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声をかけられて目を覚ました。
とっさに息を潜めたが、聞こえてくるその声の主が分かるとほっとした。
知り合いだ。
返事をすれば、ほどなくして彼女は入ってきた。
いつもと変わらない訪問は嬉しいものだ。
蜜蜂が今日も来てくれた。
「やあ、お外で会ったカワイ子ちゃんから君は家にいるって聞いてさ。お茶会休んだんだね。具合でも悪いの?」
「ううん、違うよ。カワイ子ちゃんだなんて、あまり若い子をからかわないでほしいものね」
「妬いてるの?」
「――まさか」
否定したが内心は透けて見えたことだろう。
ああ、確かに、このひとが他の花の話をするのは面白くない。
私はこのひとしか知らないのに、このひとは私以外とも付き合いがある。
嫉妬しないわけがない。
もちろん、嫉妬したところで花と蜜蜂という種族の差は変えられないというのは承知のことだ。
それに、このひととの関りは生活に欠かせない。
貯めすぎた蜜を分け与えることは、お茶会なんかよりもずっと大切なことだ。
「……あれ、また新しい宝物かな?」
家に入ってすぐ、蜜蜂があの蛹を見つけた。
その色を不思議そうに眺めている。
「胡蝶の蛹よ」
そう言うと、蜜蜂は非常に驚いた顔をした。
「胡蝶……? 胡蝶って、精霊の胡蝶かい?」
「うん、拾ったの。たぶん、羽化は数年後だと思う」
「そ、それで、これをどうする気なの? あ、分かった。身代わりだね? 花を食い荒らす虫に見つかった時に利用するんでしょう?」
「違うわ。そんなことしない。これは私の新しい宝物なの。ほら見て。綺麗でしょう? こんな色の蛹なんて見たことがないわ」
「宝物だって? 正気かい? だってこれ、胡蝶なんだよ? 胡蝶っていったら、君たち花を枯らしてしまう野蛮な精霊じゃないか」
「羽化したてだと大丈夫よ。ちゃんと逃がすつもりだし」
「うーん……」
想像以上に蜜蜂はいい顔をしない。
聞きづらいところではあるが、勇気を出して私はさらに訊ねる。
「それでね、あなたにちょっと聞いておきたいことがあるの」
「なんだい?」
「姫蜂について知りたいことがあるのだけど」
「姫蜂……? どうしてあんな奴らのことを……」
「この蛹を拾ったときに、姫蜂らしき女性を見かけたの、蛹をじっと見つめていたから、もしかしたら羽化して出てくるのは胡蝶ではなくて姫蜂だったりして、って思っちゃって……」
「君はおっかないことをずいぶんと冷静に想像するだね……。まあいいや、その可能性はないとはいえないものね。で、何が知りたいの?」
「姫蜂が出てくる場合、どうやって見守ればいいのかなって」
「放っておけばいいんじゃないかな?」
「何かトラブルがあって死んじゃったらどうするのよ!」
思ったままに言ってみれば、蜜蜂はわざとらしくため息をついた。
呆れているらしいけれど、どうしてなのかちっとも分からない。
不思議に思いながら蛹を撫でていると、蜜蜂はますます不機嫌そうな顔をした。
「まあ、姫蜂は置いといてさ、中にいる胡蝶が無事だったら、どうするんだって?」
「だから、逃がすの。ここに置いているのはあくまでも蛹の色が綺麗だからだもの。胡蝶はモノじゃないでしょう? 本能のままに飛び立ってしまうはずだから、見送るのよ」
「――どうだか」
蜜蜂の反応は意外なものだった。
すぐに彼女の横顔を見てみれば、唇を尖らせていた。
あからさまに面白くないという顔をしている。
「それって、どういう意味?」
恐る恐る訊ねてみれば、蜜蜂は目を合わさずに答えたのだった。
「君も胡蝶に興味があるんじゃないの? この間だって、森で見かけた胡蝶が綺麗だったーって浮かれていたじゃないか。蜜蜂なんかよりも、胡蝶の方がいいってことじゃないのかなーってね」
「それって、もしかして、嫉妬しているの?」
珍しい姿がおかしくて、ついついからかってしまった。
私に蜜吸いを教えてくれたのは彼女である。
蜜蜂の精霊は、ただの蜜蜂と違って長生きすることも珍しくはないと本人から教えてもらった。
それでも、何年も生き延びられる者はさほど多くないのだとも聞いている。
