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水素爆発  作者: 藤原博一
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イントロダクション

 河原航平は今、十人程度の社員の前で講演を行っている。

「我々は、次世代のエネルギー事業のパイオニアだ。水素社会の実現は、現代のエネルギー問題に対する答えのひとつだと思う。この倉敷エネジーは水素社会を世界に先駆けて実現する企業として、水素技術の向上と普及を目指す。『倉敷から世界へ』をモットーに、皆でこの事業を成功させよう。」

二十二歳の若さで水素発電事業のベンチャー企業を起こした河原は、こうして倉敷エナジー社設立記念パーティを締めくくった。


 この記念パーティから三年後の十二月、河原は地元の同窓会が行なわれている居酒屋『フーフー館』の前にいた。河原の地元は岡山県倉敷市内にある真備町という小さな町で、地元で起業した河原はよくフーフー館で中学時代の友人と酒を交わしている。中学のとき河原は野球部に所属していたため、日頃から飲みに行くメンバーはもっぱら当時の野球部の連中だ。しかし今日は、野球部でエースだった片山亮の呼びかけで、野球部のメンバーだけでなくサッカー部やバレー部なども集まり、いつもより大規模な同窓会となった。小柄な片山だが、名門野球部のある倉敷実業高校に進学し、一年生エースとして甲子園にも出場した。プロ注目の高校球児だった片山だったが、二年生の秋に肘を故障し、三年生の夏は甲子園出場が叶わなかった。プロ野球ドラフト会議でもどの球団からも指名されなかった片山は、プロの道を諦め高校卒業後はトラック運転手をしている。

「航平、お疲れさん」

 片山はいつもの飲み会のように河原に声をかけた。

「おお、お疲れさん。今日はずいぶんと人が多いな。亮くんも忙しいのによくこんなに人を集めたもんだ」

 中学生の時から河原は片山のことを『亮くん』と君付けで呼んでいる。

「航平ほど忙しくないぜ。前もテレビに出てたの見たよ。あっという間に全国区の有名人だな。この前の昼のワイドショーでは『若手イケメン社長』って見出しが付いてたよ。お前、メディアに手を回してるんじゃないだろうな」

 片山が生ビール片手に冗談めかして言った。

「ばかやろう。そんなことやる時間も金もねえわ」

「またまたー、年商一兆円は稼いでるんだろ?俺なんて手取りで年収二〇〇万ってところだよ。俺も起業しようかなぁ」

「年商一兆円も稼いでないよ」

 フーフー館の入り口で話していた二人に気づいた酒本弥生が、一目散に近づいてきた。

「あれ、イケメン社長だ!まさか航平くんが会社の社長として有名になるなんて思わなかったわ」

「そうだな、俺もガキの頃は自分が社長になるなんて夢にも思ってなかったよ。弥生は元気にしてたか」

「私は相変わらずだよ。航平くんは体調崩したりしてない?忙しそうだし、最近飲み会にもあんまり顔出してなかったから」

 酒本は整った眉をへの字に曲げて答える。彼女は河原、片山と幼馴染で、日頃の小さな飲み会にも時々顔を出すメンバーの一人だ。高校卒業後に地元の企業に就職し、事務員として働いている。

「弥生ちゃん、俺の体の心配もしてくれよ」

 甘えるように言った片山に「はいはい」と酒本はドライに対応する。地元では定番のやりとりだ。片山はふてくされたようにそばのカウンターにある灰皿でたばこの火を消し「冷たいなぁ」とぼやいている。

「そういえば来週弥生が働いてるJAE合金の藤井常務と水素貯蔵庫の建設の件で打ち合わせに行くことになってるんだけど」

「来週のいつ?何時頃来るの?もし時間があったらお昼いっしょに食べようよ」

 河原が話し終わるのを待たず酒本が食い気味に誘う。

「来週の木曜日。時間は午後二時だけど、その後に藤井常務と会食に行くことになってるんだ。悪いな」

 涼しい顔で断った河原に対して、弥生はあからさまに肩を落として落ちこむ。その時、思い出したように片山が「あっ」と声を漏らした。

「この前さ、トラックで荷物を運びにJAE合金に行ったんだけど、そこで妙な噂を聞いたんだが、あの瀬戸内電力が水素発電事業を始めるとかなんとか」

「おい、それ本当か」

 河原が目を見開いて驚き、先を促す。

「なんでも瀬戸内電力からJAE合金に水素吸蔵合金の受注がされたとかで、水素発電に本腰入れて乗り出すかもしれないという話らしい」

 水素吸蔵合金とは水素を取り込むことのできる特殊な合金で、水素社会を支えるキーマテリアルである。河原が来週JAE合金に行くのはその水素吸蔵合金「パラマックス」を使った水素貯蔵庫建設計画の打ち合わせのためだ。

「それは面倒なことになりそうだな」

「その話なら私も聞いてるわ。だけど航平の会社は大丈夫でしょ。もう三年も前から水素事業に取り組んでたんだし、瀬戸内電力なんか敵じゃないよ」

 励まそうとする酒本に、河原は不安を口にした。

「瀬戸内電力ほどの企業だ。俺たちが三年かけて作ってきたシステムを半年で作る人と金があそこにはある。その噂が事実だとすると今後瀬戸内電力と競合することは間違いないな」

 倉敷エネジーは主に企業や研究機関に向けて電力を供給している。八年前の東日本大震災による原子力発電所の稼働停止に伴って企業や研究機関は厳しい節電対策を強いられている。その一年後には、日本が二酸化炭素排出量を十パーセント削減するというボストン議定書が採択されたことで、厳しい節電対策に拍車をかける結果となった。そんな中、新エネルギーとして注目されていた水素エネルギーをいち早く産業利用し、電力供給を実現させたのが、河原が設立した倉敷エネジーである。河原は岡山にある唯一の国立大学である瀬戸内大学の経済学部出身で、その瀬戸内大学の準硬式野球部時代に出会った理学部の学生と意気投合し、その学生と水素社会化計画を立て、河原がそれを実現させた。その理学部の学生は大学卒業後、瀬戸内大学大学院に進学し、今でも博士号取得のために大学で研究を続けている。一方で瀬戸内電力は中国地方の電力のほぼ全てを供給してきた大手電力会社である。しかし、発電手法はほとんどが火力発電であるため、二酸化炭素排出量規制のため、最近も電気料金を値上げしたばかりだ。

