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階段を下るのも危険なことだった。
恐怖と焦りと威圧に押されながら逃げ続け、蛹を落とさないように、転ばないように、蜜蜂を押してしまわないように気を付けながら一階へと到達する。
しかし、蔓の追手は収まらない。
屋敷の中にいる限り、安息の時など訪れないということだろう。
長い廊下を走り続け、入ってきた場所を目指す。
ちょうど、靫と対決した部屋の真下だ。
そこに扉があったはず。
しかし、その場所には別の人物がいた。
靫の愛する召使とやらの姫蜂だ。
「ここを開けるにはご主人様のご許可が必要です」
毅然とした態度だ。
しかし蜜蜂は乱暴に突っかかった。
腰に隠し持つ短剣を抜いて、脅しにかかる。
「刺されたくなければ道を開けろ!」
けれど、姫蜂は全く恐れていなかった。
「そうはいきません。ご主人様がお許しにならなくては」
「ならば、こうだ!」
有無を言わさず、蜜蜂は姫蜂に襲い掛かった。
勇猛果敢なのは日々王国を守っているためだろうか。
恐れずに飛び掛かるその姿は、いささか乱暴で、彼女を信頼している私までも驚いてしまうほどだった。
あっという間に姫蜂は取り押さえられ、短剣を突き付けられる。
それを見て、私も即座に蜜蜂の元に駆け寄った。
蔓が追ってきている。
だが、私たちのしていることが見えたのか、直前で止まった。
「靫、見ているか!」
蜜蜂が叫ぶと、廊下の向こうからゆっくりと靫が歩いてくるのが見えた。
蔓は止められたまま。
冷静に見えるが、その少女の姿には苛立ちと怒りを窺える。
怒らせたのは間違いないだろう。
「わたしの召使を離してくださる?」
雪のような冷たい声がこちらに向いた。
もちろん応じない。
蛹をぎゅっと抱えた。
蜜蜂は姫蜂を取り押さえたまま、近づいてくる靫を睨みつけた。
「交換条件だ」
荒々しい口調は少々怖いが心強い。
「お前の大切な召使と私の恋人の大事な宝物。お前が襲ってこないなら、この姫蜂を刺さないと約束しよう。もちろん、無責任に蛹を持っていくとは言わない。このひとが約束したように、お前が危惧している未来を防止する努力をしよう」
「そんなこと――」
眉をひそめる靫に対し、蜜蜂は威嚇する。
「もしも、お前が取引に応じないのならば、この召使の命はない。我が剣の貫きは深い。姫蜂とはいえ、同じ虫の精霊ならばひとたまりもないはずだ。大切な存在に毒を盛られたくなければ、潔く応じるがいい」
鋭い言葉に靫が黙り込む。
蔓は動かない。
姫蜂も動かない。
不穏なまま静かな時が流れていく。
その間、私は蛹を抱きしめた。
ここで降伏すれば、この子は殺されてしまう。
姫蜂の赤ん坊のための揺りかごになるのならば、確かに無駄なこととは言えないかもしれない。
しかし、世の中はそこまで合理的にできているものではない。
厳しい精霊の世界であっても、他人から見れば無駄と思えるしがらみはあるものなのだ。
そう、私の宝物だって同じ。
そこに価値がないなんて誰が決められるだろうか。
逃がすと決めていたはずなのに、興味があるものは蛹の美しさだけだと思っていたのに、今や私はこの中に眠る胡蝶の子を守りたいと思っていた。
理由なんて分からない。
ただ、これが情というものなのだろう。
「靫様……」
先に沈黙を破ったのは姫蜂だった。
「私のことはいいのです。どうか、あなたの信念を貫いてください」
「黙れ!」
慌てて蜜蜂が制したが、姫蜂は全く恐れない。
「靫様は間違っていません。私の揺りかごになろうと関係ない。その蛹は私たちの世界に不幸をもたらします。あなた達は胡蝶の世界を荒らすおつもりなの?」
「なぜ、不幸だと分かる」
蜜蜂がすかさず嚙みついた。
「病気の話もこの魔女が勝手に推察しただけだ。だいたい、お前の慕う靫様とやらもたどれば月の森の血筋ではない。この子とどう違うというのだ!」
その叫びに、私は震えてしまった。
蛹は全く悪くない。
事情なんて分からない。
何が正解なのかもわからない。
ここで渡してしまう方が正義なのか。
彼らは女神のためにこの子を殺そうとしている。