蜜蜂たちは王国のために働き続け、調査係や蜜の採集係は肉食精霊に囚われてしまうことも珍しくはない。
だからこそ、何年も生き延び続ける働き蜂の精霊は、王国でも賢くて逞しい存在として尊敬されるそうだ。
こうして、何度も私に会いに来ることができるということは、彼女もまた賢くて逞しい蜜蜂であることの証拠だった。
実際、彼女と接していると、自分との違いに驚いてしまう。
大人になったタイミングはやや彼女の方が早いけれど、森を生き延びるうえでの経験はその倍以上の開きがあるのだ。
いつだって蜜蜂は私よりも上の存在。
だからこそ、こうして子供っぽく唇を尖らせている彼女は意外性があって、愛らしく思えてしまった。
思わずくすりと笑ってしまうと、蜜蜂は急に私の腕をつかんだ。
「今、笑ったね? えーえー、嫉妬していますとも。どうあがいたって胡蝶の愛らしさには敵わない。今更張り合うつもりなんてないけれど、他ならぬ君までもが魅了されたとなると嫉妬したくもなるよ」
「どうして? 私になんて蜜が目的で近づいてきているだけでしょう? この関係も王国の皆を飢えさせないためだっていつも言っているじゃない。他にも関係を持っている花がいるくせに」
いつもなら嫉妬をあらわにするところだが、今回は違う。
純粋にからかうつもりでそう言えた。
なぜなら、素直に戸惑ってくれる蜜蜂があまりにも可愛かったからだ。
「そりゃ……そうだけど……とにかく、胡蝶なんてダメ! この蛹も羽化する前に捨てちゃった方がいいよ。だいたい、姫蜂の子が寄生していたら、母親を怒らせてしまうかもしれないよ? うんうん、やっぱり捨てたほうがいい」
一人勝手に納得してしまう。
そんな蜜蜂に反論しようとしたが、その前に、彼女の手が私の体に触れてきた。
怪しげな手つきはいつもながら虜になってしまう。
彼女は私を知り尽くしている。
だからこそ、彼女しか知らなくても不満はない。
「ねえ、蜜吸いの前に捨ててきてあげるよ」
「そんなのダメ……ダメだったら」
「じゃあ、終わった後?」
「そういうことじゃなくて――」
次第に頭の回転が鈍っていく。
一度漂い始めた甘い蜜の香りは消えず、会話もままならなかった。
蜜吸いの前には安全確保が欠かせない。
お互いに危険すぎるからだ。
その点、この家は私と蜜蜂との”ふたりきり”を好きなだけ浸れる絶好の場所だ。
今宵も、生きる喜びをお互いに教えあえる日となるだろう。
肌と肌を重ねあい、彼女の王国のためにこの身を捧げる時間と空間のなかで、私の宝物となった蛹が邪魔になることはない。
蜜を奪われながら、どうにか私は蜜蜂に甘えた。
「――ねえ、分かって」
口づけによって自ら蜜を流し込む術は、私たちの関係の刺激となるものだ。
蜜蜂のためだけにとってあるこの蜜は、いつだって彼女を夢中にさせる。
十分飲ませてから、再度、私は蜜蜂に囁く。
「あれは……大事な宝物なの……」
「私よりも?」
「違うわ」
「じゃあ、いらないでしょう?」
その囁き、その手つきに屈服してしまいそうだ。
しかし、ここで負ければ絶対に後悔する。
だから、私は必死だった。
「あなたが……王国に戻っている間、寂しさを紛らわせるために置いておくの」
必死に考えて引きずり出したその言い訳に、蜜蜂は黙り込んでしまった。
そんな彼女に抱き着いて、全身に蜜を滲ませてみる。
私との関係は、良質な蜜蝋に繋がるのだと言っていた。
関係の始まりこそは別の蜜蜂による秘密裏の紹介だったそうだが、私の方は大人になって以来、このひとしか知らないまま過ごしている。
妹分ですら、危険を承知で様々なものと関係を持っている中、私だけは濃厚な蜜をこの蜜蜂のためだけに取っておいている。
この献身は、そのまま彼女の王国での身分に繋がっているらしい。
教えてくれたのは彼女自身だ。
だからだろうか、私の甘えに彼女は弱い。
「――仕方ないなあ。分かったよ」
そう言って、蜜蜂は抱き着いてきた。
「じゃあ、あれが羽化しても、関係を持たないと約束してくれる?」
「……分かった」
答えた傍から、彼女の指先が私の肌を這っていき、全身の蜜がざわついた。
まだまだ蜜吸いは始まったばかりだ。




