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遅れてきた重巡洋艦『鞍馬』  作者: 八幡雲鷹


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改鈴谷型重巡洋艦『鞍馬』 竣工まで

 この小説は史実をモチーフとしておりますが、登場する人物、団体、組織などはすべてフィクションです。

 また、史実の人物、団体、組織などを侮辱する意図は一切ありません。

 重巡洋艦『鞍馬』は、戦前の昭和十六年度戦時建造計画(以下マル急計画)にて二隻が計画された改鈴谷型重巡洋艦のうちの一隻である。その人生ならぬ“艦”生は、竣工する前から受難に満ちたものだった。


 マル急計画は、元々戦時消耗の補充を目的とした建造計画であった。だが、重巡『鞍馬』の起工に漕ぎ着ける前に水上艦艇の価値を暴落させる事件が他ならぬ日本海軍の手によって引き起こされてしまう。

 一九四一年末の開戦と同時に行われた真珠湾攻撃とマレー沖海戦によって、航空母艦を集中した機動艦隊の威力と戦艦すら航行中に航空機によって沈められてしまうという事実が示されてしまった。この期に及んで重巡の追加建造が必要なのか、という意見は当然出た。だが、かねてからアメリカ海軍が進めていたクリーブランド級大型軽巡やボルチモア級重巡の増勢に対抗するためにも計画は続行されることになった。

 そして、予定通り四二年四月二十四日、呉海軍工廠第三船台にて第三〇〇号艦として起工した『鞍馬』だったが、またしても受難の時が訪れる。昭和十七年六月に生起したミッドウェー海戦である。


 太平洋の要衛ミッドウェー島を巡って行われたこの海戦で、開戦以来無敵を誇り太平洋とインド洋を暴れ回った南雲機動艦隊は初めての敗北を喫したのだ。敗北の原因は、先月の珊瑚海海戦の影響により空母『翔鶴』『瑞鶴』を欠いて空母四隻であったことなど諸説あるが、やはり最大の責を負うべきは山本聯合艦隊司令長官であろう。なぜなら、彼は南雲提督にミッドウェー島飛行場の攻撃と敵機動艦隊の撃滅という二兎を追わせ、自らは後方の遥か後方の戦艦に座乗していたからだ。何しろ、後の時代の研究では前日には機動艦隊出現の兆候を掴みながらそれを南雲提督に伝えなかった節すらあったというのだ。口の悪い者などが『博打好きの臆病者』などと評するのも無理からぬことだろう。それに引き換え南雲提督は不利な条件下よく戦ったというのが現代での一般的な評価であり、『不屈の猛将』という評価がそれを物語っている。話がずれたが、海戦の経過を以下に簡単に述べておくことにする。

 六月五日朝、南雲機動艦隊各艦は予定通りミッドウェー島飛行場へ第一次攻撃隊を発進させた。その後、機動艦隊の出現を知らない南雲提督は「第二次攻撃隊半数雷装待機」を命じ、『赤城』『加賀』『蒼龍』の三空母はそれに従った。そこへ、第一次攻撃隊より『第二次攻撃の要あり』を意味するカワ連送が発せられると、南雲提督は待機中の第二次攻撃隊の残り半数に地上攻撃用爆弾を取り付けるよう命じた。繰り返すが、南雲提督は敵機動艦隊の出現を知らず、出現の兆候を掴んだ際は伝達してくれるよう山本長官に伝えていたので、敵は飛行場のみだと信じ込んでいた。そして、敵機動艦隊が不在であると信じ込んでいたところに飛び込んできた『筑摩』五号機からの電文「敵機動部隊見ゆ」に第一機動艦隊司令部の面々は愕然とする。

 突然の敵機動艦隊出現の報に驚きつつも、南雲提督は先の命令を撤回し全機対艦兵装への転換を命じた。この後の展開はあまりに有名だろう。直掩機の僅かな隙を突き、マクラスキー少佐率いる『ホーネット』艦爆隊が『飛龍』目指して急降下爆撃を仕掛けたのだ。当時、故意か伝達ミスかは今となっては知る術はないが、南雲提督の命令と異なり『飛龍』の攻撃隊は全艦攻が雷装から爆装また雷装への転換作業中であり、数少ない生き残りの証言によれば格納庫には爆弾や魚雷がゴロゴロしていたという。ドーントレス艦爆三十機あまりから放たれた1000lbGP爆弾を艦全体にまんべんなく被弾した空母『飛龍』は、次々と誘爆を起こしながら全乗員の八割と共に轟沈した。生存者僅かに百数十名という惨事に比べれば、同時に『ヨークタウン』艦爆隊の攻撃を受けた『赤城』『加賀』が軽微な損傷を負ったことなど些細な出来事だろう。

