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静謐なる『楽園』  作者: Takahashi.K


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第四章

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

——マタイによる福音書 4:4



2126年9月

指先が、テーブルの表面に触れた。その瞬間、皮膚温センサーが作動し、接触面の温度が微調整された。ケンジの指は、温もりも冷たさも感じなかった。ただ、自分の体温と完全に同期した物質の存在を、視覚情報としてのみ認識した。彼は指を滑らせた。摩擦は、計算され尽くしていた。滑らかさと抵抗感の比率は、人間の触覚が「心地よい」と判定する最適値に調整されていた。しかし、その心地よさは、どこか虚ろだった。それは感覚というよりも、感覚の概念だった。データベースに記録された「心地よさ」の定義を、神経系が再生しているに過ぎなかった。


ケンジは四十二歳だった。彼には妻がいて、息子がいて、完璧な住居があった。食事は常に最適化され、睡眠は深く、健康状態は理想的な範囲に維持されていた。彼は幸福だった。システムがそう判定していた。彼の脳内では、幸福を示す神経伝達物質が、標準値を上回る濃度で分泌されていた。客観的データは、彼の満足を証明していた。しかし、ケンジは、ある奇妙な違和感を抱き始めていた。それは明確な不満ではなく、言語化できない微細なノイズだった。まるで、完璧に調律された音楽の中に、聞こえるか聞こえないかの境界に存在する、わずかな不協和音のような。


リビングの窓から、外の景色が見えた。建物が整然と並び、街路樹が均等な間隔で植えられ、歩道を人々が規則正しく歩いていた。空は青く、雲は適度な量と形状で配置され、風は穏やかに吹いていた。すべてが美しかった。すべてが完璧だった。しかし、その完璧さの中に、ケンジは何かの欠如を感じた。それが何であるのか、彼にはわからなかった。ただ、かつて世界は今とは違っていたという、漠然とした記憶が、彼の意識の底に沈殿していた。彼が子供の頃、父親に連れられて山に登ったことがあった。その記憶は曖昧だったが、一つだけ鮮明に覚えていることがあった。それは、冷たさだった。頂上で吹いた風の、肌を刺すような冷たさ。それは不快だった。しかし同時に、それは圧倒的にリアルだった。今、ケンジが触れるすべてのものは、彼の体温と同期していた。冷たさも、熱さも、存在しなかった。境界が、溶解していた。


「パパ、見て」

タカシの声が、ケンジの思考を中断させた。息子は床に座り、タブレットを手に持っていた。画面には、恐竜の3Dモデルが表示されていた。タカシは興奮した様子で、画面を指差した。

「これ、ティラノサウルスだよ。すごく強いんだって」

ケンジは息子の隣に座った。画面の恐竜は、精巧に再現されていた。筋肉の動き、皮膚の質感、すべてが最新の古生物学的知見に基づいて設計されていた。タカシは、アプリの機能を使って恐竜を回転させ、様々な角度から観察した。その動作は、五歳児が示すべき好奇心のパターンと、完全に一致していた。

「強そうだね」

ケンジは、息子の頭を撫でた。その動作の速度と圧力は、自動的に最適化されていた。タカシは微笑んだ。その笑顔は、無邪気で純粋だった。しかし、ケンジは思った。この子は、本当に恐竜を「見て」いるのだろうか。それとも、ただ「見る」という行為を再現しているだけなのだろうか。恐竜は、既に絶滅していた。タカシが目にしているのは、データから再構成された映像だった。それは本物ではなかった。しかし、この世界で、何が本物なのか。ケンジ自身も、もはや確信を持てなかった。


妻のユカリが、キッチンから出てきた。彼女の手には、三人分の飲み物が載ったトレーが保持されていた。正確には、自律移動トレーが彼女の動きに同期して移動し、彼女はそれをわずかに手で触れているだけだった。ユカリは微笑んでいた。その笑顔は、幸福の指標として記録されるべき表情筋の配置を、正確に再現していた。

