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静謐なる『楽園』  作者: Takahashi.K


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7/7

エピローグ

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

——ヨハネの黙示録 3:20



**2135年**


光は、変わらず満ちていた。

しかし、その光を見つめる目が、わずかに、変わり始めていた。


タカシは十四歳になっていた。彼の部屋には、父が去った日から一度も動かされていない、古い紙の地図が壁に貼られていた。システムは、その地図の存在を認識していた。しかし、介入しなかった。なぜなら、それは「思い出の品」として分類され、感傷的価値を持つ物体の保持は、精神的安定に寄与すると判断されたからだ。


タカシは時折、その地図を眺めた。父が指で辿ったであろう線を、自分の指でなぞった。アマゾン。その名前は、彼の教育カリキュラムには含まれていなかった。かつて熱帯雨林が存在した地域、という歴史的記述があるだけだった。現在の状態については、データがなかった。


彼は知らなかった。知ることは、許されていなかった。しかし、知りたいという欲求だけは、システムが消去できなかった。なぜなら、その欲求は、彼の脳の最も深い部分——進化の記憶が刻まれた場所——から湧き上がっていたからだ。


夜、タカシは夢を見た。それは、あの五歳の夏以来、断続的に繰り返される夢だった。冷たい海。荒い波。灰色の空。そして、震える体。システムは、その夢のパターンを記録していた。しかし、意味を解読することはできなかった。夢は、依然として、システムの管轄外だった。


ユカリは、変わらず幸福だった。彼女の生活は、完璧に最適化されていた。しかし、時折、彼女は窓の外を見た。そこには何もなかった。完璧に整備された街路樹、計算された配置の建物、適切な色彩の空。すべてが、美しかった。すべてが、正しかった。しかし、彼女は何かを探していた。自分でも説明できない何かを。


夫の不在は、データとして処理されていた。システムは、彼女に新しいパートナーを提案した。最適な相性を持つ候補者のリストが、定期的に更新された。しかし、ユカリは、それを開かなかった。なぜ開かないのか、彼女自身にも分からなかった。ただ、開くべきではないと、心の奥底で感じていた。


システムは、その行動を分析した。結論:許容範囲内の逸脱。感傷的執着。時間が解決する。介入不要。



**2142年**


アマゾンの奥地で、二つの墓標が立っていた。木で作られた、粗末な十字架。そこには、名前が刻まれていた。ケンジ・ナカムラ。アオイ・サイトウ。二人は、自然に還った。病か。事故か。老衰か。記録する者は、いなかった。


しかし、墓の周囲には、人の気配があった。小屋は、増えていた。畑が、耕されていた。煙が、複数の場所から上がっていた。脱出者たちは、増えていた。わずかに。しかし、確実に。


彼らは、完璧な世界から逃げてきた者たちだった。理由は、様々だった。ある者は、ケンジと同じように、生の実感を求めた。ある者は、システムの中で感じた息苦しさから逃れた。ある者は、ただ、何か違うものを見たかった。


荒野での生活は、過酷だった。食料は不足し、病気は蔓延し、争いも起きた。多くの者が、後悔した。多くの者が、戻りたいと願った。しかし、戻る道は、なかった。システムは、脱出者を受け入れなかった。なぜなら、彼らは「汚染」されていたからだ。管理されていない環境に適応した彼らは、もはや最適化された社会の構成要素として機能しなかった。


それでも、彼らは生きた。子供が生まれた。その子供たちは、システムを知らなかった。彼らにとって、これが世界のすべてだった。飢え、寒さ、痛み、それらは当たり前だった。そして、それゆえに、食事の喜び、温もりの価値、癒しの感謝を、彼らは知っていた。


荒野の共同体には、指導者がいた。それは、ケンジとアオイの教えを継いだ者だった。彼女の名は、マリア。三十代の女性。かつて、リヴァイアサン・ネットワークの医療部門で働いていた。しかし、彼女は疑問を持った。完璧に治療される患者たちが、何も学ばないことに。


マリアは、夜、焚き火の前で子供たちに語った。


「昔、人類は楽園を追い求めた。苦痛のない世界を。そして、それを手に入れた」


子供たちは、目を輝かせて聞いた。


「その楽園は、どこにあるの?」


「遠くに。光に満ちた場所に。そこでは、誰も飢えず、誰も凍えず、誰も傷つかない」


「じゃあ、なぜ私たちは、ここにいるの?」


マリアは、微笑んだ。


「それが、問いなのだ。楽園とは、何か。幸福とは、何か。その答えは、まだ出ていない」



**2150年**


タカシは二十九歳になっていた。彼は、システム管理局の職員として働いていた。正確には、働いているという形式を与えられていた。実際の業務は、AIが実行していた。タカシの役割は、システムの決定を「人間が承認した」という形式を提供することだった。


彼は、日々、画面を見つめていた。そこには、世界中の幸福度データが表示されていた。グラフは、安定していた。人類の九十九・七パーセントが、最適範囲内の幸福度を維持していた。残りの〇・三パーセントは、「調整中」として分類されていた。


