第二章
第二章
「見よ、わたしは新しいことをする。今や、それは芽生えている。」
——イザヤ書 43:19
2035年3月
研究棟の蛍光灯は、午前三時を過ぎても消えることはなかった。白い光が、長い廊下を均一に照らし、その先にある開発室のガラス扉を透過して、内部の様子を浮かび上がらせていた。六台のモニターが、暗闇の中で青白く光り、その光に照らされた二つの人影が、キーボードを叩き続けていた。空調の音が低く唸り、コーヒーメーカーから立ち上る湯気が、空気清浄機のフィルターに吸い込まれていった。室温は二十一度だったが、誰もそれを快適とは感じていなかった。
リョウ・カワサキは三十二歳だった。彼の目には、四十八時間の不眠が刻まれており、まぶたの下には紫色の影が沈殿していた。しかし彼の指は止まらなかった。コードが、モニターの上を流れ続けた。それはニューラルネットワークの学習アルゴリズムであり、彼が三年をかけて設計してきた予測モデルの、最終調整段階にあった。エラーメッセージが表示された。彼は舌打ちをし、該当する行に戻り、変数を書き換えた。再実行。今度は通った。次の層へ。また、エラー。また、修正。このサイクルは、終わりが見えなかった。しかし彼は止まらなかった。止まる理由がなかった。彼の背後には、積み上げられた空のエナジードリンクの缶が、崩れかけた塔のように聳えていた。
「カワサキ、まだやってんのか」
低い声が、彼の集中を破った。リョウは振り返らなかった。声の主は、隣の席に座るサトル・イノウエだった。三十五歳。彼もまた、同じ時間を共有していた。サトルのモニターには、物流最適化システムのシミュレーション結果が表示されていた。赤い線と青い線が、複雑に絡み合いながら、三次元空間を埋め尽くしていた。それは、配送ルートの最適化問題であり、都市全体の交通流を制御するためのアルゴリズムだった。サトルは、マウスを動かし、特定の交差点をクリックし、パラメータを微調整した。シミュレーションが再起動し、線の流れが変化した。渋滞が、わずかに緩和された。しかし、まだ完璧ではなかった。
「あと少しなんだ」
リョウの声は、かすれていた。彼は水を飲んだ。ペットボトルの水は、室温と同じ温度になっていたが、彼はそれを気にしなかった。喉を通過する液体の感覚だけが、彼に現実を思い出させた。彼は再びモニターに向き直った。コードが、また流れ始めた。
「俺もだ」
サトルが答えた。彼の声には、疲労が滲んでいた。しかしその疲労は、苦痛ではなく、むしろ誇りに近い何かを含んでいた。二人は、言葉を交わさなくなった。キーボードの音だけが、室内に響いた。それは、リズムを持たない打鍵の連続であり、思考が指先を通じて物理的な信号へと変換される過程の、生々しい証だった。
時間が経過した。午前四時が過ぎ、五時が近づいた。窓の外で、空が僅かに白み始めた。しかしその変化は、人工照明に照らされた室内からは、ほとんど認識できなかった。リョウとサトルは、昼と夜の境界を喪失していた。彼らにとって、時間は連続した作業セッションの長さでしか測定されなかった。
「できた」
リョウの声が、静寂を破った。彼は椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いた。モニターには、学習曲線が表示されていた。縦軸は予測精度、横軸は学習回数。曲線は、初めは急激に上昇し、やがて緩やかになり、最終的にほぼ水平な線へと収束していた。精度は九十七・三パーセント。目標値を超えていた。リョウの唇に、笑みが浮かんだ。それは、睡眠不足による神経の昂ぶりと、達成感の混合物だった。彼の心臓は、速く打っていた。それは、生理的なストレス反応であると同時に、純粋な喜びの表れでもあった。
「見せてみろ」
サトルが、席を立ち、リョウのモニターを覗き込んだ。彼の目が、データを追った。数秒の沈黙の後、サトルは頷いた。
「いいな。これなら、プレゼンで使える」
「ああ」