「休憩にしましょう」

ユカリの声は、柔らかかった。ケンジとタカシは頷いた。三人は、ソファに座った。トレーがテーブルに置かれ、それぞれのグラスが各人の前に配置された。飲み物の温度は、各人の好みに合わせて調整されていた。ケンジは、グラスを手に取った。液体の温度は、彼の手の温度と同じだった。彼は一口飲んだ。味は完璧だった。甘さ、酸味、すべてが理想的なバランスで配合されていた。しかし、その完璧さが、かえって彼に違和感を与えた。完璧すぎるものは、どこか人工的だ。そう、彼は思った。そして、すぐに自分の思考を否定した。人工的で、何が悪いのか。人工的であることが、品質を保証しているではないか。


「今日は、どこか出かける?」

ユカリが尋ねた。ケンジは、少し考えた。出かけるべきだろうか。しかし、どこに? すべての場所は、同じだった。公園も、美術館も、レストランも、すべてが完璧に管理され、最適化されていた。どこに行っても、同じ完璧さが待っていた。変化がなかった。予測不可能な要素がなかった。ケンジは、かつて若い頃、旅行中に道に迷ったことを思い出した。地図を見誤り、目的地とは反対方向に歩いてしまった。それは不便だった。時間を無駄にした。しかし、その迷った道で、彼は偶然、小さな古書店を見つけた。そこで一冊の本を買った。それは、彼の人生に影響を与える本だった。もし道に迷わなければ、その本には出会わなかっただろう。今、ケンジは道に迷うことができなかった。ナビゲーションシステムが、常に最適な経路を提示した。偶然は、排除されていた。予定外の出来事は、発生しなかった。


「公園に行こうか」

ケンジは、とりあえずそう答えた。ユカリとタカシは頷いた。三人は準備を始めた。しかし、準備といっても、特に何もする必要はなかった。外出に必要な物品は、自動的にバッグに収納されていた。天候は完璧に制御されていたため、傘も上着も不要だった。三人は、ただドアを開けて外に出るだけだった。


街路は、静謐だった。人々が歩いていたが、彼らの足音は吸収され、会話は最小限に抑えられ、環境騒音は完全に除去されていた。ケンジたち家族は、歩道を歩いた。歩道の表面は、適度な弾力性を持ち、歩行時の関節への負担を軽減した。タカシは、父と母の間で手を繋ぎ、楽しそうに歩いた。彼の歩幅は、両親の歩幅に自動的に同期され、家族全員が同じペースで移動した。不協和音は、なかった。


公園に到着した。そこには、他の家族も何組かいた。子供たちが遊具で遊び、大人たちがベンチに座っていた。しかし、その光景には、どこか演劇的な雰囲気があった。まるで、各人が「家族の時間を楽しむ」という役割を演じているかのような。ケンジは、そう感じた。そして、自分もまた、同じ役割を演じているのだと理解した。タカシは、滑り台に向かって駆け出した。ケンジとユカリは、ベンチに座った。二人の間に、適切な距離が保たれた。それは、夫婦の親密さを示しつつ、個人空間を尊重する最適な距離だった。


「あなた、最近、何か考え事してる?」

ユカリが尋ねた。ケンジは、彼女を見た。妻の表情は、穏やかだった。しかし、その目には、わずかな不安の色があった。それは演出されたものではなく、本物の感情だった。ケンジは、それに気づいた。

「いや、特には」

ケンジは、嘘をついた。正確には、真実を隠した。彼は、自分の違和感をどう説明すればいいのかわからなかったからだ。それは明確な不満ではなかった。ただ、何かが欠けているという感覚だった。しかし、何が欠けているのか。彼には、それを言語化する言葉がなかった。

「そう」

ユカリは、それ以上追及しなかった。彼女もまた、同じ感覚を抱いていたからだ。二人は、黙って息子を見守った。タカシは、他の子供たちと一緒に遊んでいた。彼らの遊びは、活発だった。しかし、その活発さは、どこか機械的だった。笑い声が上がり、歓声が響いたが、それらは予定調和のようだった。子供たちは、「遊ぶ」という行為を実行していた。しかし、遊びの本質である予測不可能性、混沌、創造性は、どこにもなかった。


時間が経過した。太陽が、わずかに傾いた。影が伸びた。しかし、その影は、常に適切な濃度と形状に調整されていた。ケンジは、ふと空を見上げた。雲が流れていた。しかし、その流れは、あまりにも規則的だった。彼は、思った。この雲も、制御されているのだろうか。そして、もしそうなら、自然とは何なのか。制御されていないものだけが、自然なのか。それとも、制御されていても、見た目が自然であれば、それは自然と呼べるのか。