「まあ俺たちも今後は一般市民にも電力を供給していく予定だし、他社が事業に参入してきても俺たちができることをやり続けるだけさ。」

 自分に言い聞かせるように言った河原はまだこの時、この後起こる事件を知る由もなかった。



 翌週の木曜日、河原はJAE合金の応接室にいた。JAE合金のオフィスは瀬戸内海に面した位置にあり、児島湾沿岸はJAEグループの工場で埋め尽くされている。応接室の窓からは瀬戸内海を見渡せ、その向こうにかすかに四国の山が見える。

 河原がそのパノラマビューに見とれていると、応接室のドアが開き、ショートヘアの女性が入ってきた。藤井常務の歳は四十代後半ということだが、入ってきた女性は二〇代のような若々しい。

「お待たせしました。常務の藤井です。本日はお忙しいところご足労いただきありがとうございます」

 深く頭を下げた藤井は頭を上げると応接室中央にあるソファにこしかけるように促してきた。河原はそれに従いそのソファに腰掛け、それを確認した藤井がその向かいのソファに腰掛ける。

「こちらこそお忙しいところお時間をいただきありがとうございます。先日も電話でお話ししました通り、弊社は現在水素発電事業に取り組んでおります。発電に用いる水素は高圧タンクに蓄えている状況ですが、そうした管理は危険を伴います。現在も空気に触れないよう徹底して管理しておりますが、ゆくゆくは水素吸蔵合金に水素を吸着させて保管したいと考えています」

 反応の薄い藤井に対してなおも河原は続ける。

「御社の水素吸蔵合金『パラマックス』を使った水素貯蔵庫を建設し、より安定した水素の運用を実現したい」

「そうですね。我が社のパラマックスが、倉敷エネジーさんのような有名な企業に使っていただけるのは私どもとしても願ってもないチャンスだと思っているのですが・・・」

 歯切れ悪く言った藤井は、意を決したように顔を上げ

「今回の水素貯蔵庫建設の取引はできません。申し訳ありません。」

 深々と頭を下げる藤井に、河原は頭の中が真っ白になったが、即座に

「ちょ、ちょっとお待ちください。先日お話しした時には、この計画に参加してくださるということでしたよね?どうして急に」

「理由は申し上げられません。こちらにも事情がありますので」

「瀬戸内電力ですか」

 問うた川原の言葉に、藤井が一瞬目を見開いたがすぐに冷静な顔つきになり

「とにかく、理由は申し上げられません。今日のところはお引き取りください」

 そう言って立ち上がろうとした藤井を引きとめようと河原は食い下がる。

「納得する理由もなく取引をなかったことになさるのは、いくらなんでもあんまりではないですか。この水素貯蔵庫の実現には地球の未来がかかっているんです。なんとか考え直していただけませんか」

 必死に説得する河原に藤井は「本当に申し訳ありません」と言って先に応接室を後にした。残された河原は訳も分からないままソファーに体を埋めた。

「瀬戸内電力がどんな取引を持ち込んだのか分からないが、これは厄介だぞ」

 つぶやいた河原のスマートフォンが鳴ったのはその直後のことであった。



 トラック運転手の片山は午前中に岡山県北部の「ナカマル」というスーパーに荷物を運び、午後は瀬戸内海に面した都市である笠岡を周る予定であった。笠岡は広大な干拓地を持ち、その大半は農業用池として利用されているが、湾の西部は工業地としても利用されている。片山はその干拓地で取れた米を回収しなければならないのだ。トラックでラジオを聴きながらコンビニ弁当を食べ終えた片山は、ブラックコーヒーを飲み干した後コンビニを出た。

 信号待ちの間にたばこの箱を慣れた手つきで振ってたばこを一本だけ取り出す。そのたばこをくわえて火をつけようとしたまさにその時、大砲を撃ったようなドーンという音で片山はハッとした。しばらくまわりきょろきょろと見回したが何も起きなかったので、たばこに火をつけた後信号が青になっているのに気づいてゆっくりと車を発進させた。今の音はなんだったんだ、今度の飲み会で弥生に話そうなどと考えていると、ラジオが緊急のニュースを伝えるアナウンスが流れた。

「今入ってきたニュースをお伝えします。岡山県笠岡市の笠岡湾沿岸にある倉敷エネジー笠岡水素貯蔵センターの水素タンクが破裂しました。現場からの情報によりますと、五つあるタンクのうち一つのタンクのみが破裂した模様で、けが人などの報告は未だなされていません。このタンクの破裂の影響で、連鎖的にその他のタンクが破裂する危険性が・・・」

 ラジオから流れるアナウンサーの声に耳を傾けていた片山は思わずトラックを道の端に停車してたばこをトラック備え付けの灰皿に押し付けた。頭で考えるより先に片山はスマートフォンを取り出しダイヤルを押していた。



 どれくらいこの部屋にいるだろうか。さっきから目の前の二人の刑事に事情聴取されている。右にいるのは三十代後半ぐらいのがっちりした体型の男で、名前は佐久間といったか。先ほどからずっと河原に質問している。左にいる刑事は河原と同年代のようで流行りの細マッチョという感じだ。名前は浜田というようだ。事情聴取が始まってからずっと書記係に徹している。

「君はタンクが破裂した原因がなぜかは解らないと言ったが、本当に心当たりはないのか」

「ないですよ。今だって正直信じられません。これから原因を究明して、二度と同じ事故が起きないようにしないと。早く解放してくれませんか」

「君はタンクが破裂した時JAE合金のオフィスにいたと言ったが、なぜそこに出張していた」

「水素貯蔵庫を建設する予定だったんです。水素が気体のままで保管されているのは危険です。それを防ぐために水素を金属に吸い込ませて安全に保管しようと計画していたんです。水素を吸い込ませる合金を作って頂く予定だったJAE合金と打ち合わせを行うためにオフィスに出向いたんです。何度話せば分かるんだ」

