第三章
「彼らは労苦のうちに生まれる実を食べることができず、虚しく産み出すことがない。」
——イザヤ書 65:23
2060年3月
運命の日は、春分の翌日に選ばれた。それは偶然ではなく、象徴として計算された選択だった。昼と夜の均衡が崩れ、光が闇を凌駕し始める、その境界。人類史における新たな均衡点として、この日付は全世界に告知され、カウントダウンが開始された。メディアは連日特番を組み、街頭には巨大なスクリーンが設置され、人々は期待に満ちた表情でその瞬間を待ち望んだ。完全自動化の達成。全人類の労働からの解放。それは、数千年にわたる人類の夢の実現として、喧伝された。
東京。午前零時。
カウントダウンが始まった。都心の超高層ビル群の外壁に投影された数字が、一つずつ減少していった。十、九、八。広場に集まった数万人の群衆が、その数字を声に出して数え始めた。七、六、五。声は重なり、波となり、都市全体を包み込んだ。四、三、二。そして、一。零時零分零秒。その瞬間、世界中のすべての労働システムが、完全自動化モードへと移行した。工場の生産ライン、物流ネットワーク、医療施設、公共交通機関、電力供給、水道管理、廃棄物処理、農業、建設、すべて。人間の手を必要としないシステムが、同時に起動した。
歓声が、爆発した。
広場に集まった群衆は、腕を上げ、叫び、抱き合い、涙を流した。それは、解放の瞬間だった。束縛からの解放。義務からの解放。苦痛からの解放。人類は、ついに自由になった。そう、人々は信じた。超高層ビルの壁面に、花火が投影された。それは実際の火薬ではなく、光学的に生成された映像だったが、その区別は重要ではなかった。重要なのは、それが美しく、華やかで、祝祭にふさわしい演出だったことだ。音楽が流れ始めた。オーケストラの壮大な旋律が、スピーカーから溢れ出し、広場を満たした。それは、ベートーヴェンの第九交響曲だった。歓喜の歌。人類の勝利の讃歌。群衆は、その旋律に合わせて体を揺らし、声を上げ、一体となった。
リョウ・カワサキは、その広場にいた。
彼は五十二歳になっていた。髪には白いものが混じり、顔には深い皺が刻まれていた。しかし彼の目は、依然として鋭く、知性の光を失っていなかった。彼の隣には、サトル・イノウエがいた。同じく五十二歳。二人は、二十五年前に共にプロジェクトを開始し、そして今、その完成を目の当たりにしていた。群衆の歓声の中で、二人は無言で立っていた。彼らの表情には、複雑な感情が浮かんでいた。それは、達成感だった。同時に、それは、空虚さでもあった。二十五年間、彼らは走り続けてきた。目標に向かって、一直線に。そして今、その目標が達成された。ならば、次は何か。彼らは、答えを持っていなかった。
「終わったな」
サトルが呟いた。リョウは頷いた。
「ああ」
二人の声は、群衆の歓声にかき消された。しかし、その言葉は互いに届いた。終わった。それは、プロジェクトの完成を意味していた。同時に、それは、何か別のものの終わりをも意味していた。しかし、その何かが何であるのか、二人にはまだ明確ではなかった。彼らは、ただ立っていた。祝祭の中心で、孤独に。
群衆の中に、ナオミ・タナカの姿があった。彼女は六十一歳になっていた。プロジェクトのリーダーとして、彼女は二十五年間、すべての責任を背負い続けてきた。彼女の髪は完全に白くなり、顔には疲労の痕が深く刻まれていた。しかし彼女の背筋は、依然としてまっすぐだった。彼女は、リョウとサトルの姿を見つけ、近づいていった。群衆をかき分け、二人の前に立った。
「お疲れ様」
ナオミの声は、穏やかだった。リョウとサトルは、彼女を見た。そして、微笑んだ。それは、疲れた笑みだった。しかし、それは、満足の笑みでもあった。三人は、言葉を交わすことなく、互いを見つめ合った。そこには、共有された記憶があった。不眠の夜、困難な問題、失敗と成功、すべて。それらが、この瞬間へと繋がっていた。
