西洋甘菜の恋模様
野澤聡は端的に言えば伝承や伝説の類を信じている人間ではなかった。
なぜ過去形か。
仮に信じていなくとも,自分がその状況に直面してしまえば最後,目の当たりにしてしまえば当然,その怪異としか取れない状況を信じざるを得ないからだ。まして,彼のように頭が固く自分が至極真っ当だと信じ込んで疑わない人間は自分の頭が幻覚を見るほどにおかしくなったのだと信じたくはない,当然自分の頭が真っ当だと信じている。特に彼のようにやや思考回路が捻くれた真っ当を信じて疑わない人間は,自分の頭が真っ当だと主張するためなら多少の超常現象も受け入れてしまう。自分がおかしくなったのではなく,自分の外部で本当に訳の分からないことが起こった,自分はそれを受け入れただけだと。聡はそれほどまでに頭の固まった人間だった,重症である。目で見ただけなら見間違いだの疲れているだのと周りにも自分にも言い訳をすることができるというのが彼の隠れた本音である。
聡は春の桜の花が咲くころになると決まってイライラする。それは,最近世間一般で騒がれる花粉症的なものではなく,彼が暮らす片田舎の街の近くの裏山にあるヤマザクラのせいだ。
裏山の天辺にはそれはもう立派なヤマザクラが一本立っている。このヤマザクラには伝説と言うにはやや新しいころからそれとなく語り継がれている伝承のようなものがある。この山の斜面は桜の木が多く植えられ,ヤエザクラからソメイヨシノまで,ありとあらゆる種類の桜が咲き乱れる。その中でも,山の天辺にあるヤマザクラが一際美しい。ところが不思議なことにその桜の根元で花見をする花見客はおろか,近づいて写真を撮る者さえいない。昔からこの近辺に住んでいる住人曰く,この桜については「花の咲き誇る時期に根に寄ることなかれ。」と言い伝えられているそうだ。言い伝えと言うには比較的新しいらしいが,少なくとも自分の曾祖母の頃には言い伝えられていたらしい。なんでも,ヤマザクラの咲いている時,桜の下にいる少女に出会ってはならないと言う。その少女に魅入られたら最後,毎日気が狂ったように桜の木に通い続け,その間に時間をかけて魂を吸い取られ,遂には生きて山から戻ることはできないと言うのだ。
聡は納得いかなかった。
第一,少女に魅入られると言う伝説自体が眉唾物だ。どうせ昔のことだ,山に入って捜索不足で死体を見つけることができなかった山の事故が相次いで,それが桜の咲く時期に重なって,神隠し扱いされて伝承になっただけだろうと踏んでいた。このようなものは往々にしてろくでもない作り話が原点になっていることが多いのだ。桜にまつわる伝承なら日本全国津々浦々,探せばいくらでも出てくる。しかもそこに少女と来た。大方,日本神話の木花咲耶姫のサクヤの音とサクラの音が似ているから結び付けられたのだろう。実際,サクラの語源はサクヤであるとする説もある位だから。
それでも聡にとって忌々しくも馬鹿馬鹿しいこの伝承は今でもこの界隈で語り継がれているらしく,毎年桜の咲く時期になるとご丁寧にどこから出してくるのか年季の入った注連縄が桜を中心に3m四方に張り巡らされ,毎年新しい紙垂が付けられる。この注連縄のせいで,市内を一望できる斜面に一切近づくことができず,ついでに桜の写真を撮ることもできない。桜が完全に散るといつの間にか注連縄が無くなり,自由に近づくことができると言うのに。
「馬鹿馬鹿しい……何が伝説だよ。」
