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第4話 星城の基準点


「認められたいっていう不条理を抱えてるのは、アンタだけじゃないわ。

ソリスト様、アンタが選ぶ『型にハマらない音楽』、見せてくれるよね」


莉穂はふっと息を吐き、周囲を見渡す。


「……今日はここまで。各自、自主練に切り替える。

選曲会議は明日。それぞれ、自分がどんな音を出したいのか、考えておくように」


Bオケが、重い空気を引きずるように解散した。


その頃、第一練習室では――


「……鳴宮さん、コンマスは?」

副コンマス 雪村(ゆきむら) 美月(みつき)が空席を見つめる。

 

「Bオケに行ったって聞きましたけど……」


「まさか、本気?」


ざわつきがじわじわと広がっていく練習室の中で、

美月は、ふっと息を吐き、表情を引き締めた。


「……私たちで、やるしかない。鳴宮さんがいなくても、Aオケは完璧」


彼女の拳は固く握られていた。

玲不在の練習が、初めて始まろうとしていた。


翌日早朝。

桜の香りはもう薄くなり、空は山吹が染めていた。


花音は誰も居ない練習室に入り、

ラデツキー行進曲を弾いていた。

メトロノームは、M.M.135を指し示していた。


荒々しく、熱を持つ弓が弦の上を駆け抜ける。


扉の影から、その背中を莉穂が見つめていた。


花音は、指が縺れ、音が乱れる度に

同じフレーズを繰り返した。


莉穂は、何も言わず踵を返した。

背中に感じたリズムが、心の底で小さく反響し、

指先だけが微かに熱を帯びた。


――昼、選曲会議が重々しく始まった。


莉穂が口を開く前に、花音が手を挙げる。


「……私から、提案がありますラデツキー行進曲。

テンポは、M.M.135で」


練習室の空気が軋む音がした。


「星城を『強く』するためです。

型をなぞって逃げるのは、もうやめませんか」


ざわめきの中、莉穂はゆっくりと顔をあげる。


「正気? 行進曲は初心者がやるものよ」

「135なんて、星城の音楽が壊れるわ」


莉穂は、しばらく沈黙し、一瞥するように言った。


「……分かった。前例がない以上まずはやってみる。

でも、上手くいかないようなら責任取ってもらうわよ、ソリスト」


カチ、カチ、と、硬い音が室内に響く。

取り出したメトロノームの針が、135を指していた。


不安の色が空間を敷き詰めたその時。


防音扉が、音もなく開く。

廊下の冷たい空気と共に足音が不安を割くように流れ込む。


「やあ。僕はBオケにつくよ」


声の主は星城学園の至宝、鳴宮玲。


彼は軽やかに有無を言わせぬ宣言をした。

この空間が抱く色や瞳の光を一身に受け、そこに立つ。


「こっちの方が、面白そうだからね――」

クスクスと笑いながら、迷い子達を見下ろす玲。


渦巻く視線の中で、花音だけは彼を見なかった。

手元のヴァイオリンを指でなぞって喉を鳴らした。


「……僕がBオケの第一席に入るよ。異論があるなら、技術で示してみて」


玲はわがままな王子のように微笑み、

当然のようにコンマスの席へと収まる。

 

彼が一度楽器を構えれば、

その場がステージであるかのような錯覚さえ覚える。


「……君たちが僕のボウイングを否定できる段階にいるとは思ってないけど」


圧倒的な存在と言葉に、逃げ場は消えた。


玲は弓を軽く鳴らす。

その一音だけで、練習室の空気が変わった。


「ラデツキー行進曲だっけ?

