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再帰関数

作者: NS3
掲載日:2026/07/30

 薄暗い部屋で、三枚のディスプレイだけが煌々と光を放っていた。


 右側の一枚は縦に置かれ、黒髪の先をピンクに染めた女性がベッドにうつ伏せになっている。後背位の男の主観映像らしく、女性が上下に身体を揺すると、女性の中に入っていたであろう陰茎の先の部分が、女性の背後から見え隠れする。縦置きのディスプレイはその単調な動作を、延々と繰り返していた。


 音声はない。マウスをクリックするプラスチックの擦れる音と、二台あるPCのGPUのファンが、支配的なBGMとしてその部屋にあった。


 自慰は先程済ませたばかりである。

 にもかかわらず、遠野晴市はGPUを間断なく働かせるためのスクリプトを書き続けていた。いや、実際にはスクリプトを書かせていた。AIに。官能的な画像、あるいは動画をAIに作らせるために、そのプログラムをこれまたAIに書かせており、たまに聞こえるキーボードのタイプ音は、プログラム生成指示プロンプトの入力であった。


 ディスプレイの光を反射する遠野の眼には、探究心も使命感も宿っておらず、下卑た欲情すら伴っていなかった。反射によって彫られた鼻唇溝の陰影の深みが、五十路を感じさせた。正面のモニターでは四分割されたターミナルのそのどれもが、遠くアメリカのサーバーで思考を進めている最中であった。


 この部屋にある二台のPCでは、それぞれローカルの画像生成AIが走っている。それらを効率的に動かすためのプログラムは、大手のクラウドAIに書かせていた。以前は画像生成そのものにもクラウドAIを用いていたが、彼らが要求するモデレーションに気疲れして、ローカル環境を構築した。


 左側のワイドモニターは、髪色や髪型の異なる女性達を、そして時に陰部を解剖学的に正しく描き出しながら、吐き出し続けていた。

 こうして遠野を慰める目的で作られたデジタルの女性は四十万人を数え、いまも産み出され続けている。似た顔はあってもそのどれもが同一人物とは言えなかった。人間が人の顔を見て幾らかの特徴によって同一性を見つけるとしても、AIはその場その場で毎回、砂漠のような粒子から画を浮き上がらせているに過ぎない。ピクセルの連なりを見つけ出すそれは、さながらひと粒ずつ砂を積み上げ、楼閣を築くような行為だった。


 人格を持たない彼女たちは、その肉体すらも全世界においてユニークな存在で、そしてその誰もが遠野を慰めるために生まれ——そしてその誰もが、遠野を満足させることはできなかった。


 右の縦置きが、別の動画にスイッチした。遠野はそれにちらりと目をやって、徐にマウスから手を離し、自身の陰茎を愛撫する。

 先程からそれほど時間は経っておらず、手の中でふにゃりと首を四方に逃げるそれは、刺すような痛覚すらあったが、遠野はそれをやめなかった。


 ある一つのことが脳を支配的に埋めた時に、反射的にそれを振り払うように自慰を開始するという、さながらイベント駆動型のプログラムのようなもので。


 顔が、浮かんでくるのだ。

 若く美しい、年下の妻——クミの顔が。


 それは強い渇きと、喉の奥が膨れ上がったような窒息感を伴って押し寄せる。クミの前で男として機能しなくなったあの日以来、遠野にこびりついて離れない底知れない無力感。その顔に、別の顔を上書きするべくモニターを見る。そこに映る膣口に引っ掛かりながら出入りする亀頭冠を、ぼんやりと見る。肩越しに振り返った女の顔が、一瞬クミの顔に変わったように見えた。遠野は右手に少し硬さを感じた。


 結局のところそれを追い払ったものは、疼痛であった。最中に粘性のものが染み出していて、それが付着した右手の皮膚が突っ張っていた。ウェットティッシュを抜き取る擦れた音があってから、ゲーミングチェアのキャスターが床を舐める音があった。


 短いタイピングに応えて三枚のディスプレイが同時に光を失うと、遠野は衣服を整えて洗面台に向かった。


 階下のリビングでは、クミがソファにもたれかかって船を漕いでいた。

 それを横目に洗面台にいって手を洗う。今し方見た、短い部屋着から伸びる妻の太もも。その目眩がするほど若い肌が脳裏に再生され、遠野は慌てて冷水で顔を洗った。


 遠くで、蝉が鳴いていた。


 **


 洗面台から戻った遠野は、階段を上がっていくクミの足音が途絶えるのを待って、再びPCの電源を入れた。ファンが低い唸り声を上げ、ディスプレイの青白い光が部屋に満ちた。