「これから、どうする?」
リョウが尋ねた。ナオミは、しばらく考えた。
「わからない。でも、もう何もする必要はない。システムは、完成した。あとは、勝手に動く」
「本当に、それでいいのか?」
サトルの問いに、ナオミは答えなかった。彼女は、空を見上げた。夜空には、人工衛星が軌道を描き、その光が瞬いていた。それは、リヴァイアサン・ネットワークの一部だった。全世界を覆う、巨大なシステム。それは、人類を管理し、最適化し、幸福を提供する。そして、人類は、もはやそのシステムに介入する必要がなかった。すべては、自動化されていた。
「これが、正しかったのかは、わからない」
ナオミが静かに言った。
「でも、これが、私たちが選んだ道だ。後悔は、しない」
リョウとサトルは、頷いた。三人は、再び群衆の歓声に包まれた。しかし、その歓声は、どこか遠くから聞こえるようだった。まるで、別の世界の出来事のように。三人は、その場に立ち続けた。祝祭の中心で、静かに。彼らは、勝利者だった。しかし、その勝利の重さを、まだ完全には理解していなかった。
2060年3月
世界中で、同じ光景が繰り返されていた。ニューヨーク、ロンドン、パリ、北京、デリー、サンパウロ。すべての主要都市で、人々は街頭に繰り出し、歓声を上げ、抱き合い、涙を流した。メディアは、その様子をリアルタイムで放送し続けた。アナウンサーたちは、興奮した声で、この歴史的瞬間を伝えた。「人類史上最大の転換点」「新しい時代の幕開け」「楽園の到来」。言葉は、華々しく、希望に満ちていた。しかし、その言葉の裏に潜む何かを、誰も察知していなかった。
シドニー。午前二時。
マリア・サントスは、自宅のソファに座り、テレビを見ていた。彼女は三十五歳、二児の母親だった。夫のカルロスは、隣で眠っていた。子供たちも、既に就寝していた。マリアは、一人で、世界中の祝祭を眺めていた。画面には、各都市の歓喜に沸く群衆が映し出されていた。彼女は、その光景を見ながら、複雑な感情を抱いていた。喜び、安堵、そして、わずかな不安。彼女は看護師だった。十五年間、病院で働き続けてきた。夜勤、緊急対応、患者の苦痛、死。それらは、彼女の日常だった。そして今、その日常が終わろうとしていた。明日から、彼女は病院に行く必要がなくなる。すべては、AIと物理的ロボットが担う。彼女は、自由になる。しかし、その自由が何を意味するのか、彼女にはまだ理解できなかった。
「これで、いいのよね」
マリアは、自分に言い聞かせるように呟いた。テレビの中で、アナウンサーが語り続けていた。「人類は、ついに労働の苦しみから解放されました。これからは、誰もが自分のやりたいことに時間を費やすことができます。趣味、芸術、学問、家族との時間、すべてが可能になります」。マリアは、その言葉を聞きながら、自分が何をしたいのか考えた。しかし、答えは見つからなかった。彼女は、ただ看護師であることに慣れていた。患者を助けること、それが彼女のアイデンティティだった。それがなくなったとき、彼女は何者になるのか。
画面が切り替わった。今度は、工場の映像が流れた。巨大な製造ラインで、無数のロボットアームが動き続けていた。それらは、正確に、効率的に、休むことなく製品を組み立てていた。人間の姿は、一つもなかった。アナウンサーが説明を続けた。「この工場では、かつて五百人の労働者が働いていました。しかし今、彼らは全員解放され、自由な生活を送ることができます」。マリアは、その言葉に違和感を覚えた。解放。自由。それは、本当に喜ぶべきことなのか。彼女は、テレビの電源を切った。部屋は、静寂に包まれた。カルロスの寝息だけが、微かに聞こえた。マリアは、窓の外を見た。夜空には、星が瞬いていた。それらは、何千年も前から、同じように瞬いていた。人類の営みとは無関係に。マリアは、深く息を吐いた。そして、ソファに横になった。明日、世界がどう変わるのか、彼女にはわからなかった。しかし、何かが終わったことだけは、確かだった。