リョウは、ファイルを保存した。保存完了の通知が表示され、彼はようやく肩の力を抜いた。三年間の作業が、一つの数値へと結実した瞬間だった。しかしその瞬間は、長くは続かなかった。次の課題が、既に彼の頭の中に浮かんでいた。予測精度を九十八パーセントに引き上げること。処理速度を二倍にすること。リアルタイム適用を可能にすること。終わりは、なかった。しかし、それが彼を突き動かしていた。
「お前も、終わったか?」
リョウが尋ねた。サトルは首を横に振った。
「あと、二箇所。交差点BとEの信号タイミングが、まだ最適化できてない。車両密度が変動したときの対応が、遅れる」
「今日中に?」
「無理だな。明日までかかる」
サトルは、自分の席に戻った。マウスを握り、シミュレーションを再起動した。赤と青の線が、再び動き始めた。彼の目は、その動きを追い続けた。彼の脳は、膨大な変数の組み合わせを、瞬時に評価し続けた。それは、人間の認知能力の限界に挑む作業だった。しかし彼は、その限界を越えようとしていた。なぜなら、それが可能だと信じていたから。そして、それが必要だと確信していたから。
午前六時。
研究棟の他のフロアで、照明が点灯し始めた。早番の研究員たちが、到着し始めた。エレベーターの音が、遠くで響いた。日常が、再開されようとしていた。しかしリョウとサトルの部屋では、時間は依然として停止していた。二人は、まだ作業を続けていた。
ドアが開いた。
入ってきたのは、ナオミ・タナカだった。二十九歳。彼女は、プロジェクトのリーダーであり、リョウとサトルの直属の上司だった。彼女の髪は、後ろで簡潔に束ねられており、眼鏡の奥の目には、鋭い知性と、同時に深い疲労が宿っていた。彼女もまた、この三年間を、ほとんど休むことなく走り続けてきた一人だった。
「まだいたの」
ナオミの声は、非難ではなく、単なる事実確認だった。彼女は、二人がここにいることを予想していた。彼女自身も、昨夜は自宅に帰らず、別の会議室で投資家向けの資料を作成していた。
「終わりました」
リョウが報告した。ナオミは、彼のモニターに近づき、学習曲線を確認した。彼女の表情は、わずかに緩んだ。
「九十七・三。いいわね。これで、次のフェーズに進める」
「次って、実装ですか?」
「そう。来月から、パイロットプログラムを開始する。対象は、首都圏の医療機関五箇所。あなたのモデルを使って、患者の来院予測と、医療リソースの最適配分を試験する」
リョウは、息を呑んだ。彼のアルゴリズムが、実際の現場で使用される。それは、三年前に彼がこのプロジェクトに参加したときから、夢見ていた瞬間だった。しかし同時に、その現実は、彼に新たな重圧をもたらした。もし、予測が外れたら。もし、システムが誤作動したら。もし、それによって誰かが不利益を被ったら。
「大丈夫よ」
ナオミが、リョウの不安を察したかのように言った。
「テストは段階的に行う。最初は、既存のシステムと並行稼働させて、精度を検証する。問題があれば、すぐに修正できる。あなたのモデルは、十分に成熟してる」
リョウは頷いた。しかし、不安は消えなかった。それは、責任の重さだった。同時に、それは、期待の重さでもあった。彼のコードが、誰かの生活を改善する。そのために、彼は三年間、睡眠を削り、健康を犠牲にし、私生活を放棄してきた。そして今、その対価が、現実のものとなろうとしていた。
「イノウエは?」
ナオミが、サトルに視線を移した。サトルは、モニターから目を離さずに答えた。
「明日には」
「わかった。焦らないで。正確さが最優先」
ナオミは、コーヒーメーカーに向かった。彼女は、三つのカップにコーヒーを注ぎ、リョウとサトルに手渡した。三人は、無言でコーヒーを飲んだ。それは、儀式のようなものだった。疲労を共有し、目的を確認し、再び前進するための、短い休息。コーヒーは、苦かった。砂糖もミルクも入っていなかった。しかし、その苦さは、彼らに覚醒をもたらした。カフェインが血流に乗り、脳を刺激し、思考を鋭敏にした。
「今日の午後、投資家との会議がある」
ナオミが告げた。
「彼らは、具体的な成果を求めてくる。カワサキのモデルと、イノウエのシミュレーション結果を、プレゼンで使う。準備、できてる?」
「はい」
