第6話 蛇の導き
「じゃあね花音、また明日」
花音は、静寂に戻った練習室で、
じっと自分の手を見つめていた。
心の奥に張り付いた霜柱を払うようにして、学園を後にして寮に戻る。
この夜は、眠りにつく間際まで、
頭の中で繰り返しリズムを思い出していた。
冷たい夜に装飾された星達は眠りにつき、
陽の光が練習室のカーテンから漏れだしていた。
朝のミーティング。
Bオケの面々は、昨日の惨劇を引きずり、重苦しい沈黙に包まれていた。
コンマス席に座る鳴宮玲は、退屈そうに指先で自身のヴァイオリンを叩きながら、足を組み替え、莉穂を見やる。
「昨日の試奏の反省から、莉穂。……正直に言って、今の君たちには全てが足りない。フィジカルも、テクニックも」
玲は冷たい目をしていた。
「しかも、それを短期で補うのは、不可能だろうね」
玲の言葉は、矢のように、事実を深く突き刺した。
莉穂は唇を噛み、俯いた。
「では、不足するリソースをどうするのがいいと思う?」
玲からの突然の問いに、莉穂は言葉を詰まらせた。
「えっ……と……」
「……いや、いいんだ。ここで君に正解を言って欲しいわけじゃない」
玲はフッと目を細め、笑みを浮かべる。
その笑みは、期待よりも計算に近かった。
「足りないなら、足せばいいだけの事だよ、莉穂。Bオケにいる金管、木管セクションの者を、午後、ここに全員集めてくれないか」
玲の瞳に宿る不敵な光を見た瞬間、
莉穂の指先が微かに震え、口元には微かな笑みが零れていた。
午後。
玲は集まった面々を前に、淡々と宣告した。
「僕の、星城の美学には反するが……」
「君たちの技術やフィジカルの不足分は、今日から『2人1組』で解決してもらうよ」
練習室にざわめきが広がる。
「一人で足りないなら、二人でやればいい。それだけだよ」
玲は席から立ち上がり、腰に手を当てた。
「スタッガーブレスを使いなよ。交互に吹き、決して旋律を切らすな。二人分の肺があれば、昨日よりは余裕が出る」
そう言って、二本の指を立てる。
「それに、カンニングブレスも混ぜられる。……君たちでも、ね。莉穂なら意味は分かるだろう?」
玲のアイデアは、星城の伝統からすれば、あまりに「邪道」だった。
「莉穂、君がバディを選びなよ。……ここで選ばれなかった者は、研鑽が足りないだけだ。一人、練習室で励みたまえ」
玲はそれだけ伝えると、誰にも目もくれず、練習室を後にした。
「……じゃあ、それぞれ指名していくから、今後練習は相方とするように」
練習室に集まる者達に、俯いているものはいなかった。
三日目の夜。
花音は弓を走らせなかった。
メトロノームの針が、135を刻んでいる。
それでも、彼女の音は拍に噛みついていた。
弓を持つ指先に力がこもっていた。
「……止めないんですか」
玲は、何も言わず窓の外を見ていた。
五日目。
莉穂は、息継ぎの合図を出さなくなった。
隣のクラリネットが、自然に先を取る。
フレーズの切れ目で、音は落ちなかった。
莉穂は、他の組にも目を配る。
その目には――安堵があった。
玲は、練習室に毎日現れたわけではなかった。
ある日は、練習室の隅で腕を組んでいただけ。
ある日は、途中で姿を消した。
「……ふぅん、ノイズが減ったね」
その一言が落ちるたび、
Bオケの音は、確実に変わっていった。
そうして、星城の夜は何度も更け、
Bオケの練習室から、少しずつ「ノイズ」が消える。
練習室の隅には、
いつの間にか使い切った松脂の欠片が溜まり、
メトロノームのネジは緩んでいた。
135の位置に、指の油が残っている。
玲は、油を自らの指でぬぐい、冷えた目でそれを見る。
誰も、今日は何日目かを覚えていなかった。
――鳴宮 玲以外は。
そうして、
彼らが、自分たちの音が変わったことにすら気づかなくなった頃、顧問のチェックの日がやってきた。