 先ほどから同じ質問が繰り返されており、河原は苛立ちを露わにして答えた。

「じゃあ今日のところはこのあたりで終わりにしよう。また捜査に協力をお願いすることがあると思うがその時はよろしく」

 何が捜査だ、と内心毒づきながら河原は部屋を出た。死傷者は出ていないし、あんな笠岡の僻地で被害を受けたのは農家だけだろう。それは申し訳なかったが、それよりも損害がでかいのは俺の方だ。

「ところで河原社長、瀬戸内電力の田中社長のことは知ってるか」

 見送りのために後ろをついてきていた佐久間が問いかけてきた。

「そうですね、名前ぐらいは知ってます。お会いしたのは会社設立当初ぐらいだからもう三年以上は会っていませんが」

 頭にこびりついた違和感が表に出ないようにして河原は答えた。

「そうか。付かぬ事を聞いたな。それではまた」

 倉敷警察署の入り口まで見送りに来た刑事たちを背に河原は入り口の真ん前につけていたタクシーに乗り込み、先ほどの刑事の質問を頭の中で反芻していた。


 藤森達也は研究室で日本学術振興会に提出する報告書を作成していた。藤森は今年から博士課程の学生として瀬戸内大学横矢研究室で水素吸蔵合金を研究している。実験の傍ら、論文の原稿を作成し、その内容の学会発表用の資料を作成するという日々が続いており、今も目をシバシバさせながらパソコンの画面を睨みつけている。研究室で徹夜で作業していたため、藤原竜也似の顔にはあまり血の気が通っていない。

「あー、予算が余りすぎてるなぁ。あと三ヶ月で使い切らないと来年から科研費削られるかもしれない。」

「藤森さん、今朝のニュース見ましたか?倉敷エナジーやらかしましたね」

 他人事のように言った向かいの席に座る後輩の言葉に藤森は顔を上げた。

「尾上、倉敷エナジーがなにか起こしたのか?」

「やっぱり知らないんですね。忙しそうだから仕方ないか。倉敷エナジーが笠岡湾に保有している水素貯蔵高圧タンクのうち一つが爆発したんですよ。今朝はそのニュースでもちきりで。死傷者は出ていないらしいんですが、倉敷エナジーに就職考えてたんですけど、こりゃもうダメですね。」

 なおも他人事のようにしゃべり続ける後輩をよそに、藤森はヤフーニュースをチェックする。確かに、「倉エナ 水素タンク破裂」の文字がトップに出ているのを見ると、すぐにリンクをクリックして内容を確認した。その他にも似たような記事をネットで検索したが、どの記事も倉敷エナジーの管理の甘さが引き起こした破裂事故だという結論のようである。

 再び書類作りに戻ろうとした時、藤森のスマートフォンが鳴っているのに気づいて相手の名前を確認するとすぐに「応答」ボタンをタッチする。

「もしもし。俺だ、倉敷エナジーの河原だ」

「お、イケメン社長の河原社長か。次は爆発テロ社長の名をほしいままにするわけだな。あのタンクが破裂するってどんな大砲をぶっ放したんだよ」

「そんなの俺が聞きたいよ」

 疲れ果てた様子で答えた河原に藤森が続ける。

「まああの水素爆発のおかげで乾燥する冬に潤いをもたらしてくれるだろうから僕も助かるよ。ありがとう。」

「藤森は相変わらずテキトーだな。まあいいや。昨晩から事情聴取されていてもうヘトヘトだ。」

「河原はいつかやると思っていたよ」

「やめろやめろ。マジでそんなこと言っている場合じゃない。ところで藤森、今日の事情聴取でちょっと気にかかることがあったんだ」

「なんだ」

「事情聴取で瀬戸内電力について聞かれた」

 それを聞いた藤森は「ほう」と言って思考を巡らしている間にも河原は続ける。

「地元の伝手から聞いた話なんだが、瀬戸内電力はウチと同様JAE合金に水素吸蔵合金の「パラマックス」を受注しているらしい。さらに最近JAE合金に持ちかけた水素貯蔵庫建設計画も、初めはJAE合金も前向きだったにもかかわらず、昨日の打ち合わせでは手のひらを返したように取引を拒否された。おそらく瀬戸内電力がJAE合金に何らかの取引を持ちかけ、ウチとは取引しないように仕向けたのだと俺は踏んでる」

「なるほど。今回の水素タンク破裂事件には瀬戸内電力が絡んでる可能性があると見てるわけだな」

 さすがに藤森は物分りがいい。この男は河原を凌ぐ切れ者で、倉敷エナジー設立を河原とともに行った人物だ。設立の時、河原は藤森を副社長のポストに誘ったが、「基礎研究なしにはこの計画も実現しない」と言って大学院進学の道を選んだ。研究者としてアカデミックポストに就ける確率が極めて低いことを考えると、倉敷エナジーで研究開発を行うこともアリだが、多分藤森なりの考えがあるのだろう。

「だが、あの水素貯蔵タンクは簡単には破裂しないだろう。破裂の原因は分かったのか」

「いや、それがまだわかってない。だが研究技術開発部長の谷内によると、あれは水素と酸素が反応したことによる水素爆発であることは間違いないらしい」

「水素爆発か。それを起こすには何らかの手で酸素をタンク中に混入させなければならない。そんなことは外から穴を開けない限りあのタンクの構造上不可能だと思うが」

 藤森は、河原らが一ヶ月かけて完成させた水素貯蔵高圧タンクの図面について助言を求められた。藤森は一晩でその構造の欠陥を見つけ改善案として新たな図面を作り河原に返信した。倉敷エナジーの技術者はその改善案の欠陥を指摘することができず、結果としてその改善案がそのまま現行の水素貯蔵高圧タンクとして採用されたのだった。

