第5話 共犯者による調律
夜の練習室。
窓の外には、冷たい星空が広がっていた。
室内には、メトロノームの刻む硬い音と、
二挺のヴァイオリンが歌う音だけが充満している。
ラデツキー行進曲 M.M.135。
昼間、セカンド達が絶望したその速度の中で、
玲は花音を切りつけるように音を重ねていた。
「……ストップ、跳ねているよ」
玲が弓を上げる。
張り詰める静寂が花音の肩にのしかかる。
玲はヴァイオリンを首に据えたまま、ふと窓の外へ視線を向けた。
「……ひとつ、聞いていいかい?」
いつもの揶揄うような響きではなかった。
「君の実力なら、どこの学園でも通用するはずだ。
なのに、なぜこの星城を選んだ?
他の場所なら、君はもっと自由に、君らしく輝けたはずだよ。なぜ、ここに拘る?」
玲の瞳が、射抜くように花音を捉えた。
花音は、
自分の古びたヴァイオリンの弦をそっと指先でなぞる。
「……私の母も、ここの出身なんです」
ぽつりと飛び出た言の葉は夜の空気に溶け出した。
「母は、星城の卒業生でした。
一度もAオケには上がったことは、無かったそうです」
――『パッヘルベルのカノン』私の名前の由来だった。
「対抗戦、毎年Bオケはカノンって聞きました」
花音はヴァイオリンに添えた指を止める。
「母はカノンが好きだったんですよ…」
星城において、カノンは敗者の曲。
絶対基準を理解できず、お茶濁しに奏でる退屈な反復。
母もまた、絶対基準が掴めなかった。
「ただ、母は星城での出来事を、愛おしそうに話してくれたんです。音楽がどれだけ温かくて、どれだけ心に寄り添う事ができるのか……私に教えてくれました」
花音は弓を強く握りしめて、玲を見つめる。
「私にとって音楽は、選ばれた星たちのための光じゃない。暗闇を歩く人のための、小さな灯火なんです」
花音の声は震えていた。
練習室にはひやりとした外の空気が窓を伝って流れる。
「……だから、私はここに来た。母が愛した音楽を、この学園に叩きつけに来たんです。カノンが敗北者の曲なんて、二度と言わせないために」
玲はふと、一つため息をつく。
「悪いが、僕には理解できない。
音楽に感情という不純物を混ぜるのは、僕の美学じゃない」
その声は、星城の夜風のようにどこか寂しげに響いた。
「感情を混ぜた瞬間、音楽は濁る」
玲はヴァイオリンを愛でるように撫でる。
「何にも染まっていない、純粋な音は美しい。
僕はそれだけを信頼している」
一瞬だけ見せた、玲の横顔は、穏やかな顔をしていた。
「いいよ。だったら、その想いで僕を鳴らしてみなよ。
君が僕を濁らせるか、僕が君を透明にするか……」
玲が再びヴァイオリンを肩に当てる。
「さ、もう一度」
雪村美月は固く閉ざされた扉の小窓から、中の様子を伺っていた。
聞こえてくる玲の音は、
相変わらず一点の曇りもない水晶のようだった。
美月が毎日隣で聴き焦がれてきた、完璧な秩序。
だが、演奏の合間、花音と言葉を交わす玲の表情を見て、美月の心臓が凍りついた。
冷徹なはずの彼が、子供のように楽しげに笑っているように見えた。
私達には、見せたことのない表情。
美月は、凍りついた手でドアノブを回した。
「いつまでチューニングしているんですか、コンマス。
一ノ瀬先生がお待ちですよ」
美月の淡々とした物言いは、室内の熱を急速に奪う。
「ああ、美月。悪いね、つい夢中になってね」
玲はさらりと受け流し、手際よく楽器をケースに収めた。
「じゃあね花音、また明日」
彼は一度も花音を振り返ることなく、
美月のもとへと歩み寄る。
美月は何も言わず、玲を促して踵を返し部屋を後にする。
花音は、その音が静寂に戻った練習室に響くのを聞きながら、じっと自分の手を見つめていた。
一瞬だけ感じた、凍りつくような視線は花音の胸の底から霜柱となり張り付いていた。