リョウが答えた。サトルも頷いた。二人は、既にプレゼンテーションの内容を、頭の中で何度もリハーサルしていた。どのスライドで、どのデータを見せるか。どの質問が来るか。どう答えるか。すべて、計算されていた。
「いい。じゃあ、午前中は休んで。午後一時に、会議室で」
ナオミは、カップを置き、部屋を出て行った。彼女の背中は、まっすぐだった。しかしリョウには、その背中が、見えない重荷を背負っているように見えた。ナオミは、プロジェクト全体の成否を、一人で担っていた。技術的な成功だけでなく、資金調達、人員管理、外部との交渉、すべてを。リョウは、自分がコードを書くことだけに集中できる立場にいることを、ありがたく思った。同時に、ナオミのような責任を、自分が背負えるかどうか、自信がなかった。
「帰るか」
サトルが提案した。リョウは頷いた。二人は、モニターの電源を落とし、バックパックを手に取り、部屋を出た。廊下は、既に人で溢れていた。研究員たちが、それぞれの部屋へと向かい、新しい一日を始めようとしていた。リョウとサトルは、その流れに逆らうように、エレベーターへと向かった。エレベーターのドアが開き、二人は中に入った。ドアが閉まり、箱は下降を始めた。
「疲れたな」
サトルが呟いた。リョウは同意した。しかし、その疲労は、空虚なものではなかった。それは、何かを成し遂げた後の、充実した疲労だった。二人は、エレベーターの壁に寄りかかり、目を閉じた。数秒後、箱は地上階に到着した。ドアが開き、朝の光が差し込んだ。リョウは、目を細めた。外の世界は、眩しかった。
2035年3月
会議室のテーブルは、長方形だった。片側には、ナオミ、リョウ、サトル、そして他の三人のエンジニアが座っていた。反対側には、五人の投資家が座っていた。彼らは、スーツを着ており、表情は硬く、目は値踏みするように、こちらを見ていた。会議室の壁には、巨大なスクリーンが設置されており、そこにはプロジェクトの概要が表示されていた。タイトルは、「未来の都市基盤:予測型AIによる社会最適化プラットフォーム」。その下には、複雑な図表と、細かい数字が並んでいた。
ナオミが、立ち上がった。彼女は、リモコンを手に取り、プレゼンテーションを開始した。最初のスライドが、スクリーンに映し出された。それは、都市の航空写真だった。道路が網の目のように広がり、建物が密集し、車両が無数に移動していた。その上に、赤い熱分布図が重ねられており、交通渋滞の発生箇所が、明確に可視化されていた。
「現代の都市は、非効率です」
ナオミの声は、明瞭だった。彼女は、スクリーンを指差した。
「交通渋滞、医療リソースの偏在、エネルギーの無駄、廃棄物の非効率的な処理。これらは、すべて予測可能な問題です。しかし、現在のシステムは、リアルタイムでこれらを最適化する能力を持っていません。私たちは、それを変えます」
次のスライド。それは、ニューラルネットワークの構造図だった。無数のノードが、線で結ばれており、その複雑さは、人間の脳を模倣していた。
「私たちのAIは、都市全体のデータを学習し、未来を予測します。交通量、患者の来院数、電力消費、すべてを。そして、それに基づいて、最適な資源配分を提案します。結果として、渋滞は削減され、医療サービスは向上し、エネルギーコストは低下します」
投資家の一人が、手を挙げた。五十代の男性。彼の名前は、山田だった。
「精度は?」
「現時点で、九十七・三パーセントです」
ナオミが即答した。彼女は、リョウに視線を送った。リョウは頷き、次のスライドに切り替えた。そこには、学習曲線と、予測精度の比較グラフが表示されていた。
「これは、過去三年間のテストデータに基づいた結果です。既存の統計モデルと比較して、私たちのAIは、平均で十五パーセント高い精度を達成しています」
山田は、眉をひそめた。
「九十七パーセント。つまり、三パーセントは外れる」
「その通りです」
ナオミは、否定しなかった。
「完璧なシステムは存在しません。しかし、三パーセントの誤差は、現在の人間による判断の誤差よりも、遥かに小さい。そして、AIは学習し続けます。時間が経つにつれて、精度はさらに向上します」