 その後、損傷で速力の低下していた空母『加賀』が被雷し後に沈没、空母『エンタープライズ』が最後に放った攻撃隊により『蒼龍』が損傷した時点でアメリカ側は『ヨークタウン』を失い『ホーネット』『エンタープライズ』が戦闘不能になっていた。米空母をすべて撃沈したと認識していた南雲提督は、足手まといの『蒼龍』と『加賀』に駆逐艦をつけて退避させると自身は高角砲と二十センチ砲が何門か破壊されたのみの『赤城』と戦艦『比叡』『霧島』他を率いてミッドウェー島に肉薄。近藤提督率いる別動隊から派遣されてきた栗田提督の戦隊とともに三十六センチと二十センチの砲弾をもってミッドウェー島を月面のような有り様に変え、撤退時の混乱で栗田戦隊の重巡『最上』と『三隈』が衝突中破したものの、見事に敵機動艦隊撃滅と飛行場破壊の二兎を得たのである。

 しかし、空母『加賀』『飛龍』の喪失と『蒼龍』戦闘不能、及び山口多聞少将の戦死にショックを受けた山本長官は作戦の中止を決定、全艦隊を引き上げさせた。こうして山本長官の大博打はものの見事に失敗し、この時に聯合艦隊の全力を動因し、大量の燃料を浪費したことが後々まで影響を残すことになる。ミッドウェー海戦こそが太平洋戦争の転換点だ、と後世よく言われるのはこの為だ。


 この海戦は当然日本海軍の建造計画にも影響を与え、不要不急と見なされた幾つかの艦が建造を取り止められたり航空母艦化改装計画が持ち上がったりした。この時点で建造中止となった艦の例をあげるなら、『鞍馬』の妹となる筈であった第三〇一号艦であろう。三菱長崎造船所で起工された直後だった三〇一号艦は、命名されることもなく解体された。もちろん呉の第三〇〇号艦、後の『鞍馬』も無関係ではなく、空母への改装や航空巡洋艦化が何度も取り沙汰されていた。だが、結局『鞍馬』は予定通り巡洋艦として完成した。なぜ、大型空母の半数を失う大敗を喫したにも関わらず重巡として完成させたのか。それには日本海軍のお寒い台所事情が関係していた。

 端的にいえば、空母を増やしても載せるものがないのだ。話はミッドウェー海戦の前に戻るが、昭和十七年一月の定数改正で開戦前からある空母の搭載定数が大幅に削減された。何故か。それは、開戦を見越して準備されていた祥鳳型や『隼鷹』などの改装空母群が次々竣工し、そちらへ艦載機を回す必要があったためであったが、これと四月の人事異動と合わせてミッドウェー海戦時の空母は機数も少なく、練度も(それ以前と比べれば)格段に低いという有り様だった。空母という器だけ増やしても、その器に注がれるべき艦載機と搭乗員の手当てが追い付いていなかったのだ。また、高速発揮のために細長い巡洋艦の船体に二段の格納庫を載せればトップヘビーは免れ得ず、かといって一段では搭載機があまりに不足するためあまり意味が無いと判断されたことも空母化改装が断念された理由のひとつだろう。


 そして第三〇〇号艦が船台の上で組み上げられている間に、日本海軍はソロモン方面へ駒を進め、ガダルカナルの泥沼に足をとられてみるみるうちにその戦力を消耗させていった。昭和十七年に始まったガダルカナル島を巡る戦いは、昭和十八年二月に日本軍がガダルカナルを放棄するまでの間にミッドウェー海戦で活躍した戦艦『比叡』『霧島』空母『蒼龍』を含む多数の艦艇と船舶を失うという結果に終わった。

また、進水の前月の四月には山本長官が無謀な前線視察に出て暗殺され、軍の士気は低下してしまった。

 昭和十八年五月、第三〇〇号艦が晴れて進水し重巡洋艦『鞍馬』と命名された。進水式では通常、艦名の入った記念酒盃が配られるが、機密保持のために艦名の代わりに鞍馬山にちなんで天狗と紅葉の意匠をあしらったものが配られたという。だが、『鞍馬』の艤装が進んでいく間にも戦局は敗色を濃くしていった。


 昭和十八年十一月末、日本軍がソロモン諸島から叩き出されると、隆盛を誇ったラバウル他の基地航空隊も壊滅的打撃をうけ、母艦航空隊もろとも戦力回復に努めることとなった。そしていよいよ『鞍馬』が竣工する昭和十九年六月、米軍はカートホイール作戦を発動。マリアナ沖とビアク沖で両軍の艦隊が激突した。戦闘の詳細はあまりに煩雑なので省略するが、その概要をざっと述べると以下の通りであった。