 彼はターミナルを立ち上げるのではなく、暗号化されたローカルフォルダから、ひとつのアプリケーションをダブルクリックした。


 画面に映し出されたのは、二台の隠しカメラからのリアルタイム映像だった。

 設置場所は、クミの部屋。ひとつはクローゼットの隙間からベッド全体を捉える広角WEBカメラ。もうひとつは、エアコンの吸気口の奥に仕込んだピンホールカメラだ。


 画角の中に、すやすやと寝息を立てるクミが収まっていた。


 画面の中の彼女は、薄手のアラベスク柄のキャミソール一枚で、掛け布団を足元まで蹴飛ばしている。露出した太ももの滑らかな曲線、呼吸に合わせて小さく上下する胸元。レンズ特有のわずかな歪みが、彼女の肉体を「画面の向こう側の出来事」として遠野の視界に固定していた。


 遠野は、画面の中のクミを愛撫するように、液晶の表面に乾いた指先を滑らせた。


 ——ここなら、敗北しない。


 現実のベッドで、彼女の柔らかな肌に触れようとするたび、遠野の身体は凍りついた。若く美しい年下の妻。その視線に潜むわずかな落胆や、憐れむようなため息を察知するだけで、彼の海綿体からは血の気が引いていく。


 だが、この解像度1080pのフレームの中だけは違った。


 彼女は遠野がカメラを仕込んでいることなど露ほども知らず、無防備さを晒している。彼女の私生活、その呼吸の周期すらも、遠野のローカルストレージにログとして蓄積されていく。


 スクリプトで書き換えるAIモデルと同じだ。画面の中に閉じ込められたクミは、遠野が自由に観察し、一時停止し、拡大し、一方的に性的に消費するためだけの「安全なオブジェクト」として定義された。


 液晶の青白い光の中に、クミの無防備な肉体が浮かび上がる。


 はだけたキャミソールから、張りのある胸元が覗いている。エアコンの風に細い肩紐が揺れ、鎖骨のくぼみが呼吸に合わせて微かに上下する。乱れた掛け布団の隙間から、太ももが光を返していた。その奥の暗闇に、薄桃色の下着の輪郭があった。


 すやすやと落ちる小さな寝息。少し開いた濡れた唇から、今にも彼女特有の甘い体温が匂い立ってきそうだった。


 それは、彼の死滅しかけた回路に虚妄の全能感を吹き込む、唯一の命令語(プロンプト)だった。


 手の中で死んでいたはずの肉が、熱を帯びてにわかに脈打ち始める。

 画面の向こうの妻は、遠野の反応を値踏みすることもなく、哀れむこともない。ただ一方的に観測され、消費されるだけの美しいピクセルの群れ。その幻影が、血流の途絶えていた海綿体へ、怒涛のように血液を送り込んでいく。


 遠野の男は硬く、強く屹立した。


 生身の妻の肌には指一本触れられぬ男が、画面の中の妻を見下ろしながら、暗闇の中で激しく自身を扱き上げる。


 静かな部屋に、浅い息遣いと皮膚の擦れる生々しい音だけが響く。

 やがて、喉の奥から絞り出すような呼気とともに、遠野は絶頂を迎えた。

 尿道からどろりと出力されたそれを手の中に握り込み、その手でマウスを握りウインドウを消す。

 青白いディスプレイが、マウスに貼り付けられた精液を光らせていた。


 **


 ジリジリと、部屋のガラス窓を震わせるような蝉の声で目が覚めた。


 夏特有の湿気を帯んだ光が、遮光カーテンの隙間から細い筋となって差し込んでいる。遠野がリビングへ降りると、エアコンの冷気とともに、どこか甘い柔軟剤の匂いが鼻をついた。


「あ、おはよう。ハルくん」


 キッチンに立っていたクミが振り返る。

 薄手のシアー素材の部屋着。朝の光を透過したその下で、薄桃色のレースの下着が透けていた。彼女は遠野と目が合うと、胸元を隠すでもなく、ごく自然な動作で身を屈め、冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出した。