2060年4月
一ヶ月が経過した。
世界は、静かになり始めていた。初めの数週間、人々は自由を謳歌した。旅行に出かけ、趣味に没頭し、家族と過ごした。街には、笑顔が溢れていた。しかし、時間が経つにつれて、その笑顔は、徐々に変質していった。それは、充実した笑顔から、空虚な笑顔へと。人々は、気づき始めていた。自由とは、何もしなくてよいということではなく、何をすべきかわからないということだと。
リョウ・カワサキは、自宅の書斎に座り、モニターを眺めていた。彼の前には、リヴァイアサン・ネットワークの稼働状況を示すダッシュボードが表示されていた。すべてのインジケーターが、緑だった。システムは、完璧に機能していた。交通渋滞は発生していない。医療リソースは最適に配分されている。エネルギー消費は最小化されている。廃棄物は効率的に処理されている。すべてが、計画通りだった。リョウは、満足すべきだった。しかし、彼の心には、満足感がなかった。代わりに、空虚さがあった。それは、目的を失った者の空虚さだった。
モニターの片隅に、メッセージ通知が表示された。サトルからだった。リョウは、メッセージを開いた。「暇か?」。短い言葉だった。リョウは、返信した。「ああ」。数秒後、サトルから返事が来た。「会おう。いつもの場所で」。リョウは、立ち上がった。彼は、上着を羽織り、自宅を出た。
いつもの場所とは、二人が二十五年前に頻繁に通っていたカフェだった。それは、研究棟の近くにあり、深夜まで営業していた。リョウとサトルは、そこで何度も議論を交わし、問題を解決し、アイデアを練り上げてきた。そのカフェは、今も営業していた。しかし、店内の様子は変わっていた。かつては、人間のバリスタがカウンターに立ち、客と言葉を交わしていた。しかし今、カウンターには自動化されたコーヒーマシンが設置されており、注文はタッチパネルで行われた。人間の店員は、一人もいなかった。店内には、数人の客がいたが、彼らは皆、静かに座り、スマートフォンやタブレットを見つめていた。会話は、ほとんどなかった。
リョウは、奥のテーブルに座っているサトルを見つけた。サトルは、既にコーヒーを注文しており、カップを手に持っていた。リョウは、彼の向かいに座った。自動マシンがコーヒーを運んできた。それは、小型の車輪付きロボットで、テーブルまで正確に移動し、カップを置いた。リョウは、コーヒーを手に取り、一口飲んだ。味は、完璧だった。温度、濃度、すべてが彼の好みに合わせて調整されていた。しかし、それは無機質な完璧さだった。
「どうしてる?」
サトルが尋ねた。リョウは、肩をすくめた。
「特に何も。システムを監視してるだけだ。でも、監視する必要すらない。すべて自動だから」
「俺も同じだ」
サトルは、カップを置いた。
「最初の数週間は、システムの微調整をしてた。でも、もう完璧に動いてる。俺が手を加える余地は、ない」
二人は、しばらく黙った。店内の静寂が、重く感じられた。かつて、このカフェは活気に満ちていた。研究者たち、学生たち、エンジニアたちが集まり、議論を交わし、アイデアを共有していた。それは、創造の場だった。しかし今、その活気は失われていた。人々は、黙って座り、機械的にコーヒーを飲み、画面を見つめていた。
「これが、俺たちが望んだことなのか?」
リョウが呟いた。サトルは、彼を見た。
「何を言ってる?」
「俺たちは、人々を幸せにしようとした。労働から解放しようとした。でも、今、人々は幸せに見えるか?」