まずは、曲の構成確認から、一度フラットでやろう」


俯くセカンド達は動けなかった。

 

「初心者が……やる曲なんでしょ?」

練習室を数段重く沈めた。


玲の合図で、穏やかなテンポで行進曲が始まった。


数小節。

莉穂のクラリネットが旋律を紡ぎ、金管が支える。

花音も、玲の隣で静かに弦を弾いていた。


――だが。

玲の弓が、空を切る。


「……止めようか」

しんとする冷えた空気。


玲の視線はゆっくりと花音を刺す。


「……花音。そうか、君は走る癖があるようだね」


玲はクスクスと笑いながら、その視線で心臓に毒を流す。

「他は『型通り』、でも君の音だけが拍を喰っている」


花音は答えなかった。

弦の上で、指先だけが微かに震えていた。


「悪癖?それとも……」

玲は純粋で残酷な目をする。


「焦り? いや違うか――

早くここを壊したいっていう『期待』……かな」

 

「……それが、私の音です」


花音はヴァイオリンを肩に乗せる。

「……フラットじゃ、足りないっ」


玲の瞳が揺れ、笑みが深くなる。

玲はメトロノームを手に取り、125へセットする。

「じゃあ、125から始めようか」


玲の最初の一音が響いた瞬間、練習室の空気の密度が変わった。


花音の「前傾姿勢の衝動」をエンジンにし、玲が背後から突き立てて追いかける。

 

曲のテンポが上がり速度感が出る。

疾走している感覚は掴めていた。

でも、音が明らかにフラットの時よりもバラついていた。


私はふと後ろを見る。

底に居たのは顔を真っ赤にする管楽器たち。


――地獄だった。


木管は指が縺れ、金管のブレスは続かない。


玲が要求する、絶対的な音の立ち上がりと純度。

それが、星城の絶対基準だった。


濁った音、遅れるリズム、不明瞭なアーティキュレーション。


クラリネットが、悲鳴のような音を吐いた。

レジスターキーの操作が間に合わず、音が裏返る。

正しい運指は、ここでは何の助けにもならなかった。


金管は、息継ぎの場所を失った。

フレーズの途中で呼吸が途切れ、音楽が裂ける。

音を鳴らす以前に、生き残れない。


花音は、崩れていくアンサンブルの前に立ち続けていた。

肩で息をしながら、それでも弦を離さない。

 

その姿に、玲は一瞬だけ目を見開いた。

 

音は次第に削ぎ落とされ、

やがて残ったのは、花音と莉穂、そして玲だけだった。


「……ストップ」


玲が楽器を降ろすと、

そこには沈黙と絶望だけが寝そべっていた。


莉穂は指を震わせ、

自分の実力の底を突きつけられた屈辱に俯く。


玲は、ゆっくりと練習室を見渡す。

「ノイズにすらなっていない。ここがBオケの現在地だ」


誰も、反論できなかった――

花音は、肩で息をしながら自分の手を見つめていた。


玲の隣で弾いて分かった。

自分の走りは、玲にとっては「制御可能な遊び」に過ぎなかった。


圧倒的な技術の差が花音の前に立ち塞がる。

 

玲は、窓辺に立ち、学園の庭園を眺めて呟く。


「今日はここまで。

自分の音がどれだけこの庭を汚しているか、よく考えて」


玲は冷たく言い放ち、立ち去ろうとした時。


「ああ……それと」と振り返り

玲は花音の腕を掴んで、顔を覗き込む。


「花音。明日から君は居残りだ」


花音が顔を上げると、

縦に裂けた一本の瞳孔が、音も立てずにそこに居た。


「僕が、君の走る心臓を調律してあげるよ」


「……されません」


玲の瞳が、僅かに見開く。


「私は、あなたの完璧に合わせるために来た訳じゃない」


花音は一歩踏み出す。

「居残りは受けます。でも、私の音は私が決めます」


玲は、ニコリと笑い、満足そうに練習室を出ていく。

残された者たちは、息もできなかった。


莉穂は、立ち去る玲の背中を見つめていた。

その目には――諦めではなく、闘志が宿っていた。


絶望の奥で、音にならない火種が残っていた。

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