「藤森もやはりそう思うか」

「そうだな・・・。申し訳ない、今ちょっと忙しいんだ。そうだ、また落ち着いたら久しぶりに飲みに行かないか。今回の件でも何か知恵を貸せるかもしれない」

「そうだな、助かる。じゃあまた連絡するよ。忙しいところありがとう」

 電話を切ると藤森は深いため息をついて研究室に戻った。




 藤森との電話を切った後、河原は作業員の元に戻った。警察の事情聴取を受けた後、休む暇もなく事故現場の倉敷エナジー笠岡水素貯蔵センターに来ていた。干拓地に建設された水素貯蔵タンクは円筒型で高さは十五メートルほどだ。そのタンクが昨日の朝までは五体が五百メートル間隔で並んでいたが、現在はそのうちの一番西側のタンクの右半分が吹き飛んでおり、残った部分も豪快に折れ曲がり内側は黒くこげている。残りのタンクはほとんど無傷で済んだのは不幸中の幸いだ。今回のような爆発があったときに連鎖的に爆発が起こらないように五百メートル間隔で配置したことが功を奏した。破裂したタンクの周辺は警察以外は立ち入り禁止になっており、社長の河原でさえも外から現場を眺めることしかできない。

「いったい警察は何を調査しているんでしょうか。事故原因を突き止めたいなら我々技術者と協力した方が早いと思うんですが」

 研究技術開発部長の谷内快は丁寧な口調で不満を口にした。谷内は倉敷エナジー設立当時から屋台骨を支える人物の一人だ。藤森が倉敷エナジーに入社しない代わりに紹介してきた大阪大学工学部出身の男である。チタン製フレームの眼鏡をかけていて「できる」サラリーマン風の出で立ちだが、礼儀正しく馬鹿がつくほどまじめだ。背は高くモデルのようなスタイルなため、倉敷エナジーの女性社員からは人気がある。

「おそらく我々が何かを隠蔽するのを危惧しているんだろう。とりあえず警察が調査している間は我々はタンクに近づけないから、今のうちに警察がどいた後にどこから手を付けて行くか計画を立てておこう。今回の損害は賠償も含めて二十億だというのが経理部長の長谷川の見解だから、予算との兼ね合いで今後の方針を決めて行くことになる。タンクの復旧については谷内に任せる。よろしく頼む」

「承知しました。それにしても」

 谷内はタンクの残骸を眺めながら

「どうしてタンクは破裂したんでしょうか。私はその原因に皆目検討がつきません。先ほどもお話ししましたが、破裂したタンクの最寄りの湿度計の値は破裂直後に大きく跳ね上がってますから水素爆発が起きたことは間違いありません。しかし、そんなことが起こる兆候はありませんでしたし。またピストルかなにかでタンクに穴を開けられたとして、内側から高圧の水素が吹き出しますから酸素がタンク内に入ることは考えにくいと思うんですよね・・・」

 そう言ったきり谷内は黙って思考に耽った。その通りだと河原も思う。昨日の事情聴取でも我々の管理体制の甘さを追求されたが、管理体制は完璧だ。水を光触媒によって分解した水素をタンクまで輸送するパイプにはいくつかの「部屋」を建設してある。それぞれの部屋には質量分析器と圧力計が取り付けてあり、その部屋に存在する気体の種類と圧力をモニターできるようにしてある。さらに事故が起きたときのために、それらの機器で測定したデータは全て倉敷エナジー社の共用のハードディスクに保存してある。それらのデータは警察に提供済みだ。しかし今朝提供前に破裂直前のデータを確認しても異常は見られなかった。

「やっぱり藤森の力を借りるしかないか」

 つぶやいた河原は谷内に現場を任せて一人本社に戻った。



 本社の社長室に戻った河原はコートを脱いでいすの背もたれに掛けた。そして経理部に内線をつなごうとしたとき、社長室のドアがノックされた。河原の「どうぞ」という声に「おじゃましまーす」と言って入ってきたのは経理部長の長谷川だ。

「ちょうどよかった。今はっちゃんに電話しようと思っていたところだよ」

長谷川と河原は同じ高校の同級生で、二人で話すときは当時の呼び方で名前を呼んでしまう。長谷川は高校卒業後、東京大学文科Ⅱ類に進学したエリートだが、毎晩のようにテニスサークルの仲間と飲み明かしていたため、かろうじて卒業用件単位を取得しなんとか東京大学を卒業できたのだった。就職活動もあまりうまく行かなかった長谷川は、河原に誘われて会社設立当初から経理部長を務めている。

「航平、復旧に二十億かかるとすると五億の赤字。やべーよまじで。吉備銀行の岡松さんももう金貸せないって言っててさぁ。こりゃもう倒産だわ」

 チャラチャラした話し方の長谷川だが、銀行相手に発揮するコミュニケーション能力の高さは社内でも横に出るものはいない。

「そうか。銀行には改めて俺が出向こう。山陽銀行にもあたってみてくれないか。設立のときには耳をかしてくれなかったが、今なら話が別だろう」

「そうだな、わかった。あと、これは銀行との交渉にも関連することなんだけどさぁ、復旧にはどれぐらい時間がかかりそうなんだよ。それをはっきりしてくんなきゃさ銀行を説得するのは難しいと思うんだ」

「警察の捜査の状況にもよるが、タンクの建設には半年はかかる。動作確認なども含めると一年後には完全に復旧できると思う。まあ金を貸してもらえればの話だが」

「だが事故原因が明らかにならないと、同じタンクを設計して作ったとしても同じ事故がまた起こるんじゃねえの?その原因同定にはどれくらいかかりそうなんだよ」

 さすが東大出身。痛いところを突いてくる。

「原因究明には時間がかかると思うが、おそらく警察と協力して取り組んで行くことになるとおれは踏んでいる。その段階に入ればすぐに原因は明らかになるだろう。一年で復旧だ。それ以上長引くと、倉敷エナジーは倒産する」

「そうなっちゃいますよねぇー。仕方ない、なんとか銀行に取り合って資金を調達してやるよ」

 おどけた感じに言った長谷川は、河原が「よろしく頼む」と言うか言わないかぐらいで足早に社長室を出て行った。

 考えなければならないことは山積みだ。頭が痛くなってきた河原は社長いすに深く腰掛け大きくため息をついた。




 広島駅を出てすぐのところにあるビル街の一角に瀬戸内電力は本社を構えている。その本社ビルの最上階にある社長室で田中広大は広島市街を眺めていた。今日は特に眺めがいい。冬のカラッとした空気を太陽が温めている今日は十二月中旬にしては暖かい。だがまた雨が降ればすぐに寒くなるだろう。