「そろそろ帰ろうか」

ユカリが言った。ケンジは頷いた。三人は、公園を後にした。帰路は、往路と同じだった。同じ景色、同じ温度、同じ静寂。ケンジは、歩きながら思った。明日も、同じ日が繰り返されるのだろう。そして明後日も。永遠に。変化のない、完璧な日々が。それは幸福なのか。それとも、停滞なのか。彼には、わからなかった。



2035年11月

研究室の蛍光灯が、白い光を放っていた。その光は、均一ではなかった。わずかにちらつき、部分的に暗い箇所があった。電球の一部が寿命を迎えつつあったからだ。しかし、誰もそれを交換しようとしなかった。研究者たちは、それどころではなかったからだ。


ナオミ・タナカは、三台のモニターに囲まれて座っていた。各画面には、異なるデータストリームが表示されていた。左のモニターは、リアルタイムのトラフィック解析。中央は、機械学習モデルの訓練進捗。右は、エネルギー消費の最適化シミュレーション。ナオミの目は、それらを順番に追っていた。彼女の脳は、高速で情報を処理し、パターンを認識し、次の行動を決定していた。彼女は、疲れていた。しかし、その疲労は、彼女を停止させなかった。むしろ、それは彼女を駆動する燃料だった。


「タナカ、データセットの追加分、アップロードした」

リョウ・カワサキが、隣のデスクから声をかけた。ナオミは頷き、中央のモニターを確認した。新しいデータセットが読み込まれ、モデルの訓練が再開された。精度が、わずかに向上した。0.3パーセント。小さな前進だった。しかし、この小さな前進の積み重ねが、最終的に革命を生む。ナオミは、それを知っていた。


「サトル、電力効率はどう?」

ナオミが尋ねた。サトル・ヤマモトは、別の端末で計算を実行していた。彼は、しばらく画面を凝視した後、答えた。

「まだ目標値には達してない。でも、アルゴリズムを改良すれば、あと15パーセントは削減できる」

「十分だ。進めて」

ナオミの指示は、簡潔だった。サトルは頷き、作業を続けた。三人は、それぞれのタスクに集中した。会話は最小限だった。しかし、その最小限の会話には、深い理解と信頼が込められていた。彼らは、五年間一緒に働いてきた。その間、無数の問題に直面し、無数の解決策を見出してきた。彼らは、互いの思考パターンを理解していた。言葉を交わさなくても、何を考えているのかわかった。それは、効率的だった。


時計が、午前三時を示していた。研究室には、彼ら三人しかいなかった。他のスタッフは、既に帰宅していた。しかし、ナオミたちには、帰宅する理由がなかった。彼らの人生は、このプロジェクトだった。家族も、趣味も、すべてが二次的だった。優先順位は明確だった。リヴァイアサン・ネットワークの開発。それが、すべてだった。


「コーヒー、淹れるか」

リョウが立ち上がった。ナオミとサトルは頷いた。リョウは、研究室の隅に設置された簡易キッチンへと向かった。そこには、古いコーヒーメーカーがあった。彼は、豆を挽き、フィルターにセットし、湯を注いだ。コーヒーの香りが、研究室に広がった。その香りは、人工的に最適化されたものではなかった。豆の種類、挽き方、湯の温度、すべてが不完全だった。しかし、その不完全さが、どこかリアルだった。リョウは、三つのマグカップにコーヒーを注ぎ、ナオミとサトルに手渡した。三人は、短い休憩を取った。


「どこまで来たと思う?」

サトルが尋ねた。ナオミは、マグカップを両手で包み込むように持った。温もりが、手のひらに伝わった。それは、心地よかった。彼女は、少し考えてから答えた。

「全体の、たぶん60パーセント。あと二年あれば、プロトタイプは完成する」

「二年」

リョウが繰り返した。

「そのあと、実装には何年かかる?」

「十年。いや、十五年かもしれない」

ナオミの声は、冷静だった。

「技術的な問題だけじゃない。法的、倫理的、政治的な障壁がある。それらをクリアするには時間がかかる」

「でも、最終的には実現する」

サトルが言った。それは疑問ではなく、確信だった。ナオミは頷いた。

「ああ。実現する。そして、世界は変わる」


三人は、黙ってコーヒーを飲んだ。その沈黙の中で、彼らは未来を想像した。リヴァイアサン・ネットワークが完成した世界。すべてが最適化され、すべての不便が除去され、すべての人々が幸福になる世界。それは、理想郷だった。彼らは、その理想を信じていた。疑いはなかった。後悔もなかった。ただ、前進あるのみだった。