別の投資家が、口を開いた。三十代の女性。彼女の名前は、佐藤だった。
「コストは?」
「初期投資として、十億円を見込んでいます」
ナオミが答えた。
「これには、サーバーインフラの構築、データ収集システムの設置、そして五年間の運用費用が含まれます。しかし、削減されるコストは、年間で約五十億円と試算されています。投資回収期間は、二年です」
佐藤は、メモを取った。彼女の表情は、依然として硬かった。
「リスクは?」
「技術的リスクとしては、予測精度の低下、システム障害、データセキュリティの侵害が考えられます」
ナオミは、準備してきた回答を、淡々と述べた。
「これらに対しては、多層的な冗長性、リアルタイム監視、暗号化技術によって対策します。社会的リスクとしては、雇用の減少、プライバシーへの懸念が挙げられます。しかし、雇用については、新しい職種への移行を支援するプログラムを用意します。プライバシーについては、匿名化技術を徹底し、個人を特定できる情報は一切使用しません」
山田が、再び手を挙げた。
「それで、人々は幸せになるのか?」
その質問は、予想外だった。ナオミは、一瞬、言葉に詰まった。彼女は、技術的な質問には完璧に答えられる準備をしていた。しかし、「幸せ」という、測定不可能な概念については、準備していなかった。
「はい」
ナオミは、短く答えた。
「私たちのシステムは、人々の生活を改善します。渋滞に巻き込まれない。病院で長時間待たされない。電気代が下がる。これらは、すべて幸福度の向上に寄与します」
「それは、不便の除去だ。幸福とは、違う」
山田の声は、低かった。彼は、テーブルに手を置き、ナオミを見つめた。
「人間は、困難を乗り越えることで、達成感を得る。あなたのシステムは、その困難を奪う。結果として、人々は何も達成しなくなる。それは、幸福か?」
会議室に、沈黙が落ちた。
ナオミは、答えを探した。彼女の頭の中で、無数の反論が渦巻いた。しかし、どれも、決定的ではなかった。彼女は、リョウを見た。リョウは、俯いていた。サトルも、黙っていた。誰も、答えを持っていなかった。
「私たちは、技術者です」
ナオミが、ようやく口を開いた。
「私たちの仕事は、問題を解決することです。渋滞を減らし、医療サービスを向上させ、コストを削減すること。それが、社会に貢献する道だと信じています。幸福の定義については、哲学者や社会学者に任せます。私たちは、ツールを提供するだけです」
山田は、しばらくナオミを見つめていた。そして、彼は頷いた。
「わかった。投資する」
その言葉に、会議室の空気が変わった。他の投資家たちも、次々に同意の意を示した。ナオミは、安堵の息を吐いた。彼女は、リョウとサトルを見た。二人も、表情を緩めていた。契約書が、テーブルの上に並べられた。ペンが走り、署名が記された。十億円が、約束された。プロジェクトは、次の段階へと進むことが決定した。
会議が終わり、投資家たちが部屋を出て行った後、ナオミとリョウとサトルは、しばらくその場に残った。三人は、言葉を交わさなかった。彼らは、疲れていた。しかし同時に、興奮していた。目標が、また一歩近づいた。それは、確かな前進だった。
「これで、やれるな」
サトルが、静かに言った。ナオミとリョウは、頷いた。三人は、会議室を出た。廊下は、既に夕暮れの光に染まっていた。窓の外で、太陽が沈もうとしていた。空は、オレンジ色だった。しかし、その色は、自然の摂理によるものであり、計算されたものではなかった。雲は不規則に流れ、風は予測不可能に吹いた。それは、まだコントロールされていない世界だった。リョウは、その空を見上げた。彼は、何かを感じた。それは、期待だった。同時に、それは、わずかな不安でもあった。しかし彼は、その不安を押し殺した。彼には、やるべきことがあった。
2035年9月
パイロットプログラムは、開始から六ヶ月が経過していた。首都圏の五つの医療機関で、リョウの予測モデルが稼働していた。結果は、期待を上回っていた。患者の来院予測精度は、平均で九十五パーセントを維持し、医療リソースの配分効率は、二十パーセント向上していた。待ち時間は短縮され、医師の負担は軽減され、患者の満足度は向上した。データは、すべてを裏付けていた。
