台湾沖航空戦から比島沖海戦
昭和十九年十月十七日、米軍がフィリピンへ上陸した日、重巡『鞍馬』は沖縄本島中城湾にいた。広い湾内にいるのは、志摩清英中将が座乗する第二十一戦隊旗艦の『那智』や僚艦の『足柄』、軽巡『阿武隈』以下木村昌福少将指揮下の第一水雷戦隊の所属艦のみ。つまり、第五艦隊しかいない貸し切り状態だ。
なぜ彼らはここ沖縄に投錨しているのか。戦史に詳しい人ならば「捷一号作戦に参加してフィリピンへむかうためだ」と答えるだろうが、実はそれは正しくない。何故なら、本来の作戦計画では、志摩艦隊は小沢提督の指揮下で機動艦隊の一員として行動することになっていた。つまり、この段階では彼らは機動艦隊と共にいるはずなのだ。だが、湾内には空母の姿は一隻も見られない。真珠湾からの生え抜き『翔鶴』『瑞鶴』も、マリアナ沖海戦を生き延びた『千歳』『龍鳳』『隼鷹』『大鳳』も、新たに戦列に加わった新鋭空母も中城湾ではなく瀬戸内海にいるのだ。その理由は、この一週間前にさかのぼる。台湾沖航空戦である。
十月十日以降、ハルゼー提督率いる米高速空母群はフィリピン攻略に先立ち、日本の航空戦力を撃滅すべく台湾沖にその姿を表した。マリアナ沖の損害を回復し、大小十三隻の空母を揃えた米機動艦隊は日本の基地航空隊が集結していた沖縄と台湾を断続的に空襲したのだ。当然、日本側はこれに反撃を加えることになる。こうして台湾沖航空戦が発生した。
反撃に参加したのは主に第一航空艦隊と第二航空艦隊であり、装備機種は一式陸攻や天山艦攻などに加え、銀河陸爆や陸軍機である飛龍、高速偵察機彩雲などの新鋭機が揃っていた。偵察の神様と呼ばれた搭乗員の駆る一機の彩雲の偵察により空襲を事前に察知した日本軍基地航空隊は、事前の演習通り夜間・薄暮攻撃に全てを賭けることとなった。前回のマリアナ沖海戦でも明らかになった通り、開戦当時の機体の優位も熟練した搭乗員も失ったいま、もはや米軍にまともな打撃を与えようと思えば戦闘機の活動が不活発な状況下であることが不可欠なのだ。
十二日より開始された日本側の反撃は、折からの悪天候を突いて行われた。主力となったT攻撃部隊は、その名の由来となった台風(Typhoon)と共に出撃し、この日だけで空母五隻を含む多大な戦果を報じた。これに気を良くした日本側は、翌日以降も攻撃隊を送り込み続け、十五日夜半までに航空機二〇〇機あまりの損害と引き換えに空母十五隻と戦艦二隻他の撃沈を報じた。さらに、戦果拡大のため小沢機動艦隊から艦上機と志摩艦隊を急遽分離し沖縄へ派遣、敗走しているはずの機動艦隊追撃を命じた。
さて、この開戦以来、いや空前絶後の大勝利が大本営発表によって伝わると、日本の朝野は沸き立ち、前線部隊は天皇陛下からはお褒めの勅語を賜ることになった。また、この影響は海外にも及び、大敗北の報によりニューヨークの株価が暴落したり、スイスなどの気の早い国々から祝電が送られたりもした。それもこれも、ハルゼー艦隊の空母十三隻のうち十五隻を撃沈したのだから当然といえよう。なにせ“十三隻のうち十五隻”である。あり得ない戦果だ。
そう、あり得ないのだ。どうやって十三隻しかない空母を十五隻も沈められるのか。原因は、未熟な搭乗員が夜間悪天候という悪条件のなか海面に落ちた機体の火災を戦果と認識し、それを十分に吟味せずそのまま戦果としたからだ、というのが定説となっている。また、一隻の戦果を複数の搭乗員が別々にカウントし戦果が数倍に膨れ上がるという事態も多発した。
しかし、当時任務部隊の一つを率いていたとある提督が戦後語ったところによると、墜落した機体の火災がそこらじゅうに点々とし、まるで任務部隊が自らの乗艦を除いて全滅したかのように錯覚したという。とはいえ、夜があけてみると損害は巡洋艦改装空母と巡洋艦があわせて四隻という極めて軽微なものであった。一部隊を率いる提督である以上、当然自艦隊の損害が軽微であることは知っていたはずである。その人をしてこう言わしめるのだから、戦果誤認を搭乗員のせいばかりにするのは酷というものだろう。いずれにしろ、夜間攻撃の連続により多少の睡眠不足はあるにしても、米機動艦隊はその戦力を保っていた。