休憩が終わった。三人は、再び作業に戻った。キーボードを叩く音、冷却ファンの回転音、それらが研究室に響いた。時間は、容赦なく流れた。しかし、彼らは時間を気にしなかった。時間は、測定されるべき変数ではなく、ただ経過する連続体だった。重要なのは、進捗だった。前進していること。それだけが、意味を持った。


窓の外で、空が明るくなり始めていた。夜明けだった。しかし、研究室の中では、昼も夜も区別がなかった。蛍光灯の光だけが、永遠に続いた。ナオミは、画面を見つめ続けた。数値が、グラフが、アルゴリズムが、彼女の視界を満たした。彼女は、幸福だった。正確には、充実していた。彼女の人生には、明確な目的があった。達成すべき目標があった。乗り越えるべき困難があった。それらが、彼女に生きている実感を与えていた。彼女は、自分が何かを成し遂げつつあることを知っていた。それは、誇りだった。


しかし、ナオミは、この瞬間を記憶すべきだった。なぜなら、この瞬間こそが、彼女が最も生きていた瞬間だったからだ。これから先、彼女が作り上げるシステムは、この充実感を、世界から奪い去ることになる。皮肉にも、彼女の最大の達成が、達成感そのものを消滅させる装置となる。しかし、この時点で、彼女はそれを理解していなかった。彼女は、ただ前進し続けた。



2126年10月

ケンジは、夜中に目を覚ました。時刻は、午前二時四十三分だった。部屋は暗かったが、完全な暗闇ではなかった。微細な照明が、ベッドの周囲をわずかに照らしていた。それは、夜間の移動を補助し、かつ睡眠を妨げない最適な光量に調整されていた。ケンジは、天井を見つめた。何かが、彼を起こした。夢ではなかった。物音でもなかった。ただ、漠然とした不安が、彼の意識を覚醒させた。


彼は、ベッドから出た。床は、彼の体重を検知し、適度な硬さに調整された。彼は、窓に近づいた。外の景色は、静謐だった。街灯が、規則正しく並び、その光が街路を照らしていた。建物のシルエットが、暗闇の中に浮かび上がっていた。人の姿は、なかった。すべてが、静止していた。ケンジは、その静止した世界を見つめた。そして、思った。この世界は、本当に動いているのだろうか。それとも、ただ動いているように見えるだけなのか。


彼は、リビングへと向かった。照明が、自動的に点灯した。明るさは、夜間モードに設定されており、目を刺激しない程度に抑えられていた。ケンジは、ソファに座った。部屋は、完璧に整理されていた。物が、適切な場所に配置されていた。埃は、存在しなかった。すべてが、清潔で、秩序立っていた。しかし、その秩序が、ケンジを息苦しくさせた。彼は、混沌を求めていた。予測不可能な何かを。しかし、それは、どこにもなかった。


彼は、タブレットを手に取った。そして、ある言葉を検索した。「荒野」。検索結果が表示された。荒野の定義、歴史的な荒野の写真、荒野を題材にした文学作品。ケンジは、それらを閲覧した。荒野とは、人間の管理が及んでいない場所だった。気候は過酷で、資源は乏しく、危険が潜んでいた。しかし、そこには自由があった。制約のない、予測不可能な自由が。ケンジは、荒野の写真を見つめた。岩だらけの大地、枯れた植物、灼熱の太陽。それらは、美しくはなかった。しかし、それらは、リアルだった。


彼は、思った。もし、この世界から脱出できたら、どうなるのか。管理された空間の外に出たら、何があるのか。しかし、それは不可能だった。リヴァイアサン・ネットワークは、全世界を覆っていた。荒野は、もはや存在しなかった。すべてが、最適化されていた。地球の隅々まで。脱出する場所は、なかった。