いい大人がみんなして何を言っているんだと聡は心底馬鹿にしていた。だからこそ,彼は今日カメラを片手に裏山に一人登ってきた。月明かりが美しい満月の夜だ。彼は昔から,少なくとも高校生になって写真部に入った頃からは特にこの桜に近づけないことに心底苛立っていた。本当に美しい写真を撮ろうと思ったら被写体との距離は大事だ。花弁の一枚一枚,その中に隠される色やおしべめしべ,綻ぶように溢れてくる赤みがかった若葉,その全てをカメラに収めてやろうと企んでいた。その下見を兼ねて,学習塾の授業の終わった夜,カメラを片手にこっそりと山に足を運んだのだ。
「さすがに誰もいないな。」
山の中腹当たりのソメイヨシノの木の下ではまだ5分咲き程度のソメイヨシノを相手に夜桜を酒を片手に楽しむ人たちの姿があったが,山頂付近は忌々しい伝承のせいか,人がほとんどいなかった。
「……きれいだ。」
斜面の下からの笑い声がいっそ煩わしい。月明かりに淡く照らされたそのヤマザクラは息をするのを忘れるほど美しかった。注連縄のせいだろう,妙に神々しい雰囲気が山頂いっぱいに広がっており,思わず聡は居住まいを正した。
「……何も起きないしな。」
注連縄の周りに特にセンサーも監視カメラもないことを確認すると,彼はあっさりとその縄で区切られた区画の中に足を踏み入れた。たったこれだけ。それでもその注連縄という存在に畏怖にも近い感情を抱いて遠巻きにするこの国の伝統はいっそ清々しいくらいだ。
桜の足元は美しいハナニラが群生していた。これは別名を西洋甘菜と言うらしい。明治時代にこの国に伝えられたアルゼンチン原産の植物で,早春の頃に六枚の花弁を広げて星にも似た花を咲かせる。野生種は白や青みがかった花びらを広げる。それがいつの頃からか,この山のヤマザクラの根元にそれはもう見事に咲くようになった。景観としては見事なものだ。月明かりにぼんやりと浮き上がる様が何とも美しい。
気を遣いながらハナニラにカメラを向けて一枚写真を撮る。試し撮りというやつだ。それから彼はヤマザクラにカメラを向けた。長年近くで撮りたくて堪らなかった花が目の前で咲いている。まだ2分咲きにもなっていないだろう。だがそんなことは今の彼にとっては重要ではない。胸が歓喜に打ち震えるのが分かった。だから聡は無我夢中でシャッターを切っていた。脇目も振らずファインダーを覗きこんでは写真を確認していた。だからこそ,目の前の桜の木の根元で少女が踊っていることにいつまでも気づかなかった。
「うわあ!?」
「ようやく気付いたのね。」
「いつからここにいたんだ。」
「最初から。あなたがあまりに目の前の桜にだけ夢中になってるから驚かしてやろうと思っただけよ。」
「ったく……そういうことをする奴がいるからいつまで経っても馬鹿馬鹿しい伝承が消えないんだよ。」
馬鹿に付き合う暇はないと,聡はイライラと手を振って再びファインダーを覗きこんだ。レンズ越しに覗く花は何とも言えない美しさだ。その景観の中に少女が映り込む。
「邪魔だよ。」
「いいじゃない。こんなところまで写真を撮りに来るなんて,珍しいんだもの。」
「ふん……。」
聡は一心不乱にシャッターを切り続ける。そして時計の短針が10を通り越した辺りでようやく撮るのをやめた。写真は占めて150枚。これから家に帰って写りの良いものだけを選別する作業をする。もちろん,ほとんど咲いていない,まだ枝だけの夜桜だけに満足する彼ではない,こうなったらこの色が映える青空の下で満開のこの桜の木を撮ってやる,と闘志を燃やしていた。
「帰るの?」
「夜遅いし。」
「あっそ。」
「お前帰んないの?」
「もう少し。」
「ふーん。」
桜に背を向け,注連縄をくぐる。何も起こらない。伝承なんてクソくらえ,聡はやっぱりそう思っていた。