 屈んだ拍子に、胸の谷間とレースの縁が遠野の視界に飛び込んでくる。


「今日も暑くなりそうだね。お茶、飲む?」

「あ、ああ……ありがとう」


 遠野は視線を泳がせながら、差し出されたグラスを受け取った。


 夫婦の性生活が途絶えてから、クミは日常生活に色香を配置するようになった。熟れた身体を持て余す仕草に、遠野は感謝と萎縮を覚える。


「ねえ、ハルくん……」


 クミがしなやかな足取りで近づいてくる。

 逃げる間もなく、彼女の白い手が遠野のスラックスのベルトへ伸びた。金属のバックルが外され、チャックが滑り落ちる。


「ク、クミ……」

「いいから。朝のほうが、立ちやすいんでしょ?」


 クミは遠野の腰を抱き寄せるようにして、下着の中にすっと指を滑り込ませた。

 冷たい指先が、遠野の弛緩した陰茎を包み込む。


 だが、どれだけクミが滑らかに指を動かしても、遠野の海綿体に血液が満ちる気配はない。指に触れているのは、生ぬるく、ぐにゃりと潰れたゴム毬のような柔らかい肉の塊だけだ。クミの熱い吐息が首筋にかかるたび、遠野の全身からは冷や汗が吹き出し、海綿体はさらに縮こまっていく。


 細い指が滑らかに動き、白い二の腕がぷるりと揺れる。首筋に触れる吐息から、歯磨き粉の匂いがした。


 惨めさが肺を限界まで圧迫し、遠野が逃れようと身を捩った、その時だった。


 クミの指の動きから、不意に力が抜けた。

 血を送り込もうとする規則的な擦過ではなくなった。

 彼女の長くて白い指先は、まるで柔らかい粘土でもこねるように、ちまちまと、捏ね繰り回し始めた。

 それから彼女は使い古したゴム屑か何かのように、ぞんざいに引っ張り上げる。

 爪の先が、無防備な先端——細く閉じられた割れ目へ押し込まれた。


 その痛みに遠野は身体を跳ねさせる。クミは気にも留めず、力任せに指先をねじり込み、先端の割れ目を強引に押し開いた。押し広げられた割れ目の奥から、圧迫によってじわりと染み出してきた透明な粘液。

 クミはそれを見ると、細い親指と人差し指で割れ目をキュッと摘み、ゆっくりと指を離した。

 透明が、粘り、細い糸を引く。

 クミが遠野の顔を見る。遠野は、クミの舌が軽く自らの唇に唾液を塗ったのを見た。


 そうしておいて、指の背でふにゃりと折れ曲がる愛らしいそれを撫でまわし、潰れた根元を慈しむように優しく摘み上げる。

 そのたびに、クミの口元から「ふふっ」と笑いが漏れた。


 クミはもはや遠野を見ていなかった。

 指の中でぐにゃりと四方に逃げる、哀れな肉の残骸だけをじっと見つめている。

 その瞳の奥がうっとりと濡れ、頬が朱に染まっていく。

 彼女の息が荒くなり、鼻腔をくすぐる甘い匂いが一気に濃厚になる。遠野の股間に顔を寄せ、それを弄びながら、クミは両膝を小さく擦り合わせる。


 彼女の太ももの隙間、薄いレースの下着のクロッチ部分に、じわりと暗い濡れ染みが広がっていくのを、遠野は見た。

 クミの体液が繊維を喰らう。

 遠野の脳でプツプツと蟲が孵化する。

 それでもそこから目を切れない。

 汗が冷たい。

 歯磨き粉の臭気が近い。

 クミの片膝が持ち上がり、土踏まずがソファを潰す。

 彼女の指が自らの割れ目をなぞりあげ、黒い染まりがぞわりと拡がる。

 その指が遠野の黒眼の前に止まり、指紋が溶ける。


「あ、いや……会社! 会社に急がなきゃいけない用事を思い出したから!」


 耐えかねた遠野は、クミの手を振り払うと、ズボンを慌ただしく引き上げた。クミの手が空を切る。


「えっ、まだ七時半だよ? 朝ごはんは?」

「いい、途中で何か買うから!」


 鞄をひったくるように抱え、靴を履くのももどかしく、ドアノブを回す。背後から聞こえるクミの「行ってらっしゃい」という穏やかな声が、まるで呪文のように耳にへばりついた。


 外に出た瞬間、強烈な日差しと蝉の狂乱が遠野を包み込んだ。


 **


 その日の夜。遠野は再び、暗い自室の液晶画面の前にいた。


 グラフィックボードのファンが低い駆動音を上げ、三枚のモニターが青白い光を部屋に落としている。朝方にクミが見せたあの濡れた下着の記憶を振り払うように、遠野はローカルサーバーの監視カメラ映像を立ち上げた。


 画面の中で、クミはベッドの上で自慰に耽っていた。クローゼットのカメラは、四つん這いになったクミの、ずらした下着の奥へ指が差し込まれる様子を正面から捉えている。開いた両脚の間、その奥で垂れ下がった乳房が小さく揺れ、その先の乳首が、手前の粘膜と同じ桃色をちらつかせていた。


