プロローグ
舞台袖の静寂の中で、葉月 花音は喉を鳴らした。
肺を満たすのは、ワックスと古い楽器が混ざり合った、
学園祭特有の狂おしいほどの熱を帯びた空気。
――救われなくても、足を止めない理由。
それは、今から始まる一分一秒の『狂想』の中にしかない。
「ねえ花音、どう? 楽しんでる?」
隣でヴァイオリンを構えた鳴宮 玲が、覗き込むように声をかけてきた。
彼の指先は、これから始まる――
速さと軽さが同時に要求される”アレグロ”の狂想を前にして、驚くほど静かに、そして優雅に跳ねていた。
ヴァイオリンに愛される彼にとって、この速度は恐怖ですらない。
ただ、隣に立つ花音を見定めるための、コンサートマスターの演算だ。
「私が……この空虚な伝統を、変えてやる」
花音が絞り出すような声で宣言する。
玲はふっと、捕食者のような笑みを浮かべた。
「いいね。伝統的な解釈なんて捨てよう。塗り替えて見せてよ、ヴァイオリンソリストさん」
玲が耳元で囁く。その声は、優しさなどではない。
彼女の魂を、より高く、
より過酷な場所へと追い立てるための『毒』だ。
「君のボウイングなら、この”アレグロ”の風に乗れるさ。置き去りにしてよ、僕たちを」
眩いスポットライトの下へ、一歩。
観客の期待が渦巻く中、花音が最初の一音を響かせた瞬間――世界が加速した。
鳴り響いたのは、『ラデツキー行進曲』。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名を、世界に刻み続けてきたあの行進曲だ。
けれど、それは誰もが知る優雅な行進曲ではなかった。
テンポを上げた”アレグロ”が管楽器隊の表情を赤らめていく。
互いの才能を食らい合い、心拍数を追い越し、聴衆の手拍子さえも置き去りにする、行き急ぐ軽快さの暴力。
指先が、弦の上で光の粒を弾き飛ばしていく。
呼吸を捨て、濁流に身を投じる。
その濁流は、奏者の体力を奪う。
頬を伝う一筋の汗が、ライトに照らされ銀色に煌めく。
花音は、狂おしいほどの風の中で、誰よりも楽しそうに、誰よりも真剣に笑い躍った。
――そして、その隣で。
玲だけが、彼女を追い詰める完璧な旋律を奏でながら、一瞬だけ、この世で最も寂しそうな顔をした。