「社長、失礼いたします」

 ドアの向こうからの声に田中は「どうぞ」と答える。入ってきたのはラグビー選手を彷彿とさせる体格の男である。

「どうした、上井」

 水素発電事業開発部長の上井光は十二月だというのに額に汗を浮かべて田中に詰め寄る。

「田中社長、一週間ほど前に起きた倉敷エナジーの水素タンク爆発の件で警察が事情を聞きたいと言ってきております。どうされますか」

「捜査に協力しないと怪しまれるだろう。君が対応してくれたまえ」

 田中は押し付けるように言った。

「ま、まさかこんなに早く足がつくとは考えておりませんでしたので。まだ心の準備が、その・・・」

 上井はわかりやすくあたふたしている。

「我が社はあの件には何も関係ない。警察が証拠をつかんでいるとも考えにくい。そもそもそんな証拠は存在しない。君はそう警察に伝えたらいい」

 淡々と説明する田中の話を聞に納得したのかしないのか、上井は「はあ」と気の抜けた返事を返した。

「それでは警察にはそのように説明いたします。警察が社長にも話を聞きたいと言い出したら呼びに参ります。いいですね?」

 尋ねた上井に田中は

「構わん」

と答え、それを聞いた上井は額に汗を浮かべたまま社長室を後にした。それを見送りながら田中はスマホを取り出しある人物に電話をかけた。



 取調室で佐久間は瀬戸内電力の上井に質問を続ける。

「つまり瀬戸内電力さんは倉敷エナジーの水素爆発の件には全く関与していないということですね」

「そうです。なぜ我々に疑いがかかるのかがそもそも謎です。あれは倉敷エナジーの管理が甘かっただけでしょう。電力業界の信用を傷つけられて我々は迷惑してるんです」

 こちらを睨んでいる上井を佐久間は観察する。上井の言っていることが真実かどうかを見極めているのだ。

「瀬戸内電力さんは水素発電事業に乗り出すために、水素発電事業部を設立していますよね。そちらの進行状況はどのような感じですか」

「社内の情報をあまり口外することは避けたいんですがね」

「話したくない理由でもあるんですか」

「別にやましいことはないが、ここでしゃべることが巡り巡って他者に伝わるのを危惧しているだけです」

 なかなか口を割らない上井に内心イライラしながら佐久間は質問を続ける。

「私たちには守秘義務がありますからどうぞご安心ください。水素事業、うまくいきそうですか」

「我々の水素事業は非常に順調に進んでいます。水素の生産機構、貯蔵機構、発電機構、水回収機構、それぞれ滞りなく準備が進められているところです」

「さすが瀬戸内電力さんだ」

 持ち上げた佐久間の言葉に上井は笑みを浮かべて

「我々ぐらいの企業になれば、やると決まれば事業は速やかに進みますよ」

 気を良くている様子の上井にさらに佐久間は続ける。

「最近JAE合金に「パラマックス」という製品を受注しているようですが、それは事実ですか」

「よくご存知ですね。パラマックスは水素を運搬するのに使うんですよ。気体のままだと危険ですからね。」

「そのパラマックスはもう納品されていますよね。もう水素の運搬に使ってみましたか」

「いえ、まだそこまでは進んでいません。水素の運搬はもう少し後に必要になることですからね。まずは水素を作って発電してまた作るというシステムを構築するのが先です。佐久間さん、そのパラマックスが倉敷エナジーの件と何か関係でもあるんでしょうか。」

「関係はあります。爆発を起こした水素タンクの近くに水素タンク以外の素材でできた金属片が見つかりました。それがJAE合金が特許を持つパラマックスの元素組成に酷似していることがわかっています。その金属片の表面状態を見ると製造されて一ヶ月も経っていないというのが科捜研の見解です。そこでJAE合金に問い合わせたところ、ここ一ヶ月間に製造した製品は瀬戸内電力さんに納入したものだけだということでした。何か心当たりはありませんか」

「我々の工場は広島県の呉市にあるんですよ。我々に納入されたパラマックスは全てそこで管理されています。倉敷エナジーのタンクのそばにそれが落ちているはずはありません」

 毅然とした態度で答える上井の言葉に不自然な点を見出せなかった佐久間は「そうですか。どうもご協力ありがとうございました」と言って上井の取調べを終えた。

「浜田、瀬戸内電力はこの件に関係していると思うか」

 上井を見送った後、佐久間は後輩の浜田に聞いた。

「今回の取調べからはなんとも言えないかなと思います。呉市にある瀬戸内電力の工場に行ってJAE合金に受注されたパラマックスの数量と瀬戸内電力の工場にあるパラマックスの数量を比較してみる必要があると思います。上井の話ではまだパラマックスは使っていないはずですから、その話が本当ならばそれらの数量は一致するはずです」

「そうだな、俺も同じことを考えていた。やはりそれを確認するのが先決だな。瀬戸内電力の調査は慎重に進めよう。前回の件もあるしな」




「おつかれーっす」

 土曜日の夜、河原と藤森は河原の地元の居酒屋「フーフー館」で飲んでいた。

「遠いところ悪いな。この居酒屋が一番落ち着くんだよ」

 詫びた河原に藤森は「構わん」とそばめしを頬張りながら答えた。

「しかしお前の地元はスーパーとパチンコ屋しかないのか。スタバもユニクロもないんじゃ生活してて楽しくないだろう」

「ここは倉敷市街まで車で十五分だから、必要に応じてそっちに出ればそれほど不便じゃないよ」

 お好み焼きを切りながら河原が弁解する。河原の地元である真備町は倉敷市と総社市に挟まれた小さな町で、それらのベッドタウンの役割を果たしている。岡山市までは車で五十分ほどかかるが、今日は河原がタクシー代を出すということで五十分かけて藤森は真備町まで飲みに来たのである。