 遠野はマウスを握りしめ、唾を飲み込む。手の中では、朝方クミに捏ね繰り回されたふにゃりと萎びた肉体が、あの感触のまま転がっている。


 だが——


 エアコンの奥にある俯瞰の映像。

 ホイールを回して倍率を上げると、遠野の脳裏にざらりとした異物感が走る。


 背中に嫌な汗が滲む。


 画面上のピクセルが拡大され、ベッドの上で自らの肉体を弄るクミの姿が、より鮮明に中央へ寄ってくる。


 彼は画面を食い入るように見つめながら、無意識のうちにエンジニアとしての——あるいはAIに何十万枚もの画像を吐き出させてきたプロンプターとしての視線で、その映像のパラメータを解析していた。


 おかしい。


 喉の奥で舌の根が膨れ息苦しくなる。


 遠野がクローゼットの隙間とエアコンの奥に仕掛けたのは、ネットで買った安価な広角のWEBカメラと、小型ピンホールカメラだ。センサーサイズは小さく、本来なら暗所ノイズが乗るはずだった。部屋の明かりは落とされ、間接照明の弱い光しかないはずなのに、画面に映し出されるクミの白い肌は、ノイズひとつなく滑らかに発光している。


 それだけではない。

 はだけた胸元の絶妙なカーブ、下着の隙間から覗く湿った粘膜の生々しさ、太ももの内側に落ちる影の濃淡。

 広角レンズ特有の端の歪み(ディストーション)があるはずの画角なのに、クミの肉体の要所は常に画面の三分割線の交点に完璧に配置されていた。


 被写界深度。キーライトとシャドウの比率。色温度。

 素人が物陰に隠して雑に固定したカメラの画角では、絶対にあり得ない。


 ——見えすぎている。


 遠野が隠しカメラでクミを捉えているのではない。

 まるで、クミのほうが「このカメラからどう見えているか」を完全に把握した上で、最もグラビアとして完成されたポーズと位置を、意図してレンズの前に提示しているかのような——


 遠野の指先が、カタカタと小さく震え始めた。

 画面の中の都合の良すぎる完璧な構図が、急激に不気味な底なし沼のような恐怖へと変貌していく。

 彼は確かめるように、さらにマウスのホイールを回し、クミの手元をさらに拡大した。


 ベッドの上で自らの肉体を弄り、荒い息を吐き出すクミ。

 その視線の先には、枕へ立てかけられた一枚のタブレットがあった。不自然なほど真正面から、その画面がカメラを見返していた。


 クミが、自慰をしながら、見つめている、そこにリアルタイムでストリーミングされていたのは——


 暗闇の中で液晶画面にへばりつき、浅い呼吸を繰り返しながら、自分の萎えた股間を手の中で転がしている。

 遠野だった。


 喉から掠れた音が漏れた。


 遠野の視線が、モニター上部の内蔵カメラの脇——そこにひっそりと取り付けられた、爪の先ほどの小さな黒い外付けモジュールへと注がれた。

 見覚えはない。

 高解像度の広角カメラとマイクを内蔵した通信モジュール。こんなものを、いつ取り付けた?


 いや、自分ではない。

 クミだ。


 彼が夜な夜な自室でAI美女を生成し、隠しカメラの画面を開いて股間を弄る。

 その表情も、手元も、正確に捉える位置へ、クミは監視装置を仕込んでいたのだ。


 遠野のPCの内部システムは、とっくの昔に裏口(バックドア)を開けられていた。表情も、荒い呼吸も、手の中で潰れる陰茎も、キーボードを叩く指先も、クミのタブレットへリアルタイム送信されていた。


 クミのタブレットの映像が切り替わる。

 別のカメラが、今まさにクミを見ている遠野の後頭部と、モニターを映していた。

 自分を見ながら自慰をする遠野を見ながら、クミは自慰をしている。


 遠野は思わず振り返った。

 一秒後、画面の中のクミのタブレットの中でも、遠野がカメラへ振り返った。

 背後の本棚の隙間に、もうひとつの黒いレンズがあった。


 ——ああ、やっと気づいたんだ。


 タブレット画面越しに、カメラを見つめ返す遠野の凍りついた表情に、クミの足の指が丸まる。

 膣の奥がどくりどくりと脈を打つ。溺れるほどの蜜が指を飲み込む。クミの喉から千切れた音が漏れる。太ももの痙攣で腰が上下する。

 カメラの高度に視座を預け、ようやく妻を見下ろしたつもりになっていた男。生身の彼女を前にすると海綿体を失神させ、カウパーの涙で亀頭を濡らす。そうして逃げ込んだ先は、クミに消費されるステージの上。最高にイカれたコンテンツに、クミのケツが跳ね上がる。