次の日。曇天にもかかわらず聡は脚を裏山の山頂に向けた。今日は学校から真っ直ぐ家に帰るだけだ。明るいうちに花を撮る良いポジションを見つけようと思っているだけだと自分に言い聞かせた。肩から掛けたカメラを入れたカバンが重い。まだやや肌寒くも感じられる空気の中を,何かに急かされるように斜面を駆け上がった。そこで予想していなかった人物に遭遇した。
「げ。」
「あら,また来たの。昨日の今日とはご苦労様な事ね。」
「お前こそ暇なんだろ……なんだよ,制服でもないってことは学校行ってねーの。」
「行ってないわよ。行く必要なんてない。何でも知ってるんだもの。」
「中二病気取りかよ,ご苦労様なこった。」
機能と変わらず桜の木に根元でクルクルと舞っていた少女を視界に入れず,ファインダーだけを覗きこむ聡。やはり空と対照的なこの色を撮るには晴れの日が一番だ。曇天だと映えない事はないが今一つ決め手に欠ける。あの春の抜けるような遠い色をした青空にこの花びらを浮かべてみたいのだ。
「帰る。」
「あらそう,またね。」
聡のカメラにはちゃっかりヤマザクラの写真が保存されていた。
それからというもの,ヤマザクラに彼は頻繁に足を運ぶようになった。もちろん,写真を撮る最高のタイミングを逃さないようにするためだ。満開になるその瞬間を狙ってシャッターを切るためには,毎日その様子を確認する必要があった。雨の日も,霧の立ちこめる日も,晴れの日も,彼は毎日短時間でも良いからヤマザクラのもとに足を運んだ。そのたびに少女に会い,口喧嘩をし,くだらない応酬を繰り返し,聡はシャッターを切る。いつしかそのカメラのファインダーには少女が映り込むようになっていた。
「お前さ,なんでいつもここにいるの?」
「なんでって……そうね。なんでかしらね。」
「意味もなく来てるわけじゃないんだろ?なんか,景色見に来たりとかさ。」
「景色ねえ……見たりはしてるけど,そんなんじゃないわ。私は待ってるの。」
「何を?」
「さあ?」
「……意味わかんねー……。」
「気になる?」
「そりゃ,少しは。」
「じゃあ,当ててみて。」
「わかんねーって言っただろうがよ,話聞いてたか?」
「ぜんぜーん。」
「だろうな。」
相変わらず中二病こじらせた返答しやがって,と聡は舌打ちをする。少しずつ場所を変えてシャッターを切る。少女の笑顔が視界に入る。
「……撮ってやるから,そこに止まってろよ。あと,笑ってろ。」
そう声をかけると少女はパッと顔を輝かせて満面の笑みを浮かべて笑った。聡はその笑顔をファインダーの中央に収めてシャッターを切った。我ながら人物を撮った写真の中では渾身の出来だと,そう思った。
その翌日,聡は熱を出して寝込んだ。桜はどうなったのだろうか,満開を過ぎてはいないだろうか,今日の雨で散ってしまってはいないだろうか。桜の木の下にいた少女はどうなったのだろうか,気持ちだけが焦る事3日。熱が下がった彼は部屋から見えもしない裏山の方向を熱に浮かされた瞳で見つめていた。
待ちに待った青空が顔を覗かせたのは幸運にもその写真を撮った翌日だった。ここぞとばかりにカメラを握り締め,SDカードの中身を全部パソコンに投げ込んで空にして,予備の電池にSDカードを備え,付属のレンズをいくつか鞄に詰め込み,転がるように斜面を駆け上がる。坂を上った先には期待通りの絶景が広がっていた。
建物のない,空の青だけが背景になった満開のヤマザクラは,彼が転びそうな勢いで注連縄を飛び越えるには十分だった。これまでチェックしていたポイントにカメラをセットし,三脚を置き,無我夢中でシャッターを切る。角度を変え,露光時間を変え,場所を変え,それはもう,生まれて初めて日の目を見た少年のように無邪気な瞳でひたすら写真を撮り続ける。撮る花を変え,焦点を変え,最高の一枚を探し求める。