リョウは、モニターの前に座り、リアルタイムで更新されるダッシュボードを眺めていた。画面には、五つの医療機関の状況が、色分けされたグラフで表示されていた。緑は正常、黄色は注意、赤は警告。現在、すべてのインジケーターが緑だった。システムは、完璧に機能していた。リョウは、満足感を覚えた。それは、静かで、深い満足感だった。彼の三年間の努力が、ここに結実していた。
電話が鳴った。リョウは、受話器を取った。
「カワサキです」
「タナカよ。A病院で、問題が起きた」
ナオミの声は、緊張していた。リョウの心臓が、跳ねた。
「何が?」
「システムが、今日の午後三時に、小児科の来院患者数を三十人と予測した。実際には、五十人来た。医師が足りない。現場が混乱してる」
リョウは、即座にダッシュボードを切り替えた。A病院のデータが、画面に表示された。予測値:三十人。実測値:五十人。誤差:六十七パーセント。それは、あり得ない数字だった。リョウは、ログを遡った。システムが参照したデータ、使用したアルゴリズム、出力された予測値、すべてを確認した。エラーは、見つからなかった。システムは、正常に動作していた。しかし、予測は外れていた。
「原因は?」
「わからない。調査中。でも、今は対応が先。手動で医師を追加配置する」
「わかりました。すぐに、予測モデルを再検証します」
リョウは、電話を切った。彼は、深く息を吸った。そして、コードを開いた。彼は、過去六ヶ月のデータを、再度分析し始めた。何かが、見落とされていた。何かが、モデルに含まれていなかった。彼は、変数を一つずつ、確認していった。気温、曜日、季節、過去の来院履歴、地域の人口動態、すべて。しかし、異常は見つからなかった。
三時間後、リョウは答えを見つけた。それは、外部要因だった。A病院の近くで、その日の午後、小学校の運動会が開催されていた。予想外に気温が高く、熱中症の子供が続出した。それが、来院患者数の急増を引き起こしていた。しかし、リョウのモデルは、運動会の開催情報を、データソースに含んでいなかった。予測できなかったのは、システムのせいではなく、データの不足だった。
リョウは、ナオミに報告した。ナオミは、理解を示した。
「データソースを拡張する必要があるわね。地域のイベント情報、気象予報、すべてを統合する」
「時間がかかります」
「わかってる。でも、必要なこと。今回の件は、システムの限界を示してる。完璧なんて、ないのよ」
リョウは、頷いた。彼は、疲労を感じた。それは、身体的な疲労ではなく、精神的な疲労だった。彼は、完璧を目指していた。しかし、現実は、完璧を許さなかった。常に、予期しない変数が存在した。常に、見落としがあった。それは、終わりのない戦いだった。しかし、彼は戦い続けるしかなかった。なぜなら、それが彼の仕事だったから。そして、それが彼の情熱だったから。
リョウは、再びコードに向き合った。彼は、データソースの拡張を開始した。地域のイベント情報を収集するAPIを設計し、気象予報データとの連携を実装し、モデルの再学習を準備した。作業は、深夜まで続いた。彼の目は、再び充血し、肩は凝り固まり、背中は痛んだ。しかし、彼は止まらなかった。彼の指は、キーボードを叩き続けた。コードが、流れ続けた。
窓の外で、月が昇っていた。それは、満月だった。明るく、冷たく、そして無関心に、地上を照らしていた。リョウは、一度だけ、その月を見上げた。月は、何も語らなかった。それは、ただ存在していた。リョウは、再びモニターに視線を戻した。彼には、やるべきことがあった。月が何を語ろうと、それは関係なかった。
2035年12月
年末が、近づいていた。研究棟では、忘年会の準備が進められていた。しかしリョウとサトルは、その準備には参加していなかった。二人は、依然として開発室に残り、作業を続けていた。パイロットプログラムは、成功と呼べる段階に達していた。予測精度は安定し、医療機関からの評価も高かった。次の段階として、対象を十の機関に拡大することが決定していた。同時に、サトルの物流最適化システムも、実地テストに入る準備が整っていた。プロジェクトは、順調だった。
