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第3話 アレグロの産声


放課後、廊下は深い藍色に沈み、窓の外の庭園は月明かりの下で彫刻のように静まっていた。


「……夕方、聞き慣れない音がした。この学園の空気が、少しだけ濁ったよ」


窓辺に背を向ける顧問、一ノ瀬は淡々と呟いた。

星城の『秩序』を体現する彼には、それは音楽ではなく、単なる違和感に過ぎなかった。


一ノ瀬はゆっくりと、隣に立つ青年に視線を向ける。

「……鳴宮くん。あれに、それほどの『価値』を見出したのかい?」


隣に立つ鳴宮玲は、窓に映る自分の影を眺めながら、ふっと淡く笑う。

その笑みは、珍しいものに触れた子供のような無垢さと、同時に獲物を定めるような冷徹さが同居していた。


「今のままでは、ただのノイズです。

……ですが、あんなに純粋な混じり物は久々ですね」


玲の指がわずかに震える。

「なぜ星城(ここ)を選んだのか、疑問にすら感じる。

……ここでどう変わるか、少し眺めてみたくなりました」


玲の指先が、透明な窓ガラスをピアノの鍵盤を叩くように静かに動く。


「……彼女、Aオケの練習室でなんて言ったと思います?」

ふと、彼の表情が、一瞬だけ軽くなる。


「『誰の顔色を窺って弾いてるんですか』……ですよ。ピュアですよね。あんな音で、ここの美しさを全否定してみせた」


一ノ瀬は視線を再び夜の庭園に戻し、微かに目を細める。


「……鳴宮くん、毎年のことだが、異物は自浄作用によって排除される。

君が面白がって『ソリスト』の役を与えたところで、この庭で咲くことはないだろうな」


「ええ、分かっています」


玲はクスクスと喉を鳴らした。

その瞳の奥にあったのは、情でも救いでもない。

消えきらない期待だけが、淡く澱んでいた。

 


翌朝、Bオケの練習室に差し込む朝日は、埃を白く浮き上がらせる。

一ノ瀬が教壇に立った瞬間、生徒たちの首筋に、冷たい刃のような空気が走った。


「例年のことだが、学園祭ではAオケとBオケの対抗戦を行ってもらう。

課題曲については、Aオケは鳴宮くんが決める。Bオケは――篠原くん、君に一任する」


視線を受けた女子生徒――篠原 莉穂(りほ)は、僅かに顎を引いて応えた。


「それと、今年のBオケにはヴァイオリン・ソリストを配置する。

……葉月くん。君だ。鳴宮くんから強く推薦があってね。……篠原くん、あとは任せるよ」


一ノ瀬はそれだけを言い捨てると、一度も花音と目を合わせることなく背を向け、去っていった。

重い扉が閉まる音。それが、Bオケの「保護」が失われた合図だった。


「……はあ?」


一人のヴァイオリン・セクションの女子が、

低く濁った声を漏らす。

「……納得いかない。ソリストと言うなら、実力で示しなさいよ」


抑え込まれていた嫉妬と苛立ちが、一気に噴き出す。

 

「昨日、第一練習室でAオケ相手にさらしたあの無謀な演奏。ここで私たちにも聴かせなさい。ソリストなんでしょ?」

 

挑発を受け、花音は静かにヴァイオリンを構えた。

響いたのは、教科書のように完璧なカノン。


「……ふん。技術だけは、持っているみたいね。でも、それだけ」

続く罵声は似たり寄ったりだった。

私への嫉妬と憶測と、根拠のない悪意。

それと不安のような響き。


「……身の程を知らないって、こういうことよね」

一人の団員が、私の肩を強く突いた時、莉穂の冷ややかな声が、怒号を切り裂く。


「……そこまでにしなさい。みっともない」


その視線は、誰か一人を見るものではなかった。

練習室そのものを、静かに黙らせる目だった。


腕を組んだまま、騒ぎ立てるセカンドを一瞥し、

彼女はゆっくりと私の前に歩み寄った。


「……ひとつ、聞かせてもらおうかしら」

私を見る彼女の目は、冷たく鋭い視線を放っていた。


「どうして昨日あんな無茶をしたの。Aオケの第一練習場に乗り込んで、あんな恥を晒して……何がしたかったわけ?」


私はふっと息を吐く。

呼吸を整えて、莉穂の冷たい視線の奥を覗き込む。


「……私は、本当のことを言っただけです。」


胸に抱いたヴァイオリンを指でなぞる。


「型をなぞって、安心して。それで本当に胸を張れますか」



沈黙が降りた。

莉穂は「ふーん……」と呟き、視線をそらす。

周囲の部員たちも、一斉に下を向く。


弓が床に落ちる乾いた音がした。

譜面を捲る音が小さく練習室をそよ風のように足元を抜けた。


「……何よそれ。自分だけが特別だって言いたいの?」


食い下がるセカンドたちを、莉穂が片手で制する。

「座りなさい。私と鳴宮先輩――いえ、『コンマス』に従えないなら、退学届を出すといいわ」


莉穂の低い一喝に、連中は毒気を抜かれたように黙り、渋々と席に戻り始める。

莉穂は再び花音に向き直り、ふっと短く息を吐いた。


「葉月さんね……アンタの言い方は、反吐が出るほど傲慢。

でも、ソリストに指名されたことも、

私たちが誰かの顔色を窺って弾いてることも事実。

だったら、私はアンタに付き合ってみるわ」


莉穂は顎を突き出した。


「認められたいっていう不条理を抱えてるのは、アンタだけじゃないわ。

ソリスト様、アンタが選ぶ『型にハマらない音楽』、見せてくれるよね」

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