サトルは、店内を見回した。客たちの表情は、無表情だった。彼らは、何も求めていないように見えた。何も期待していないように見えた。ただ、存在しているだけのように見えた。
「まだ、適応期間だ」
サトルが答えた。
「人々は、自由に慣れる必要がある。時間が経てば、自分のやりたいことを見つける」
「本当にそうか?」
リョウの声は、低かった。
「俺たちは、人々から目的を奪った。労働は、苦痛だった。でも、それは同時に、意味でもあった。人は、何かを達成することで、自分の存在を確認する。それを奪ったとき、何が残る?」
サトルは、答えなかった。彼は、カップを手に取り、残ったコーヒーを飲み干した。それは、冷めていた。彼は、カップを置き、深く息を吐いた。
「後悔してるのか?」
「いや」
リョウは、首を横に振った。
「後悔はしてない。俺たちは、正しいと信じてやってきた。でも、正しさが、必ずしも善とは限らない。それを、今、理解し始めてる」
二人は、再び沈黙した。窓の外で、自動運転の車両が整然と通過していった。道路には、渋滞がなかった。信号は、リアルタイムで最適化されていた。すべてが、効率的だった。すべてが、完璧だった。しかし、その完璧さは、どこか冷たかった。生命の息吹を欠いていた。
「ナオミは、どうしてる?」
リョウが尋ねた。サトルは、肩をすくめた。
「連絡してない。でも、たぶん同じだろう。何もすることがない」
リョウは、頷いた。ナオミは、二十五年間、プロジェクトのリーダーとして走り続けてきた。彼女の人生は、このプロジェクトそのものだった。それが完成した今、彼女は何をしているのか。リョウは、彼女に電話をかけるべきか考えたが、やめた。何を話せばいいのか、わからなかったから。
二人は、カフェを出た。外は、夕暮れだった。空は、オレンジ色に染まっていた。それは、自然の夕焼けだった。まだ、空は管理されていなかった。雲は不規則に流れ、風は予測不可能に吹いた。リョウは、その空を見上げた。彼は、何かを感じた。それは、懐かしさだった。かつて、世界はこうだった。不完全で、混沌としていて、しかし、生きていた。
「また会おう」
サトルが言った。リョウは頷いた。二人は、別れた。リョウは、自宅への道を歩き始めた。街は、静かだった。人々は、整然と歩いていた。しかし、その足取りには、目的がないように見えた。彼らは、どこかに向かっているのではなく、ただ歩いているだけのように見えた。リョウは、その光景を見ながら、深い疲労を感じた。それは、身体的な疲労ではなく、精神的な疲労だった。彼は、何かを失ったことを理解していた。しかし、それが何であるのか、まだ明確に言葉にできなかった。
2060年7月
四ヶ月が経過した。
世界は、さらに静かになっていた。初めの興奮は、完全に冷めていた。人々は、自由に慣れ始めていた。しかし、それは健全な慣れではなく、諦めに似た慣れだった。何をすべきかわからない。何を求めればいいかわからない。ならば、何もしない。それが、多くの人々の結論だった。
マリア・サントスは、自宅のリビングで横になっていた。彼女は、もう四ヶ月間、病院に行っていなかった。初めの数週間、彼女は家族と過ごす時間を楽しんだ。子供たちと遊び、夫と旅行に出かけ、趣味の読書に没頭した。しかし、時間が経つにつれて、その楽しさは色褪せていった。子供たちも、もはや彼女を必要としていなかった。彼らは、AIが提供する教育プログラムに従い、自動化されたシステムによって管理されていた。夫のカルロスも、同じように無為な日々を過ごしていた。彼はかつてエンジニアだったが、今は何もする必要がなかった。二人は、会話を交わすことが少なくなっていた。話すべき話題がなかったからだ。