「久しぶり。」
「やっぱりいたんだな。」
「ここ数日来ないからどうしちゃったかと思った。」
「あー……熱だしてた。」
「下がったの?」
「うん。だから写真を撮りに来た。満開に間に合って良かったよ。」
久しぶりに顔を見た少女は,匂い立つような美しさを放っていた。その透き通った瞳に吸い寄せられるように聡はカメラを少女に向けた。
「笑えよ,もう一枚くらいなら撮ってやる。どうせならその,桜を背景に。」
「桜……ねえ。」
少女がヤマザクラの木を見上げてため息をつく。そして。
「私はあなたにとっても優しく微笑んでいたでしょう?」
聡の世界が反転する。視界いっぱいに広がるヤマザクラ,そして,冷たく湿った地面の感触と土の匂い,視界いっぱいの青空。少女に馬乗りになられたことに気づくにはいくらか時間がかかった。俯いた少女の表情は髪に隠されて見えない。ただ,喉元にかけられた指に少しずつ力が込められていくのが聡にはわかった。
「美麗な少女を演じて,でもあなたには執着せず,淡白に振る舞ったの。あなたの目がこのヤマザクラに向くように。」
「な……え?」
「お別れなんてしたくないわ,そんな悲しい思い,何度味わったことか。愛しい人はあの女に連れ去られてしまった,奪われてしまった。恨んでいるかって?もちろんその通りよ,はらわたを引きずり出してやりたいくらい恨んでる。だけど,彼はそれでも帰ってこなかったわ,耐えに耐えて愛情を注いだって言うのに。そんなにあの小奇麗な女が良いのかって感じよ。それならいっそ,」
私から彼を奪ったヤマザクラのように微笑むあの女を演じてしまえ。
「あなたは見事に桜に目を奪われた。綺麗でしょう?美しいでしょう?私が桜を演じれば,男はみんな寄ってくる。」
だけど私の本性は桜じゃないの。少女が放ったその一言が聡の背筋を凍らせる。妖艶で,それでいて冷徹な光を湛えた瞳が聡の心臓をわし掴みにし,少女の薄く開いて微笑んだ唇から覗く赤い舌が,恐怖に凍りついた聡の唇を舐る。
「騙した?そうね,その通り。卑劣?人聞きの悪い,騙される方が悪いのよ。せいぜい人を見る目を磨く事ね。自分の世界が全てだと信じる人間は私がみんな虜にする。」
少女の手がじわじわと首を絞めながら,その唇が聡の唇に近づく。
「――さようなら,楽しかったわ。」
その言葉と僅かに唇に触れる感触。触れる直前,鼻をくすぐったその香りは,確かに彼がここ数十日に亘って感じ続けてきたヤマザクラのそれではなかった。ここで聡は意識を失った。
その翌日,裏山に衰弱しきって倒れている男子高校生が発見された。注連縄の中央,ハナニラの群生地帯に埋もれるように倒れている彼は,即座に病院に運ばれて治療を受けたが,回復してもなおしばらく,彼は譫言を呟きつづけていたという。山頂付近で誰に会ったかは一切口にしなかったが,その代わり,自分がカメラに収めた少女を探してくれとただ繰り返した。だが,カメラの中には溢れんばかりのヤマザクラと,ハナニラの群生がそれはもう美しく収められているだけで,少女の写真は一枚も残されていなかった。
ハナニラ
甘く良い香りがする。六枚の花弁を広げて星の形に似た花を咲かせる。樹高は15-25cmほど。花の色は原種は青や白などで3-4月が花期(品種によって異なる)。
花言葉 別れの悲しみ 耐える愛 恨み 愛しい人 卑劣
別名 アイフェイオン(イフェイオン)・セイヨウアマナ
原産地 アルゼンチン
ヤマザクラ
その香りは人を飽きさせないと言われる。花期は3-4月。葉と花が同時に開くため,全体的に赤みがかって見える。
花言葉 あなたに微笑む 純潔 高尚 淡白 美麗