「しかしお前が言った通りここの鉄板焼きは絶品だな。」

 そばめしに添えられた紅しょうがをそばめしと混ぜ混ぜながら藤森は素直な感想を述べた。

「そうだろう。わざわざ足を運んでもらったからな、それ相応のおもてなしはしないと」

「ありがとう、期待以上だった。それはそうと」

 声をひそめた藤森はその調子で続ける。

「あのタンクが水素爆発する可能性を考えてみた。いや、厳密には何の兆候もなく水素タンクが破裂し、破裂後に湿度が上昇する可能性だな」

「それはつまり、あれは水素爆発ではないと、そういうことか」

 驚いた様子の川原の問いに対して藤森は議論を続ける。

「その可能性もあるかもしれないと俺は考えている。タンクを設計したときに見せてもらった発電システム全体の構造をもう一度見直してみたんだが、やはり酸素が発電システム中に混入しそうな欠陥は存在しない」

「確かにQmassの分析データからも酸素は検出されていない」

 Qmassとは四重極質量分析計のことで、気体中の分子の質量分析を行なってそこに存在する気体の種類を同定する装置である。

「なるほど、やはりそうか。」

「でもそれじゃあ湿度計の値が爆発後に急激に大きくなった理由はどうなる」

 河原の質問に藤森は即座に質問で返す。

「タンクの損傷はどんな感じなんだ。写真とか撮ってないのか」

 撮ってるよ、と言って河原はスマホを取り出して写真を探す。

「これだ」

 河原のスマホを受け取った藤森はそこに映っているタンク「らしきもの」をじーっと観察している。

「どう思う」

 河原が問いかけると

「やはり変だ。内側から水素が爆発したならもっと等方的に、つまり四方八方に吹っ飛ぶはずだろう。しかしこの写真を見ると右半分だけが大きく損傷している」

 河原が気になっていたところを藤森も指摘した。

「やっぱり藤森もそう思うか」

「ああ。この損傷は外部から衝撃が与えられたものである可能性が高い。内側が黒くこげているのは、タンク損傷後にタンク内に酸素が混入したために起きた水素爆発によるものだろう。そう考えれば爆発後に湿度計の値が急激に増加したことについても説明がつく」

「藤森の言うことも分かるんだけど、あのタンクに外側からあれだけの損傷を与えることなんて可能なのか」

 河原は素朴な疑問を口にした。あの水素貯蔵タンクは炭化タングステンを主成分とする超硬合金でできている。そんな簡単にタンクの半分を吹き飛ばすような損傷を与えられるだろうか。

「そんなの簡単だ。核反応さ」

 核反応とはある原子の原子核がもつ陽子や中性子の数が変化する反応である。有名な核反応はウランの核分裂反応で、第二次世界大戦時に広島に投下された原子爆弾に利用された。現在でも、原子力発電ではウランやプルトニウムといった放射性元素の核分裂反応が利用されている。ただし、核分裂反応によって生成する物質は放射能をもち、放射線を出し続ける。

「寝言は寝ているときに言えよ。そんなことがあるわけないだろう」

「じゃあ放射線量は測定したのか」

「それは、まだだ」

「それなら核爆弾の爆発によって水素貯蔵タンクが損傷した可能性も拭いきれない」

 そう言うと藤森はグラスに三分の一ほど残っていたハイボールを飲み干した。腑に落ちない様子の河原だったが、少し考える仕草をした後

「そんなことができるとしたらどこのだれだと思う?」

 河原は誘導するように問うた。

「そんなの俺が答えを言うまでもない」

 壁にかかったメニューを眺めて次のドリンクを選びながら藤森は答えた。

「もしそれが事実だとするとこれは世界的な大事件だな。こんな形で倉敷から世界へ進出するなんて、皮肉な話だ」

 腹の底からこみ上げてくる怒りを押し殺して河原もハイボールを飲み干す。

「まあとりあえず明日現場近くで放射線量を測ってみろよ。なにも出なければこの話は没だからな」

「それもそうだ。明日谷内にやらせることにするよ」

 河原は機嫌を直して「おばちゃーん、ハイボール二つー」と声を張ってドリンクを注文した。

「俺はコークハイがよかったのに」

 独り言のように藤森はつぶやいた。



 時間は九時を回り、大学時代の思い出話に花を咲かせていたとき、フーフー館の入り口の戸が開き、一人の男が入ってきた。

「あれ、航平じゃん」

「おお、亮くん久しぶり」

 気まずそうに答えた河原に片山は右手を上げて答えた。よく見るとその後ろにもう一人いる。

「あー、イケメン社長だー」

 酒本が後ろで手を振るのを見た河原「おっす」と答える。「二人ともいらっしゃい」と言いながら、フーフー館のおばさんがハイボールが入ったグラスを二つ、河原たちのテーブルに置いた。「おばちゃん、生とコーラ一つずつお願い」と片山が注文している。