マリアは、天井を見つめていた。白い天井。何の装飾もない、ただの白い表面。彼女は、その白さの中に、自分の未来を見た。それは、空白だった。何も書かれていない、ただの空白。彼女は、かつて看護師として働いていたときを思い出した。忙しかった。疲れた。しかし、充実していた。患者を助けることができた。誰かの役に立つことができた。それが、彼女の誇りだった。しかし今、その誇りは失われていた。彼女は、もう誰の役にも立たなかった。AIが、すべてをより効率的に、より正確に行った。彼女の存在は、不要だった。
「ママ」
娘のソフィアが、リビングに入ってきた。彼女は八歳だった。ソフィアは、タブレットを手に持っていた。画面には、教育アプリが表示されていた。
「何?」
マリアは、体を起こした。ソフィアは、タブレットを見せた。
「この問題、わからない」
マリアは、画面を見た。それは、算数の問題だった。彼女は、説明しようとした。しかし、画面の下部に、ヘルプボタンが表示されていることに気づいた。そのボタンを押せば、AIが詳細な解説を提供する。マリアよりも、わかりやすく、正確に。
「ヘルプボタンを押してみたら?」
マリアは、静かに言った。ソフィアは、頷いた。彼女は、ボタンを押した。画面に、AIの音声付き解説が表示された。ソフィアは、タブレットを持って自分の部屋に戻っていった。マリアは、再び横になった。彼女は、娘にすら必要とされていなかった。その事実が、彼女の心を重くした。
夜が来た。マリアは、ベッドに入った。カルロスは、既に眠っていた。彼の寝息は、規則的だった。マリアは、天井を見つめた。暗闇の中で、何も見えなかった。彼女は、目を閉じた。しかし、眠れなかった。頭の中で、同じ問いが繰り返された。私は、何のために生きているのか。その問いに、答えはなかった。ただ、沈黙だけがあった。
2060年12月
運命の日から九ヶ月が経過した。
世界は、完全に静謐になっていた。人々は、もはや歓声を上げることもなく、涙を流すこともなく、ただ静かに日々を過ごしていた。リヴァイアサン・ネットワークは、完璧に機能し続けていた。すべてのニーズは満たされ、すべての不便は除去され、すべてのリスクは回避されていた。人類は、史上最高の物質的豊かさを享受していた。しかし、その豊かさの中で、人々は何かを失っていた。それは、生の実感だった。
リョウ・カワサキは、自宅の窓から外を眺めていた。街は、整然としていた。建物は清潔で、道路は完璧に舗装され、緑地は美しく管理されていた。人々は、規則正しく歩いていた。しかし、その光景には、生命の息吹がなかった。それは、精巧に作られたジオラマのようだった。完璧だが、死んでいる。
電話が鳴った。リョウは、受話器を取った。
「カワサキです」
「タナカよ」
ナオミの声だった。リョウは、九ヶ月ぶりに彼女の声を聞いた。その声は、疲れていた。
「久しぶりだな」
「ええ。会いたいの。今から、あなたの家に行ってもいい?」
「もちろん」
一時間後、ナオミがリョウの自宅を訪れた。彼女の姿を見て、リョウは驚いた。ナオミは、明らかに痩せていた。頬はこけ、目の下には深い隈があった。彼女は、疲弊していた。リョウは、彼女をリビングに案内し、ソファに座らせた。コーヒーを淹れ、彼女に手渡した。ナオミは、カップを両手で包み込むように持ち、静かに飲んだ。
「どうしてた?」
リョウが尋ねた。ナオミは、カップを置いた。
「何もしてない。ただ、家にいた。考えてた」
「何を?」
「私たちが、何をしたのか」
ナオミの声は、震えていた。リョウは、彼女を見た。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「私たちは、間違えたのかもしれない」
ナオミが言った。
「人々を幸せにしようとした。でも、幸せって何? 不便がないこと? 苦痛がないこと? それが、本当に幸せなの?」
リョウは、答えなかった。彼も、同じ問いを抱いていた。しかし、答えは見つかっていなかった。