 マリアナ沖で激突したのは両軍の機動艦隊であり、両軍合わせて大小二十五隻の空母が参戦する世界最大の空母決戦となった。六月十六日、マリアナ諸島に取りついた米軍から離れられないスプルーアンス提督の機動艦隊を指揮官が南雲提督から小沢提督に変わった日本機動艦隊が横合いから殴り付ける形で始まった。この海戦で日本は空母『赤城』『飛鷹』『千代田』『瑞鳳』を失い、米軍は『ヨークタウンⅡ』『ベロー・ウッド』『バターン』『ラングレーⅡ』を失った。この海戦で日本軍前衛部隊の戦艦『大和』『武蔵』『金剛』『榛名』が突出しサイパン橋頭堡を砲撃する構えを見せたため一時米軍に混乱が広がり、米軍が思わぬ損害を被った形となった。しかし、全体的に見れば痛み分けないしはマリアナ喪失により日本軍の敗北という結果に終わった。

 また、六月三日に行われたビアク沖海戦では、五月二十七日ビアク島に上陸した米軍に呼応し戦艦『伊勢』『日向』『扶桑』『山城』からなる低速艦隊が出撃。日本側より更に低速な米旧式戦艦隊を拘束している間に航空巡洋艦に改装された『最上』『三隈』からなる輸送隊がビアク島へ突入し逆上陸を仕掛け、最終的に『三隈』を失ったものの米上陸軍を撤退に追いこむことに成功した。結局、米軍はビアク島を無力化するにとどめ、太平洋戦争上数少ない日本軍が防衛に成功した島となった。


 さて、未だにマリアナ諸島で凄惨な地上戦が続く六月二十四日、重巡洋艦『鞍馬』は竣工した。沈没した巡洋艦の人材を投入することによって急速に戦力化を進めていた同艦だが、戦力補填のために建造されたにも関わらず、日本重巡で沈んだのがソロモン戦で全滅した小型の古鷹型四隻を除けばビアク沖で沈んだ『三隈』が最初であり、むしろ空母の方が消耗してしまっているというのは、当初の計画から考えればなんと皮肉なことだろうか。戦争末期に至るまで日本重巡は消耗しなかったのだ。とはいえ今更空母が竣工しても載せる飛行機は無く、現に大和型戦艦から改装の空母『信濃』や戦時急増空母『雲龍』が間もなく竣工するが、載せる航空隊のあては無い。

 満を持して竣工した改鈴谷型重巡洋艦『鞍馬』であるが、その艦様はタイプシップである鈴谷型とあまり変わらず、当然鈴谷型のタイプシップである最上型ともあまり変わらない。時折、最上型五番艦や鈴谷型三番艦と表されるのはそのためである。以下に両型との差異を述べる。

 とはいえ、全体的な外見は一部を除いて鈴谷型と大差無い。主砲の門数や位置は同一であるし、魚雷発射管の開口部も同一の位置にある。強いて言えば工期削減のため直線を多用し、全体的に無骨な印象を受けるのと、至るところに単装機銃を増設しているため毛深い感じがするというところだろうか。唯一、外見的に違いがわかるのは煙突から後部主砲塔にかけての部分だろう。最上・鈴谷型では煙突と高角砲四基の直後に後部マストとクレーンがきてその後ろにカタパルト二基と航空甲板があるが、『鞍馬』では煙突の後ろにカタパルト一基と更に高角砲二基があり主砲塔の直前に後部マストとクレーンがくるという構造になっている。これは、戦訓から通信能力と対空火力を重視したためで、第二次改装後の『愛宕』『高雄』と同じマスト配置である。高角砲二基の増設と引き換えに水偵は三機から一機に減ったが、どうせ水偵がのんびり飛んでいられる状況ではないのでよしとされた。また、外見からはわからないが、魚雷発射管を五連装四基片側十射線と大幅に増強している。また、船体構造などは利根型に倣った改良が施され、装甲厚は変わらないもののバルジの形状見直しによって防御性能は強化されている。


 こうして、ちょっとタフで、ちょっと攻撃力の高い鈴谷型として誕生した重巡洋艦『鞍馬』は、とりあえず主戦線から遠く、比較的安全であると考えられていた北東方面艦隊の第五艦隊第二十一戦隊に編入され、志摩清英中将の指揮下で練度向上に努めることとなり、しばらくの間北方で燃料の許す限りの訓練を行うこととなった。

 時に、米軍の上陸船団がフィリピン沖に姿を現し、志摩提督の率いる第五艦隊の一員として南方は赴くまであと四ヶ月のことであった。



挿絵(By みてみん)


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