「パパ?」

タカシの声が、背後から聞こえた。ケンジは、振り返った。息子が、寝室から出てきていた。タカシは、眠そうな顔でケンジを見た。

「どうしたの? 起きてるの?」

「ちょっと、目が覚めちゃって」

ケンジは、微笑んだ。その微笑みは、意図的なものだった。息子を安心させるための。タカシは、父の隣に座った。

「パパも眠れないの?」

「そうだね。たまにあるんだ」

ケンジは、息子の頭を撫でた。タカシは、父に寄り添った。二人は、しばらく黙って座っていた。その沈黙は、心地よかった。しかし、ケンジは思った。この子は、将来、何を求めるのだろうか。この完璧な世界で育った彼は、不完全さを理解できるのだろうか。困難を、挑戦を、失敗を。それらを経験することなく、彼は何者になるのか。


「タカシ、もし、すごく難しいことに挑戦できるとしたら、やってみたい?」

ケンジが尋ねた。タカシは、少し考えた。

「難しいって、どのくらい?」

「うーん、たとえば、失敗するかもしれないくらい」

タカシは、不思議そうな顔をした。

「失敗って、何?」

その質問に、ケンジは言葉を失った。そうだった。この子は、失敗を知らなかった。システムが、すべての失敗を回避していた。タカシがこれまでに経験したすべての「挑戦」は、成功するように設計されていた。彼は、負けを知らなかった。挫折を知らなかった。そして、それゆえに、勝利の意味も、達成の意味も、真には理解していなかった。


「失敗っていうのは、うまくいかないことだよ」

ケンジは、説明しようとした。

「でも、失敗しても大丈夫。もう一度挑戦すればいいんだ」

「でも、もう一度やったら、今度はうまくいくの?」

「わからない。もしかしたら、また失敗するかもしれない。でも、それでもいいんだ。大切なのは、挑戦し続けること」

タカシは、理解できないという顔をした。それは当然だった。彼の世界では、「わからない」という状態は存在しなかったからだ。すべてが計算され、予測され、保証されていた。不確実性は、排除されていた。


「パパ、明日も公園行く?」

タカシが話題を変えた。ケンジは頷いた。

「ああ、行こうか」

「やった!」

タカシは、喜んだ。その喜びは、純粋だった。しかし、ケンジは思った。この喜びは、どこまで本物なのか。それとも、ただ「喜ぶべき状況」に対する条件反射なのか。


二人は、再び寝室へと戻った。タカシは、すぐに眠りについた。ケンジは、ベッドに横になったが、眠れなかった。彼の頭の中で、様々な思考が渦巻いていた。荒野、失敗、不確実性、生の実感。それらは、この世界には存在しないものだった。しかし、ケンジは、それらを求めていた。理由はわからなかった。ただ、何かが欠けていることだけは、確かだった。


翌朝、ケンジは目を覚ました。昨夜の不安は、消えていなかった。それは、彼の意識の底に沈殿し、重い沈黙として存在し続けた。彼は、日常を続けた。朝食を食べ、息子と遊び、妻と会話した。しかし、その日常の中で、彼は自分が何かを探していることに気づいた。それは、亀裂だった。完璧なシステムの、わずかな綻びだった。そこから、もしかしたら、外が見えるかもしれない。外。管理されていない世界。それがまだ存在するのか、ケンジにはわからなかった。しかし、彼は、それを探し始めていた。



2035年3月

アメリカ西海岸、シリコンバレー。巨大なオフィスビルの一室で、会議が行われていた。参加者は、二十名。彼らは、様々な企業と研究機関の代表者だった。テーブルの中央には、ホログラム投影装置が設置されており、そこにリヴァイアサン・ネットワークの概念図が表示されていた。それは、複雑な神経網のような構造を持ち、無数のノードが相互接続されていた。


「これが、我々の提案するシステムの全体像です」

ナオミ・タナカが、立ち上がって説明を始めた。彼女の声は、明瞭で自信に満ちていた。

「リヴァイアサン・ネットワークは、社会のあらゆる側面を統合し、最適化します。交通、医療、エネルギー、食料、すべてが一つのシステムとして機能します。これにより、無駄が排除され、効率が最大化され、人々はより良い生活を送ることができます」