「地元の友人か」

 興味なさそうに藤森は言った。

「そうだ。紹介するよ。男の方が片山亮くん。トラックの運転手をしている。女の方が酒本弥生。JAE合金で事務員をしている。二人とも幼なじみなんだ」

「そうか。初めまして、藤森と言います。」

 藤森は礼儀正しく挨拶した。

「航平くん、この人は?」

「こいつは藤森達也。瀬戸内大学大学院の博士課程の学生だ。おれが瀬戸内大学時代に世話になった友人なんだ。今でも事業のことで相談に乗ってもらってる」

 紹介された藤森に片山と酒本が「よろしく」とか「はじめまして」と挨拶した。

「あれ、藤原竜也に似てる言われたことありせんか?」

 すかさず酒本が質問する。

「よく言われるけど、モノマネとかできないんで」

「そっくりだよねー」

「君さ、南総社高校で野球やってた?」

 酒本と藤森がやり取りをしている間、藤森の顔を凝視し沈黙していた片山が聞いた。

「やってたけど」

「やっぱりそうだよな。俺倉敷実業で野球やってたんだ。」

「ああ、見たことがある。倉敷実業のエースか!」

 目を見開いて驚く藤森に対して表情を崩さない片山。

「いやぁ、久しぶりだな!二年の秋の県大会で倉敷実業と当たった時は興奮したよ。プロ注目のエース対戦できるんだからな」

 普段クールな藤森が目を輝かせて高校時代を回想している。

「ドラフト、残念だったな。岡山県からプロ野球選手が出てくれると期待してたんだが」

 地元の仲間内でも気を遣って話題にしないことを藤森は口にした。片山は黙っている。河原も酒本も何もしゃべらない。

「この話題、まずかったか」

 鈍感な藤森が気づくほど場は凍っていた。すると、片山は大声で笑い出した。

「はっはっは、藤森はおもしろいなー。大丈夫だよ、気にしなくて。ドラフトはさ、仕方なかったんだよ。肘、壊してたし。」

 あえて明るく振る舞う片山に、酒本はほっとした様子で成り行きを見守っていたが、河原は緊張した面持ちでハイボールを飲むでもなくただ見つめている。

「ところでさ、おれが君を覚えてた理由、わかるか、藤森」

 笑顔のまま片山は問いかけた。

「分からない」

 少し考えるような仕草をしたのちに藤森は答えた。片山はなおも笑顔のまま続ける。

「その県大会で南総社と試合したときさ、ピッチャーライナーが来たんだ。避けようとしたら肘に当たったんだよ。今思えばあのときすぐにマウンドを降りればよかったんだけど、おれは何事もなかったように投げ続けた。高校野球って、簡単には妥協を許さない雰囲気があるだろ?なにがあっても気合いで最後まで投げ抜くことの美徳みたいな。実はそのとき上腕骨にヒビが入ってたんだ。そのピッチャーライナーを打ったのが、藤森達也ってヤツだった」

 気まずそうに名前を言った片山に、藤森は言葉を失う。

「結局その試合は負けたし、肘の状態も元には戻らなくて、大学進学する気にもなれなくて。だから高校出た後はトラックの運ちゃんだよ」

 片山の顔にもう笑顔はなかった。

「別にだれのせいでもない。気にしないでくれ。二人の話で盛り上がってたところ邪魔したな」

 そう言って片山と酒本は河原らからほど遠い入り口近くのカウンターに腰掛けた。



 河原は全部知っていた。

 高校三年の正月、河原は片山を初詣に誘った。

「亮くん、なんでプロ志望届出さなかったんだよ。肘を故障していたとはいえ、あれだけ注目されてたんだ。きっとドラフトにかかったと思うんだよ。どうして」

 お参りを終え、神社の坂を下りているときに河原はそれとなく尋ねた。

「俺は絶望したんだ。みんなが遊んでるときも俺は一人走り込んでた。必死で努力してきたのに、あんな時期に肘を故障して、甲子園にもいけなくて。努力したって報われない。もうがんばるのに疲れたんだよ。」

 さらに片山は付け加える。

「プロ野球選手になって地元のみんなに恩返しがしたかったな。おれと一緒に野球をやってくれたみんなに。それだけが心残りだよ」

 片山は自分に言い聞かせるようにそう答えた。「そうか」と言ったきり、河原はもうそれ以上追求することはしなかった。片山が肘をけがしたのは風の噂で聞いた。それが南総社戦でピッチャー返しを食らったからだということも。

 大学進学後、河原は準硬式野球部に入部した。そこで出会ったのが藤森達也である。南総社高校では五番キャッチャーという主力選手の一人だった藤森は大学でもすぐにレギュラーを取った。そんな藤森とすぐに仲良くなった河原も同時期にセンターのポジションを勝ち取った。

「藤森って南総社高校の出身なんだよな。南総社って普通科なのにあの倉敷実業に勝ったことあるんだよな。どういう作戦で臨んだんだ」

 単純な興味で尋ねた河原に、藤森はなんでもないように答える。

「ああ、あれね。別に特別なことはしていない。いいピッチャーだったから、キレッキレのスライダーと手元で伸びるストレートを捨てて、ストライクを取りにくるカーブを狙った。カーブはタイミングが早くならないようにセンター返しを徹底したよ。でも前半はほとんど打ち崩せなかったんだが、おれが打ったピッチャー返しが相手投手の肘に当たってね。そこぐらいからカーブが多くなって、こちらとしても運がよかった。狙い球がたくさん来るんだから打てる確率も高くなる」

 河原は耳を疑った。目の前で話す男は親友の夢を奪った男だ。

そこに怒りや憎しみはない。


 河原は藤森に感謝していた。


 小学4年から始めた少年野球の時から中学の軟式野球部を引退するまで河原は片山とずっと一緒に練習してきた。片山は野球に対する意識が高く、常にチームの中心だった。同様にチームを引っ張る立場だった河原だったが、野球の実力は片山には遠く及ばなかった。片山は少年野球のときからプロ野球を強く意識していたため、チームメイトのミスで大事な試合に負けてしまったときにはチームメイトに厳しく当たっていた。

「なんでお前みたいなヘタなやつが試合出てんだよ」

 これがミスしたチームメイトへの片山の口癖だった。野球をやっていないときには人当たりが良く、人を思いやれる人間性なだけに、野球をやっているときの片山の言動はだれにも理解されなかった。片山の実力に嫉妬していた河原も陰で片山の悪口を言っていた人間の一人だった。幼なじみでずっと仲の良かった河原と片山は、中学を卒業するときにはほとんど会話することがなくなっていたのだ。

 中学を卒業した二人は別々の高校に進学し、片山はプロ注目の一年生エースとしてあっという間に全国的な有名選手になり、河原は倉敷市の進学校で野球を続けたがあまりぱっとしなかった。河原の片山への嫉妬心はますます強くなって行った。

 そうした中、高校二年の秋に片山の故障を知った。ざまあ見ろ、と思った。チームメイトの気持ちも考えないで自分勝手に振る舞う片山に罰が当たったんだと思った。

 だがその後、片山の悪い噂が後を絶たなかった。野球部を辞めた、高校のトイレでタバコを吸っている、無免許でバイクに乗って警察に捕まったなど。おもしろがって片山の悪口を言っている同期の野球部の連中を見ていると、だんだん片山のことが気の毒になった。