 クミはカメラのレンズ——その向こうで目を見開いている遠野の瞳を真正面から見据えたまま、指を強く押し込んだ。

 ジリジリと鳴く蝉の声すら遠のく絶頂の中で、クミは何度も、何度も果てた。


 **


 翌朝。

 世界を押しつぶすような蝉の狂乱が、窓ガラスをみしみしと震わせていた。

 遮光カーテンの隙間から差し込む朝の光は、いつもより酷く白濁し、重苦しい。


 遠野は、洗面台の鏡に映る自分の顔を見ていた。何度冷水を顔に叩きつけても目脂めやにが取れない。鏡のその部分を擦ったが何もなく、ただ銀面が汚れただけだった。唇の端がピクピクと震えている。意思では止められそうになかった。


 リビングに足を踏み入れると、エアコンの冷気が肌にまとわりつく。

 テーブルの上には、何事もなかったかのように用意された二人分の朝食。イースト菌の焦げた匂いと、煮詰まったコーヒーの香りが混濁している。


「おはよう、ハルくん」


 トーストを皿に盛るクミの声は、驚くほど穏やかだった。

 だが、遠野はもはやクミの顔を直視することができない。


 二歩三歩と踏み入れるが、足裏と床が離れにくい。クミの視線を感じる。目の内側の目脂を拭いながら足を前に出す。呼吸が浅く乱れる。クミが見ている。膝が軽く笑う。何度も目脂を気にする。


 クミは笑みを浮かべると、ふわりと遠野に寄り、肩を掴んだ。力を込めると遠野の膝が折れ、冷たいフローリングにペタリと落ちる。

 クミは食卓の椅子を引き、浅く腰掛けた。

 

 遠野が床からおそるおそる見上げると、クミは脚を組むこともせず、見下ろしていた。広げられた脚の股の間に黒いスカートが垂れている。

 彼女は右足を緩やかに持ち上げると、椅子の上からすっと、整えられた足の親指を遠野の口元へ突き出す。


 遠野の息が止まる。

 遠野の視線が、親指とクミの顔を何度も往復した。


 蝉の狂乱が、頭蓋骨を破らんばかりに響いている。

 思考の明滅。

 歪んだ暗闇と、冷たいレンズと、頭上からの視線が、ひとつに噛み合う。


 ——理解する。


 それとともに、遠野の海綿体に熱い血液がドクドクと流れ込み始めた。

 遠野は唇の端を痙攣させ、目の前の親指に貪りついた。


 爪の先を必死に舐め上げ、指の腹を吸い、唾液で濡らしながら狂ったように舌を動かす。


 クミの足の指で何度も自分の喉を犯し、自らの唾液の臭気に噎せながら、土踏まずの皺を丁寧に舐める。

 踵の固い角質を歯で扱きとるようにして吸い付き、指と指の垢を舌で舐め取る。

 幾らかの酸味、あるいは鹹味を感じる度に、遠野の陰茎は硬く太く脈打つ。


 クミは、それを見ていた。


 **


 その夜。二人は何年かぶりに性交した。


 クミは、自身の足の親指を遠野の口元へ突き出す。

 それだけで十分だった。遠野の男が硬く脈打つ。


 クミは遠野に跨り、遠野の口の中に自らの指を深く突っ込み、弄ぶ。

 それをしながら腰を揺らす。


 やがてクミが甲高い吐息とともに達すると、性交は唐突に終了した。

 遠野のものは依然として硬く張り詰めていたが、クミは気にも留めずにベッドを降り、シャワーを浴びに行った。


 浴室から戻ったクミは、服を羽織り、ベランダの縁に腰掛けて煙草に火をつけた。

 紫煙をくゆらせながら、ベッドの上で呆然としている遠野に短く声をかける。


「いいよ」


 遠野は貪るように自慰を始めた。

 クミは煙を細く吐き出す。

 時折、脚を組み替える。衣擦れの音が響く。遠野の息が荒くなる。


 遠野が果てるまで、紫煙は薄く細く、天井へ向かって消える。

 その隅に、一匹の蜘蛛が張り付いている。


 蜘蛛を見つめるクミの、替えたばかりの下着が、割れ目が、湿る。

 クミはもぞりと足を組み替えた。(了)

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