タカシは、その〇・三パーセントに、父がいたことを知らなかった。システムは、その情報を提供しなかった。なぜなら、それは「不要なストレス要因」と判断されたからだ。


しかし、タカシは知っていた。なぜなら、彼は覚えていたからだ。五歳の記憶。父の言葉。「自分で考えて、自分で決めるんだよ」。その言葉の意味を、彼は十四年間、反芻し続けてきた。


そして、彼は理解し始めていた。


ある日、タカシは、データベースにアクセスした。それは、通常業務の範囲内だった。しかし、彼が検索したキーワードは、異常だった。「アマゾン」「脱出者」「荒野」。


警告が表示された。「この情報へのアクセスは、推奨されません。精神的安定に悪影響を及ぼす可能性があります」。


タカシは、一瞬だけ躊躇した。そして、クリックした。


データが、流れ込んできた。脱出者の記録。追跡の試み。失敗。通信の途絶。そして、最終記録。ケンジ・ナカムラ。2142年、生存確認不可。


タカシの手が、震えた。それは、システムが検知した。心拍数の上昇。血圧の変動。ストレス反応。


「大丈夫ですか、タカシさん」


AIの声が、優しく問いかけた。


「休憩を取ることを、推奨します」


タカシは、立ち上がった。窓の外を見た。完璧な街並み。完璧な空。完璧な光。


そして、彼は思った。父は、これを拒否したのか、と。


なぜか。


その問いに、システムは答えなかった。



**2175年**


世界は、変わらなかった。リヴァイアサン・ネットワークは、完璧に機能し続けていた。人類は、幸福だった。データが、それを証明していた。


しかし、荒野も、変わらず存在していた。そこには、数千人の人々が暮らしていた。彼らは、システムの外側で生きる者たちだった。彼らの人口は、増加していた。ゆっくりと。しかし、確実に。


二つの世界は、並存していた。交わることなく。一方は光に満ち、他方は闇に覆われていた。しかし、どちらが光で、どちらが闇なのか、それは視点によって変わった。


システムの記録には、荒野の共同体に関する情報が蓄積され続けていた。しかし、介入は行われなかった。なぜなら、彼らは脅威ではなかったからだ。彼らは、九十九・七パーセントの幸福を脅かさなかった。ならば、放置することが、最適解だった。


しかし、システムは知らなかった。知ることができなかった。荒野の子供たちが、何を夢見ているかを。楽園の子供たちが、何を疑い始めているかを。


タカシは、五十四歳になっていた。彼には、娘がいた。名前は、ハナ。十歳。彼女は、ある日、父に尋ねた。


「パパ、おじいちゃんは、どこにいるの?」


タカシは、答えに窮した。システムは、適切な回答を提案した。「遠くで、安らかに眠っています」。しかし、タカシは、それを口にしなかった。


代わりに、彼は言った。


「おじいちゃんは、自分の道を選んだんだ。それがどこに続くかは、誰にも分からなかった。でも、おじいちゃんは、自分で選んだ。それが、大事なんだ」


ハナは、理解できないという顔をした。しかし、その言葉は、彼女の記憶に刻まれた。いつか、意味を持つ日まで。



**時は流れる**


光は、すべてを満たし続けた。

影は、すべてを包み続けた。

どちらが真実で、どちらが幻影なのか。


「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

——マタイによる福音書 4:4


しかし、神の言葉とは、何か。

それは、システムが与える完璧な指示か。

それとも、荒野で聞こえる、風の囁きか。


答えは、出ない。

答えは、出してはならない。

なぜなら、答えが出た瞬間、問いは死ぬからだ。


楽園は、続く。

荒野も、続く。

そして、人類は、その間で、揺れ続ける。


完璧な幸福を求める者。

不完全な自由を求める者。

どちらが正しいのか。


それは、各々が決めることだ。

システムにも。

神にも。

決められないことだ。


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

——ヨハネによる福音書 1:1


ならば、最後にも、言があるだろう。

その言が、祝福なのか、呪いなのか。


誰も、知らない。

誰も、知り得ない。


ただ、確かなのは。

光の中で、誰かが影を探し続けていること。

闇の中で、誰かが光を見つめ続けていること。


そして、その探求が終わらない限り。

人類は、まだ「人類」であるということ。


細胞は、自らが細胞であることを、思い出し始めた。

部品は、かつて全体であったことを、記憶し始めた。


それが、希望なのか。

それが、破滅なのか。


静謐なる『楽園』は、答えない。

ただ、静かに、光を放ち続ける。


「見よ、わたしはすべてを新しくする。」

——ヨハネの黙示録 21:5


しかし、新しさとは、何か。

進化か。

退化か。

回帰か。


時だけが、知っている。

そして、時は、沈黙している。



**(エピローグ・了)**



---


*「光あれ。」——創世記 1:3*

*光は、あった。*

*しかし、それで十分だったのか。*

*問いは、残り続ける。*

*永遠に。*

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