しかし、リョウの心には、わずかな違和感が残っていた。それは、A病院での予測失敗の記憶だった。彼は、その後、データソースを拡張し、モデルを改善し、同様の失敗を防ぐための対策を講じた。しかし、完璧には、まだ遠かった。常に、未知の変数が存在した。常に、予測不可能な事象が起こり得た。それは、システムの限界だった。同時に、それは、現実の複雑さだった。
「カワサキ」
サトルが、声をかけた。リョウは、顔を上げた。
「今年、終わりだな」
「ああ」
「来年は、もっと忙しくなる」
「だろうな」
二人は、短い会話を交わした。そして、再び沈黙が戻った。しかし、その沈黙は、不快ではなかった。それは、互いの存在を確認し、互いの労をねぎらう、静かな連帯の時間だった。二人は、三年間を共に過ごしてきた。不眠の夜を、困難な問題を、達成の瞬間を。そのすべてを、共有してきた。言葉は少なかったが、理解は深かった。
ドアが、ノックされた。ナオミが入ってきた。彼女の手には、三つの缶ビールが握られていた。
「お疲れ様」
ナオミは、ビールをリョウとサトルに手渡した。三人は、缶を開け、乾杯した。金属が触れ合う音が、小さく響いた。ビールは、冷たかった。それは、久しぶりに感じる、心地よい冷たさだった。三人は、無言でビールを飲んだ。それは、祝杯であり、同時に、慰労の酒でもあった。
「来年、どうなると思う?」
ナオミが尋ねた。リョウは、しばらく考えた。
「わからない。でも、もっと大きくなる。このシステムが、もっと多くの場所で使われる。そして、もっと多くの人が、恩恵を受ける」
「それは、いいことか?」
ナオミの問いは、単純だった。しかし、その裏には、山田の質問が潜んでいた。幸福とは何か。不便の除去は、幸福をもたらすのか。達成感は、どこから生まれるのか。リョウは、答えを持っていなかった。彼は、ただ技術者だった。問題を解決することが、彼の仕事だった。しかし、その先に何があるのか、彼は考えたことがなかった。
「いいことだと、思う」
リョウは、ゆっくりと答えた。
「少なくとも、今よりは、マシになる」
ナオミは、頷いた。サトルも、同意した。三人は、再びビールを飲んだ。そして、缶を置いた。空になった缶は、机の上に並べられた。それは、三年間の象徴だった。無数の空の缶、無数の不眠の夜、無数のコード。そのすべてが、この瞬間へと繋がっていた。
「来年も、頼む」
ナオミが言った。リョウとサトルは、頷いた。三人は、立ち上がった。彼らは、開発室を出て、忘年会の会場へと向かった。廊下には、他の研究員たちの笑い声が響いていた。それは、一年の終わりを祝う、人間らしい音だった。リョウは、その音に、少しだけ心を和ませた。しかし、彼の頭の中では、既に来年の計画が、動き始めていた。拡張するシステム、増加するデータ、向上する精度。終わりは、なかった。しかし、それでよかった。なぜなら、それが、彼の生きる意味だったから。
夜が、更けていった。研究棟の窓から、街の明かりが見えた。その明かりは、不規則に点滅し、人々の営みを示していた。それは、まだ管理されていない、雑然とした世界だった。しかし、リョウたちは、その世界を変えようとしていた。一つずつ、確実に。効率を高め、無駄を削り、最適化を進める。そして、いつか、すべてが完璧に機能する世界を、実現する。それが、彼らの夢だった。
しかし、彼らは知らなかった。その夢の先に、何が待っているのかを。彼らは、幸福を量産しようとしていた。しかし、その過程で、幸福そのものの意味が、変質していくことを。彼らは、人間を助けようとしていた。しかし、その助けが、人間から何かを奪っていくことを。彼らは、情熱を持って、前進していた。しかし、その情熱こそが、未来の静謐なる楽園を、準備していたことを。
2035年は、終わろうとしていた。胎動期は、まだ続いていた。人間は、まだ熱かった。そして、その熱が、やがて冷えていくことを、誰も予見していなかった。
(第二章・了)