 それらの噂がどこまで事実なのかは最後までわからなかった。それを高校卒業前に確かめるために、河原は片山を初詣に誘ったのだった。

「亮くん、なんでプロ志望届出さなかったんだよ。肘を故障していたとはいえ、あれだけ注目されてたんだ。きっとドラフトにかかったと思うんだよ。どうして」

 そう聞いた河原に対して片山が言った最後の言葉

「プロ野球選手になって地元のみんなに恩返しがしたかったな。おれと一緒に野球をやってくれたみんなに。それだけが心残りだよ」

 それを聞いた河原は、自分が間違っていたことに気づいた。そんな自分が無性に恥ずかしくなった。一方で今の片山となら昔のようにまた腹を割って話せる親友になれると確信した。それが嬉しかったから、それで十分だったから、河原は片山をそれ以上追求しなかった。




 片山の父親は片山が十一歳のときに脳梗塞で倒れた。それを機に片山の生活は一変する。父親はトラックの運転手を辞めて自宅療養を始めた。代わりに母親が工場で働くことになった。片山は学校に行く前に幼稚園に通う幼い弟と父親の朝ご飯を作ってから学校へ行き、学校から帰ったら晩ご飯を作り、服を洗濯するのが日課となった。尊敬していた父親は日々衰弱していく。今まではできていたことが徐々にできなくなる。思春期に入っていた片山は、それを目の当たりにすることがとてつもなく辛かった。その辛さやフラストレーションをどこにもぶつけられず、片山は家では一切しゃべらなくなった。

「こんな人生が続くなら、もう死んでしまいたい」

そう思うようになっていた片山を救ったのは、河原だった。河原はそんな片山をしつこく遊びに誘ってきた。河原の家はうどん屋をしていて、河原が片山を家につれてくると河原の両親はいつもうどんをごちそうしてくれた。幸せそうな河原の家族に優しくされ、嫌なことを全部忘れて河原と遊んでいる時間こそが片山の生きる理由だった。

 徐々に元気を取り戻した片山は、助けてくれた人に恩返しがしたいと考えるようになった。

「自分にできる恩返しはなんだろう」

自分にできることは野球しかない。そう悟った片山はそれから必死に練習した。友達から遊びの誘いも断り野球に没頭した。プロ野球選手になって恩返しする。

 河原に、その家族に、野球部員に、そして父親に。

 しかし、そうして努力すればするほど仲間は自分から離れて行った。だれも片山に話しかけなくなった。二十五歳の今思えば、当時の片山は周りが見えていなかったんだと思う。でも当時の片山はそれに気づけなかった。自分がプロ野球選手になることだけに執着していた。結局、その状況は改善されないまま片山たちは中学校を卒業した。

 高校入学後はすぐに甲子園出場を果たして、夢に近づいていることを実感した。高校野球の練習はさすがにきついが、みんなに恩返しするんだと思うと辛くてもがんばれた。

 そうして着実に実績を重ねていた二年の秋、事件が起きた。七回表に迎えた背番号二番の左打者。その打者が打った打球は片山の右肘めがけてまっすぐ飛んできた。このピッチャーライナーによる痛みはあったが、片山は続投した。ここでマウンドを降りたら二度と試合に出してもらえない気がしたからだ。

 九回まで投げきった片山は試合終了後すぐに病院に行った。上腕骨の肘に近い部分にヒビが入っており関節にも損傷がある。全治四ヶ月。ただし完全に元のように投げられるようにはならない。急がずじっくり治して、かつ、野球のポジションも変わった方がいいとを医者から勧められた。

 しかし片山はこの診断結果を正しく監督に伝えず、一ヶ月で完治すると伝えた。三年の夏に甲子園に出て、全国制覇して、プロに行く。その目標を叶えるためにはピッチャーとしてでないと厳しい。自分のバッティングがプロ野球で通用するとは思えなかった。

 それからの片山は散々なものだった。肘のけがから三ヶ月後、肘をかばうあまり肩に負担がかかってしまい野球肩を併発した。そこで初めて治療に専念する決断をするのだった。しかし、時、既に遅し。もう夏の大会には間に合わないことは確実だった。それでも片山はあきらめず、辛抱強く治療とリハビリに専念した。しかし結局片山のいない倉敷実業は四回戦で敗退。

 自分の不甲斐なさに絶望した片山は高校野球引退後ふさぎ込んでしまった。そんな片山を心配した片山の母親は、就職のために片山の父親が務めていた運送会社に掛け合って就職の話をつけてくれた。

 生気を失っていた片山に、河原から初詣の誘いが来たのはその年の十二月下旬のことだった。正直、合わせる顔がなかった片山だったが、でも、河原なら会って話してみたいと思い、一月一日、片山は河原と西園神社に初詣に行った。お参りに行く途中は他愛ない会話が続いた。お参りが終わったら河原の家でうどんを食べようとか、おみくじは引くか引かないかとか。

 お参りを終えた帰り道に河原が平生を装って聞いてきた。

「亮くん、なんでプロ志望届出さなかったんだよ。肘を故障していたとはいえ、あれだけ注目されてたんだ。きっとドラフトにかかったと思うんだよ。どうして」と。

「俺は絶望したんだ。みんなが遊んでるときも俺は一人走り込んでた。必死で努力してきたのに、あんな時期に肘を故障して、甲子園にもいけなくて。努力したって報われない。もうがんばるのに疲れたんだよ。」

 片山は強がって答えた。そして、ついでに言うように、片山は一番伝えたかったことを付け加えた。

「プロ野球選手になって地元のみんなに恩返しがしたかったな。おれと一緒に野球をやってくれたみんなに。それだけが心残りだよ」




「片山が肘を故障したのは、あの俺の打球が原因だったのか。続投していたから気付かなかった」

 なんと言っていいかわからない状況で藤森は言葉を絞り出した。奥の座敷で飲んでいた藤森と河原は気まずい空気が漂っていたため、お互いが気を遣い飲み会はお開きとなった。

「それじゃあ放射線量の結果が出たらまた連絡するよ」

 フーフー館の外でタクシーを待っている間に河原は言った。藤森は「よろしく頼む」と言って十二月の寒さに肩をすくめた。フーフー館の入り口のドア越しに片山と酒本が楽しそうに会話をしているのが見えて、河原はほっとする。「俺たちも大人になったな」とつぶやいた河原を藤森が笑い飛ばす。河原の地元で過ごす久しぶりの休日が終わった。


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