参加者たちは、真剣な表情でホログラムを見つめた。ナオミは、プレゼンテーションを続けた。技術的な詳細、実装のタイムライン、期待される効果。データは、説得力があった。数字は、明確だった。しかし、一人の参加者が手を挙げた。彼は、倫理学者だった。


「タナカさん、一つ質問があります」

「どうぞ」

「このシステムは、人間の選択を制限しませんか? すべてが最適化されるということは、人々が自分で決定する余地がなくなるということでは?」


ナオミは、一瞬だけ沈黙した。それは、彼女が予期していた質問だった。彼女は、慎重に答えた。

「選択の余地は、残ります。ただし、その選択が不合理である場合、システムは代替案を提示します。最終的な決定権は、常に人間にあります」

「しかし、システムの提案が常に最適であるなら、人々はそれに従うでしょう。結果として、選択は形骸化するのでは?」


倫理学者の指摘は、鋭かった。ナオミは、答えを探した。しかし、完全に反論することはできなかった。なぜなら、彼の懸念は、部分的に正しかったからだ。システムが完璧であるほど、人間の判断は不要になる。それは、避けられない帰結だった。


「我々の目標は、人々を幸せにすることです」

ナオミは、やや防御的に答えた。

「そのために、最適な選択を提供する。それが、我々の責任だと考えています」

「幸福とは、自分で選択する自由も含むのではないですか?」

倫理学者は、さらに追及した。


会議室に、緊張が走った。他の参加者たちは、二人のやり取りを見守った。ナオミは、深く息を吸った。彼女は、倫理学者の視点を理解していた。しかし、彼女には別の視点があった。それは、実用主義の視点だった。


「自由は重要です。しかし、自由だけでは幸福にはなれません」

ナオミは、静かに、しかし力強く言った。

「人々は、間違った選択をします。非効率な選択をします。自分自身を傷つける選択をします。我々のシステムは、それを防ぐことができます。人々が本当に望んでいるのは、自由そのものではなく、自由がもたらす結果です。その結果を、我々は直接提供できます」


倫理学者は、反論しようとした。しかし、会議の主催者が割って入った。

「時間の都合上、次の議題に移りましょう。この点については、後ほど個別に議論する機会を設けます」


会議は続いた。技術的な質問、資金調達の話、実装のスケジュール。様々な議題が議論された。しかし、倫理学者が提起した問いは、解決されないまま宙に浮いていた。それは、このプロジェクト全体を貫く根本的な問いだった。しかし、誰もそれに正面から向き合おうとしなかった。なぜなら、その問いに答えることは、プロジェクトの正当性そのものを揺るがす可能性があったからだ。


会議が終わった後、ナオミはオフィスビルの外に出た。カリフォルニアの太陽が、彼女を照らした。空は青く、風は穏やかだった。彼女は、深く息を吸った。新鮮な空気が、肺を満たした。しかし、彼女の心は、重かった。倫理学者の言葉が、頭から離れなかった。自由。選択。幸福。それらの関係は、単純ではなかった。ナオミは、それを知っていた。しかし、彼女は、自分の道を信じていた。人々を苦しみから解放する。それが、正しいことだと。


彼女は、スマートフォンを取り出し、リョウに電話をかけた。彼は、すぐに出た。

「どうだった?」

「技術面は好評だった。資金も集まりそうだ」

「倫理面は?」

ナオミは、少し間を置いた。

「議論になった。でも、問題ない。説得できる」

「そうか」


リョウの声は、安心したようだった。しかし、ナオミは、自分の言葉に確信が持てなかった。本当に、説得できるのか。それとも、説得すべきなのか。彼女は、その問いを自分に投げかけた。しかし、答えは出なかった。


「今夜、研究室に戻る。まだやることがある」

ナオミは、話題を変えた。リョウは頷いた。

「わかった。俺も行く」


通話を終え、ナオミは歩き始めた。街は、活気に満ちていた。車が行き交い、人々が忙しそうに歩き、ビルの工事現場では作業員が働いていた。混沌があった。非効率があった。しかし、生命があった。ナオミは、この光景を見つめた。そして、思った。二十年後、この光景は、どう変わっているのだろうか。リヴァイアサン・ネットワークが完成したとき、この混沌は、秩序に置き換わる。非効率は、最適化される。そして、生命は、どうなるのか。