これが、ただの胡蝶の蛹だったら、実に分かりやすい。
仲間や家族を取り戻したい側と、捕食者として蛹を手に入れたい側の対立というだけだ。
しかし、これでは私たちが悪で、彼女たちが善のようではないか。
納得がいかない。
渡さなくてはならない理由が分からなかった。
「それがあなた達の答えね」
冷たい声が響く。
靫の眼差しは冷え切ったものだった。
姫蜂の言うとおりにするつもりだろうか。
信念のために、愛しい召使までもを切り捨てるつもりだろうか。
靫は蔓に向かって指をさす。
体の一部である蔓たちに、私たちには分からない命令を下している。
私たちの不安を煽るように、姫蜂が叫ぶ。
「靫様、私ごと無知な者たちに罰をお与えください!」
いよいよ覚悟の時だ。
姫蜂ともども与えられる痛みはどれほどのものだろう。
しかし、その直後、予想に反したことが起こった。
蔓が力を失い、大きな音を立てて全て倒れてしまったのだ。
驚く私たちの前で、靫はうずくまった。
よく見れば、泣きだしている。
「出来るわけない! 出来るわけないわ!」
靫はそう言った。
「わたしは母とは違う。大事な目的のために情は捨てられない。そのひとはただの召使じゃないの。孤独なわたしに寄り添ってくれた大切なお姉さまでもあるの。だから、無理。どんなに大切な役割でも、そのひとを犠牲にしてまで、蛹は取り戻せない……」
ぼろぼろと泣き出してしまった靫を前に、私も蜜蜂も困惑してしまった。
ただ姫蜂だけが冷静に靫を見つめている。
その表情は、主人を慕う召使というよりも、小さな子供を見守る姉か母親のようだった。
「わたしの見立ては変更しません。でも、そのひとを人質にしてまで返してほしいというのなら、わたしはこれ以上、戦えません」
「靫様……」
意外な展開だ。
強がってはいたが、それだけ幼いひとだったのだろう。
見習い魔女と名乗っていた通り、靫は子供のように泣きじゃくっている。
そんな彼女に姫蜂は駆け寄りたくて仕方がないようだった。
ただ単に、主従の関係ではないようだ。
魔女の世界のことはよく分からないけれど、私から見て本当に保護者的な立場にいるのは姫蜂の方なのだろうと察することができた。
蜜蜂もすっかり戦意を失っていた。
短剣は構えたままだが、呆れたように靫を見つめる。
「私たちは森を乱したいわけじゃないわ」
蜜蜂の言葉に、私も頷いて続けた。
「危惧されていることは、なんとなく分かります。ただ、納得がいかないのです」
「……納得?」
泣きながら靫が私を見つめてくる。
「もしもこの〈縹〉という子が本当に胡蝶の世界を乱してしまうのだとしても、殺してしまう以外の対策があるはずです。全く異系の血の広がりを厭われるのでしたら、羽化したあとで人間の世界に戻せるように拾った私が責任をもって心がけます。何なら、月の女神さまにお訊ねしましょう。森の一大事ならば、お知恵を貸してくださるはずです。あなたがあなただけの判断で処分を下す前に、私はそういった努力をしたいのです」
本当に胡蝶の世界の危機ならば、女神は聞いてくれるはず。
女神に仕える人間たちも、真剣に取り合ってくれるはずだ。
靫は反論をせずに俯いた。
私の訴えはどのくらい届いただろうか。
蜜蜂も語り掛ける。
「……私も約束する」
しっかりとした声だった。
「働き蜂なんてどうせ長く生きられないと言ったね? そうかもしれない。でも、蛹が羽化して立派な大人になるまでは生き延びる努力をする。そして、このひとと一緒に、月の女神のもとへ頼みに行くと約束する。この子だけ特別視するなんておかしいと思われるかもしれない。それでも、この子は私の大切なひとが大事にしている宝物なんだ……」
真面目な顔で訴える蜜蜂の姿に、私は頼もしさと感謝、そして若干の気恥ずかしさを覚えてしまった。
嫌だからではない。
その言葉が素直に嬉しかったのだ。
ここまでして貰える私もまた、幸運に恵まれた花なのだろう。
こっそり感動してしまう私とは対照的に、肝心な相手の反応はあまり良いものではない。
俯きながら顔を覆い、泣きだすような声で靫は言った。
「月の女神さまだなんて無理よ。お話しくださるなんて思えないもの……」
それは、悲痛な訴えだった。