第1話 星城音楽学園
「……皆さん、誰の顔色を窺って楽器を弾いてるんですか?」
その一言が、緻密に積み上げられた空気の城を、無慈悲に引き裂いた。
あの日、あの重苦しい練習室の扉をこじ開けたあの日から――
ここは、星城音楽学園。
格式と伝統が、全てを規定する場所。
ホールの正面には、かつてベルリン・フィルを率いた帝王、ヘルベルト・フォン・カラヤンの肖像が掲げられている。
一分の隙もなく磨き上げられた、水晶のような音。
それが、この学園が誇る「伝統」。
名門の看板を背負う学生たちは、
その完璧を目指し、日々研鑽を積む。
カラヤンが体現した「美しさ」を、自らの音に刻むために。
――それが、星城の誇り。
しかし、ヴァイオリンケースを抱えたまま、練習室の真ん中に立つ葉月花音の瞳には、その調和がただの「空虚」に見えていた。
間違ってはいないはずなのに、胸の奥が、動かなかった。
「あの……すみません。私、新入りの葉月花音です。
……皆さん、誰の顔色を窺って楽器を弾いてるんですか?」
部屋中の視線が一気に私を突き刺す。
唇に力が入っているのに気づき、浅く息を吸う。
「隣の先輩? それとも、客席にもいないOB?
少なくとも、今の皆さんの音に音楽への熱意は感じません。型をなぞって安心するのは、もうやめませんか」
譜面をめくる音さえ止まり、
練習室の湿度が上がったような感覚が走る。
「何様だ、新入生!」「星城の音を汚すな!」
飛び交う罵声を、
花音は静かにヴァイオリンケースを開ける音で黙らせた。
丁寧にクロスに包まれた、使い古された楽器が姿を現す。
視線を背中に感じたまま、ヴァイオリンを首に据える。
弓を弦に当てた瞬間、思ったよりも指先が冷えていることに気づく。
一つ、深く息を吐く。
弓が弦の上を踊るように走る。
ギィィと、荒々しくも熱を帯びたアタックが聴き手の本能を直接揺さぶった。
星城が守り続けてきた流麗なレガートとは真逆の音。
その音は、かつてニューヨーク・フィルを率いたレナード・バーンスタインが、跳ね、汗を撒き散らしながらオーケストラに叩きつけた『生きている音』を思わせた。
軽快なテンポで展開される旋律は、音の端々が鋭利なフックとなり、聴く者を平静から無理やり引きずり出す。
綺麗にまとまることを拒絶した、まるで魂の叫びのようなパッヘルベルの『カノン』。
それは、誰もが知る穏やかな旋律ではなく、
テンポを上げ、荒々しく踊らせたカノンだった。
演奏が終わり、花音はバイオリンを下ろすと、
呆然と固まる部員たちに冷たい視線を向けた。
「星城の音は、皆さんが『頑張った結果』であって、
『1位を獲る音』じゃない。私たちが目指すのは、昨日よりマシな合奏をすることじゃないはずです」
練習室には、カノンの残響だけが、不穏に揺れている。
その時、最前列の特等席で、ずっと退屈そうに指を遊ばせていた鳴宮 玲が、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……ふぅん、面白いね」
鳴宮は席から立ち上がると、
獲物を鑑定する蛇のような瞳で、花音を射抜く。
蛇は、私の目の前まで這ってきて、絡みついた。
その気配に、無意識に一歩、体重を踵に寄る。
「君の言う『生きている音』は、この『調律』された僕らの演奏に、何を生んでくれるのか……少しだけ、興味が湧いたよ」
鳴宮は唇の端を吊り上げ、
彼女の奥底に渦巻いた熱を覗き込む。
「やってみてよ。君の言う『恥を捨てる』ところから。
……ただし、僕を鳴らせなかったら、その時は君に、それ相応の対価を払ってもらうけど」
二人の視線が交差する。
寸分の狂いもない名門オーケストラに、
修復不能な「亀裂」が入った瞬間だった。