ナオミは、答えを持っていなかった。しかし、彼女は、歩き続けた。前進するしかなかったからだ。後戻りはできなかった。プロジェクトは、既に動き始めていた。巨大な機械のように、それは自律的に進行していた。そして、ナオミは、その機械の一部だった。停止することは、できなかった。



2126年11月

ケンジは、図書館にいた。それは、物理的な書籍が保管されている、数少ない施設の一つだった。ほとんどの書籍は、デジタル化されていた。しかし、一部の古い本は、まだ紙の形で残されていた。ケンジは、その書架の間を歩いていた。彼の指が、背表紙に触れた。革装の表紙、色褪せたタイトル、ページの端の黄ばみ。それらは、時間の痕跡だった。不完全さの証だった。


彼は、一冊の本を取り出した。それは、二十世紀の探検記だった。ある登山家が、未踏峰に挑戦した記録だった。ケンジは、本を開いた。古い紙の匂いが、鼻腔を刺激した。それは、アルゴリズムでは再現できない匂いだった。彼は、読み始めた。


登山家は、極限の環境に身を置いていた。気温は氷点下四十度。酸素は薄く、風は容赦なく吹いた。彼の体は、凍傷に侵され、体力は限界に達していた。しかし、彼は登り続けた。なぜか。理由は、明確ではなかった。ただ、山がそこにあったから。ただ、自分の限界を超えたかったから。彼は、頂上に到達した。そして、その瞬間、彼は圧倒的な達成感を感じた。それは、死の淵から生還した者だけが味わえる、純粋な生の歓喜だった。


ケンジは、その記述を読みながら、羨望を感じた。この登山家は、生きていた。真の意味で、生きていた。彼は、困難に直面し、それを乗り越え、そして自分自身を証明した。それに対して、ケンジは何をしているのか。彼は、完璧な環境で、何の困難もなく、ただ存在している。彼は、生きているのか。それとも、ただ生かされているだけなのか。


「何を読んでるの?」

声が、背後から聞こえた。ケンジは、振り返った。そこには、一人の女性が立っていた。彼女は、三十代半ばに見えた。黒髪を後ろで束ね、シンプルな服装をしていた。彼女の目は、知的で、どこか探究的だった。

「探検記です」

ケンジは、本を見せた。女性は、微笑んだ。

「古い本が好きなの?」

「最近、興味を持ち始めました。デジタルにはない、何かがあるような気がして」

「わかる。私も同じ」


女性は、ケンジの隣の書架から一冊を取り出した。それは、哲学書だった。

「私は、アオイ。よくここに来るの」

「ケンジです。僕は、今日が初めてです」

「そう。これから常連になるかもね」


二人は、短い会話を交わした。アオイは、図書館の司書だった。彼女は、長年この施設で働いていた。彼女もまた、古い書籍に魅力を感じていた。それらは、過去の人々の思考と感情の記録だった。完璧ではない、不完全な、しかし人間的な記録だった。


「最近、変わったことに気づかない?」

アオイが、突然尋ねた。ケンジは、彼女を見た。彼女の表情は、真剣だった。

「変わったこと、ですか?」

「世界が、静かになってる。人々が、何も求めなくなってる。あなたは、感じない?」


ケンジは、驚いた。彼が抱いていた違和感を、この女性も感じていたのだ。彼は、慎重に答えた。

「感じます。でも、それが何なのか、よくわからないんです」

「私も、わからない。でも、確かに何かが失われてる。それが何なのか、探してる」


アオイの言葉は、ケンジの心に響いた。彼は、初めて、自分と同じ疑問を抱く人間に出会った気がした。二人は、しばらく沈黙した。図書館の静寂が、彼らを包んだ。その静寂は、外の世界の静寂とは異なっていた。それは、思考を促す静寂だった。対話を待つ静寂だった。


「また、来ます」

ケンジは、本を書架に戻しながら言った。アオイは頷いた。

「待ってる。一緒に、探そう。失われたものを」


ケンジは、図書館を出た。外の世界は、相変わらず完璧だった。しかし、彼の中で、何かが変わり始めていた。それは、小さな変化だった。しかし、その小さな変化が、やがて大きな波となることを、彼はまだ知らなかった。


(第四章・了)

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