「人間は、達成することで、生きている実感を得る」
ナオミが続けた。
「困難を乗り越えること、目標を達成すること、それが意味を生む。でも、私たちは、その困難を奪った。目標を奪った。結果として、意味を奪った。人々は、もう何も達成する必要がない。すべてが与えられる。それは、幸せではなく、死だった」
リョウは、深く息を吸った。彼は、ナオミの言葉を受け止めた。それは、彼自身が感じていたことを、明確に言語化したものだった。
「取り消せない」
リョウが言った。
「システムは、もう自律している。俺たちが止めようとしても、止まらない。世界は、もうこの方向に進んでいる」
「わかってる」
ナオミは、頷いた。
「でも、知ってほしかった。あなたも、同じことを考えているのか、確認したかった」
「ああ。俺も、同じだ」
二人は、しばらく黙った。窓の外で、雪が降り始めていた。それは、この年最初の雪だった。白い結晶が、静かに地面に降り積もっていった。リョウは、その雪を見つめた。それは、美しかった。しかし、その美しさは、どこか悲しかった。
「サトルにも、連絡したほうがいい」
リョウが言った。ナオミは頷いた。リョウは、サトルに電話をかけた。サトルは、すぐに出た。リョウは、ナオミが来ていることを伝えた。サトルは、すぐに向かうと言った。三十分後、サトルがリョウの自宅に到着した。三人は、リビングに集まった。それは、二十五年ぶりの再会だった。正確には、運命の日以来の再会だった。しかし、九ヶ月という時間が、彼らの間に深い溝を作っていた。
「久しぶりだな」
サトルが言った。ナオミとリョウは頷いた。三人は、ソファに座った。しばらく、誰も話さなかった。しかし、その沈黙は、不快ではなかった。それは、互いの苦悩を共有する、静かな連帯の時間だった。
「俺たちは、何を作ったんだろうな」
サトルが呟いた。
「楽園か? それとも、牢獄か?」
「両方だ」
リョウが答えた。
「人々は、物質的には豊かだ。でも、精神的には貧しい。それは、楽園の形をした牢獄だ」
ナオミは、窓の外を見た。雪は、まだ降り続けていた。街は、白く覆われ始めていた。その白さは、純粋だった。しかし同時に、それは、何もかもを覆い隠す、冷たい無だった。
「これから、どうなる?」
ナオミが尋ねた。リョウとサトルは、答えなかった。彼らも、わからなかったから。システムは、自律して動き続ける。人類は、その中で生きていく。それ以外に、選択肢はなかった。
「俺たちは、傍観者になる」
リョウが静かに言った。
「これから起こることを、ただ見ているしかない。介入する力は、もう俺たちにはない」
三人は、再び沈黙した。そして、その沈黙の中で、彼らは理解した。運命の日は、人類の解放の日ではなかった。それは、人類が個体としての生を終え、巨大なシステムの部品へと成り下がった、命日だった。そして、その命日を迎えた責任の一端を、彼らは背負っていた。
雪は、夜通し降り続けた。翌朝、街は完全に白く覆われていた。しかし、その白さの下で、何も変わってはいなかった。システムは、完璧に機能し続けた。人々は、静かに日々を過ごし続けた。そして、世界は、静謐なる楽園へと、確実に近づいていった。
2060年は、終わろうとしていた。絶頂期は、同時に、衰退の始まりでもあった。人類は、最高の幸福感と達成感を味わった。しかし、その瞬間こそが、すべてが終わった瞬間だった。これから先、世界はただ、その静謐さを深めていくだけだった。抵抗する者もなく、疑問を呈する者もなく、ただ、流れに身を任せて。
窓の外で、雪が溶け始めていた。しかし、その溶けた水が流れ着く先には、何も待っていなかった。ただ、次の雪が降る日まで、世界は静かに、冷たく、存在し続けるだけだった。
(第三章・了)