日本側がそのことを知ったのは、十六日の朝のことだった。夜明け前に発進した彩雲がやたらと濃密な迎撃機の網をくぐり抜けて目撃したのは、先日はじめて発見されたときとほとんど変わらない敵機動艦隊の姿だった。この時発せられた「敵機動部隊いまだ健在なり」の電文により、艦上機隊はあわてて出撃を取り止め、志摩艦隊も沖縄に逃げ込むことができた。二〇〇機の艦上機と十隻あまりの小艦隊は命拾いしたのだ。だが、最初に米機動艦隊発見を報じ、今また機動艦隊健在の報を発したその彩雲が帰還することはなかった。
明けて十七日、いよいよフィリピンはレイテ島へ米軍が上陸を開始。間髪入れず日本軍は捷一号作戦を発動。聯合艦隊は総力をあげてレイテ頭橋堡を攻撃すべく出撃した。この作戦には残存する全ての戦艦と大型空母・重巡洋艦が動員され、まさしく聯合艦隊の死力を振り絞ったものとなった。
さて、捷一号作戦の発動が決まったからには全艦隊がレイテを指して行動すべきなのではあるが、どの部隊からも外れて中途半端な遊び駒となっている部隊が存在した。志摩艦隊と左近允戦隊である。聯合艦隊はこの二つの部隊をまとめて第二遊撃部隊(2YB)として志摩清英中将に率いさせ、戦艦三隻からなるも巡洋艦を欠く西村艦隊とともにスリガオ海峡経由でレイテへ突入させることを決定した。
この命令を受けた志摩艦隊は、重巡三隻、軽巡一隻、駆逐艦七隻の兵力で台湾海峡に浮かぶ膨湖諸島は馬公へ回航。十九日に到着し、油槽船『良栄丸』と合流し順次給油を受けた。先の追撃により燃料欠乏状態にあった各艦は重油を満載し出港。輸送任務への協力のため駆逐艦『初霜』『初春』『若葉』を分離し、一路マニラへむかった。
この油槽船は、第一遊撃部隊(1YB)司令長官の栗田提督の独断により確保されたものの一隻である。このことは、後世に言われる「栗田提督は自らの保身のため反転した」という風聞を打ち消す証拠であろう。もし彼がレイテ突入を恐れていたならば、何もしなければ自動的に燃料不足により遊撃部隊のレイテ突入は不可能となっていたのだから。
ルソン島マニラへむかう途中の二十二日、志摩艦隊は正式に南西方面艦隊に転属。三川軍一司令長官の指揮下に入る。同日、三川長官よりマニラ寄港の中止命令と、左近允戦隊がマニラにはいないことを知らされる。これを受けて志摩提督は艦隊に増速を命じ、あわせて左近允少将にはコロン泊地で本隊と合流するよう命じた。コロン泊地は、レイテまでの行程上にあるパラワン島とミンドロ島の間にある島にある泊地である。
二十三日夕方、コロンを目前に志摩艦隊は対潜警戒を厳重にした。この日の夜明け前、近くのパラワン水道で栗田艦隊の重巡『愛宕』『高雄』『鳥海』が連続被雷。うち『愛宕』『鳥海』が轟沈し、『高雄』が大破脱落したからだ。特に、戦隊旗艦の『愛宕』は一週間前まで栗田提督が座乗していた艦であり、リンガ泊地で旗艦を戦艦『武蔵』に変えていなければ戦場にたどり着く前に司令部が全滅していたかもしれない。
同日夜半、対潜警戒中だった重巡『鞍馬』の電探が浮上中の潜水艦らしき艦影を探知。直ちに二二号電探を用いて主砲と高角砲による電探射撃を実施し、これを撃沈。この戦闘が『鞍馬』の初陣となった。後に判明したことだが、この時撃沈した潜水艦『デース』は先に『高雄』を撃破、『愛宕』を撃沈した艦であり、図らずも同じ京都の山岳名を冠された艦の仇を討った結果となった。
日付が変わって二十四日。左近允戦隊に志摩艦隊が追い付き、無事合流に成功する。これで、志摩艦隊は重巡『最上』軽巡『鬼怒』他一隻を戦列に加え、総勢十一隻となった。コロン泊地にて巡洋艦から駆逐艦に燃料を補給し、志摩艦隊は西村艦隊を追ってスル海に入った。
