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第7話 調律の結実


――練習室の扉が開く。


重い足音を引きずって入ってきたのは、顧問の一ノ瀬。

それと、Aオケのもう一つの基準点、副コンマスの雪村美月。


かつてない沈黙が、練習室に根を張っていた。

 

玲はコンマス席で足を組み、手元にヴァイオリンを置いたまま、メトロノームの針を「125」に合わせた。


「始めようか。……Bオケの現在地を、見せてあげてよ」


玲が短く合図を送ると、同時にメトロノームが硬い音で歌う。


『ラデツキー行進曲』の冒頭。

打楽器の連打が始まると、一ノ瀬の眉が僅かに動く。

花音の足が一歩出た時、栓を抜いたかのように、管弦楽が一体となって爆発した。


美月は、その一音目で息を飲む。


管楽器セクションによる「音の壁」、それはかつてのBオケにはなかった、不気味なまでの連続性と質量。


だが、曲が進むにつれ、

一ノ瀬の眉根が深く寄せられていく。


最後の一音が消えた瞬間。

一ノ瀬は乾いた拍手と共に、冷淡に言い放った。


「悪くはない……だが、邪道だな。管楽器の『物量』で誤魔化したか」


一ノ瀬は手元のスコアを閉じ、花音を真っ向から見据えた。


「その上で、バランスが最悪だ。弦が、特にソリストの君。君の音が管の咆哮に負けている。」


「遠慮なんて星城には要らん。

ソリストに指名されたのだろう、もっと前に出ろ……。

しかし、君が前に出れば、この物量は崩壊するだろうな。

……今の君ではここの『核』にはなれない」

 

――花音は唇を噛む。


核にはなれない、その言葉は私の胸に突き刺さっていた。


管の壁は作ってくれていた。

でも、私はもっと速く、一歩でも前へ走りたい。

――だけど。


一ノ瀬先生は、スコアを丸めて掌を打つように叩くと、鳴宮に目線を配る。


「足りない、そう思わないかね。……鳴宮くん」


彼は立ち上がり、踵を返す。


「あと一歩、弦が足りない。このままでは星城は納得しない」


「……最終チェックまでに間に合えば良いがね。行こうか、雪村くん」


――美月の拳は硬く握られ微かに震えているように見えた。


彼女の凍てつく視線の先は私。

視線は冷たく、肌の温度を僅かに下げた。

ふと足元を見やると、白い靄が浮かんでいるように見えた。


美月は花音を一瞥し、一ノ瀬に続いて部屋を去った。



静まり返った練習室。

玲はコンマス席で深く溜め息をついた。


その溜め息は、退屈を終えた猛獣の合図だった。


「……聞いたかい、花音。君、遠慮していたんだね」


玲はクスクスと笑い、立ち上がる。

ゆっくりと足音を響かせ、花音に歩み寄る。


「君の音はエネルギッシュだ、 一ノ瀬先生の言っていた通り、君が走ったらきっと彼らは崩れるかもしれないね」


玲は目を細め、唇を柔らかく吊り上げ花音を見下ろすと

傍らに置いていた自分のヴァイオリンを静かに手に取った。


「……一ノ瀬先生は『間に合えば良い』と言った」


彼が自ら楽器を構える。

それは、Bオケに絶対基準という一輪の花を添えるということ。


「だったら、僕が間に合わせてあげよう。

君のその熱量を制御しなくてもいいように、僕の音で『調律』してあげるよ」


玲がヴァイオリンを肩に据える。


花音の眼には、彼の背後から微かに漏れる光が見えた。


その光は、数多の学生が手にしたかった、

星城の名を、彼が屠った微かな星屑の光を、

背負っているようだった。


「僕が後ろを固めよう。君はただ、死ぬ気で走ればいい。

君の勇ましい音を、僕が世界で一番美しい『正解』に変えてみせようか」


玲の弓が弦に触れた瞬間、水晶のように透明で、それでいて強靭な音が放たれた。

そこに、花音の一途で熱を帯びた音が重なる。


繊細さと熱、正解と信念。


相反する二つの音が、玲のコンマスとしての統率力によって、一つの巨大な「うねり」へと変貌していく。


「さあ、花音。一晩中、僕を鳴らしてみせてよ」


その夜、練習室から漏れる音は、学園史上最も歪で、最も美しい「狂想の怪物」の産声だった。

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