見た。クラス中が注目している中で小林だけが声をかけてきたことに驚き、葉山は頷いた。熱くなっていた耳も胸もすっと冷めていくようだった。そこにはなんのてらいもない、純粋に葉山を心配している目があり、耳があった。
「そう、良かった」
 小林の坊ちゃん刈りにした小さな頭が襟足を見せると葉山は大人しく、並べた道具類を机の中にしまった。はやまゆいこと書かれた愛しい道具たち。もうじき始業のチャイムが鳴る。

ありがとうございます。
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