ところで、各艦隊はいつレイテ沖へ突入する予定だったのだろうか。事前の協議では二十五日黎明、つまり午前六時ごろであった。その突入時刻のちょうど一日前の時点で、西村艦隊は空襲を一度しか受けずに予定通りスル海を抜けてミンダナオ海に差し掛かったところであり、それを追う志摩艦隊はスル海の中程に差し掛かったところであった。だが、栗田艦隊は度重なる空襲により予定から遅れつつあった。これが後の悲劇を招くことになる。
繰り返し空襲を受けた栗田艦隊は、傷ついた艦隊の再編と戦闘不能となった艦の後送のため一時反転した。この一時反転は、ハルゼー提督の判断を誤らせ小沢艦隊の攻撃に全力を傾けさせることに成功した。だが、聯合艦隊にも「栗田艦隊は撤退するつもりなのではないか?」という疑念を呼び起こし、聯合艦隊司令長官は第一遊撃部隊に宛てて「天佑を確信し全軍突撃せよ」と打電した。ここで問題となるのは、いわゆる西村艦隊は、編成上は第一遊撃部隊第三部隊であることである。この電文を受けて、西村艦隊は「本隊は二十五日〇四〇〇(午前四時)を期してドラグ(レイテ沖)突入の予定なり」と打電した。つまり、事前の予定から二時間繰り上げるということであり、栗田艦隊はこの時点で二時間の遅れを生じていた。これは、事前のレイテ同時突入という予定が完全に狂ったということであり、志摩艦隊と合同することも不可能となったということだ。一説によると、西村提督は志摩艦隊が後ろから追いかけていることを知らなかったのではないかとも言われる。だが、今となっては真実を知る術はない。
ここで、スリガオ海峡から突入する艦隊の編成を確認しておく。
◇第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)
戦艦『扶桑』『山城』『陸奥』
駆逐『朝雲』『満潮』『山雲』『時雨』
◇第二遊撃部隊(志摩艦隊)
重巡『那智』『足柄』『鞍馬』『最上』
軽巡『阿武隈』『鬼怒』
駆逐『潮』『霞』『曙』『不知火』『浦波』
つくづくこの二部隊が合同することが無かったことが悔やまれる。もし合同が実現していれば、戦艦三隻、重巡四隻、軽巡二隻、駆逐艦九隻という一大部隊となっただろうからだ。だが、実際は別々の部隊としてスリガオ海峡へ突入することとなった。
西村艦隊に属する戦艦は、先のビアク沖海戦で損傷が浅かった『山城』『扶桑』と、長門型二番艦の『陸奥』である。この三隻が栗田艦隊ではなく西村艦隊に回されたのは、幾つか説があるが代表的なものとしては速力の不足が言われている。最も旧式の戦艦(金剛型は元々巡洋戦艦)である『山城』『扶桑』は元々低速であり、一方で『陸奥』は機関に不調を抱えており、姉妹艦の『長門』が大和型に匹敵する二十七ノット弱を出したのに対して二十三ノットがやっとだったと言われている。つまり、それなりに高速な艦が揃った栗田艦隊には足手まといであったのだ。また、小沢機動艦隊とおなじく、敵の目を分散させるための一種の囮としての効果を期待していたのではないかという説もある。
また、志摩艦隊の寄せ集めっぷりも目を引くところだ。とはいえ、艦種と隻数だけ見て艦級と所属がバラバラなことに目をつぶるなら、一般的にはかなり強力な部隊だと言えるだろう。なにせ、日本海軍が戦前に構想していた一個夜戦群の編成である一個重巡戦隊(重巡四隻)と一個水雷戦隊そのままの編成であるからだ。
この両艦隊は、スリガオ海峡突入直前の時点までほとんど空襲を受けていない。唯一、西村艦隊がスル海において三十機あまりの爆撃をうけ、駆逐艦『時雨』の艦首に一発が命中するも不発であったのみで、この時点での損害はほぼ皆無であった。
こうして二十五日未明、両艦隊は上記の戦力をもって別々にスリガオ海峡へと突入することが確定した。
スリガオ海峡出口で待ち受けるのは、オルデンドルフ提督率いる上陸支援部隊。兵力は戦艦六隻、巡洋艦八隻、駆逐艦二十六隻、水雷艇多数。
果たして彼らはレイテへたどり着けるのか。
続く