7話 ざまぁといえば悪役令嬢
ヒールの音が硬質な音を立てる。少し薄汚れたフロアタイルの上を、赤いピンヒールが踊る。
その主人は、一昨日までくたびれたスーツに身を包み、周りの顔色を伺って、その身を小さく丸めていた地味な女だとは到底思えないほどの堂々とした歩き方だった。
その身に纏うのも、グレーの地味なものではなく、一見して高級感溢れるブランド物のスーツである。
白を基調とした少し光沢のあるタイトな姿で、その姿とは不釣り合いなオフィスビルの廊下を練り歩く。
「おはようございます」
通りかかる社員に輝くような笑みを浮かべて挨拶をすると、声を掛けられた男性は顔を赤らめて、ぽぉっと見送る。
泉美はそんな姿を見てクスクスと可愛らしい笑顔を送ると、さらに赤面して、ついには下を向いてしまった。
そして目当ての場所、自分が所属する部署の扉の前に辿り着くと、笑みを深めて、古臭い扉を押し開いた。
「ご機嫌よう! みなさま! 気持ちのいい一日の始まりですわ!」
始業の一時間前だというのに仕事を始めていた部署の社員たちは突然の乱入者にポカンとした表情を浮かべる。地味で目立たない女だった泉美が、まるで別人のように華やかで自信に満ちた姿で現れたことに、誰もが言葉を失っていた。
「い、泉美……さん? どうしたんですか、その格好は……」
一番に口を開いたのは、泉美の隣の席でいつも彼女に雑務を押し付けていた先輩社員だった。その声には、戸惑いと、わずかな嫉妬の色が混じっていた。
それに対して冷たく一瞥するだけで、何も答えない。
泉美は一歩、フロアの中央に進み出た。そして、彼女の視線は部署の一番奥、窓際に鎮座するデスクへと向けられた。
この部署の絶対的な支配者であり、泉美の地獄の日々の張本人。陰湿なパワハラと、飲み会でのしつこいセクハラで、多くの女性社員を精神的に追い詰めてきた男。西園寺課長である。
今日も彼は、得意げな顔で新聞を広げ、部下たちの働きを監視する姿勢を見せていた。
しかし、泉美が目に入るや否や、西園寺課長の顔が、新聞紙を離れるよりも早く驚愕と怒りの表情に変わった。
「おい、泉美! なんだそのふざけた格好は! ここは遊び場じゃねぇんだぞ! 社会人としての常識が……」
いつものように大声で怒鳴りつけようとする西園寺課長。だが、彼の言葉は、泉美の冷たく、そしてどこか楽しげな声によって遮られた。
「まぁ、お待ちになって、課長」
泉美は、まるで舞台の主役のように優雅に微笑んだ。その笑みは、これまでの彼女からは想像もつかない、人を射抜くような強さを持っていた。
「私の格好がふざけている? いいえ、これはわたくしがわたくし自身を取り戻した姿でしてよ」
そして、泉美はピンヒールの音を響かせながら、ゆっくりと課長のデスクの前まで歩み寄った。デスクの上には、泉美が一昨日残業して仕上げた書類の束が置かれている。
「それよりも課長。わたくし、本日をもちまして退職させていただきますわ」
フロアが静まり返る。一斉に課長と泉美に視線が注がれる。
「は、はぁ!? なんだと!? 勝手にふざけたこと言ってんじゃねぇ! 今、手が足りないのはわかってるだろうが! お前なんかに辞める権利はねぇんだよ!」
西園寺課長は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「あら、ご心配なく。引き継ぎ資料は作っておりますわ」
泉美は、持っていたブランド物のバッグから、一通の封筒を取り出した。それを西園寺課長のデスクへと叩き付ける。
「これは…?」
「見て分かりませんの? 仕事を部下に押し付けることしか能がない、無能なあなたには読めないのかしら? これは(退職届)と書いてありますのよ? お勉強をなさって?」
西園寺課長はその勢いに気押されて無意識に椅子に座らされ、背をのけぞらせた。
そして、泉美はさらに声を強めた。
「わたくしがこの会社、そしてあなたに仕えた日々は、地獄のような日々でしたわ」
座り込んだ課長を睥睨するように一瞥すると、周囲の社員たちにも聞こえるよう、一段と声を張り上げた。
「皆様ご存知の通り、西園寺課長は、わたくしに、それはもう熱心にご指導くださいましたわね」
彼女は、あえて「ご指導」という言葉を選び、周囲の社員たちの間に小さな動揺が走るのを待った。
「先日の飲み会でのお話ですわ。課長は、わたくしのスカートの下を、それはもうしつこくご覧になろうとされ、さらに『お前はいつも地味で色気が無いから、もっと派手な格好をして、俺を楽しませろ』と仰いましたわね」
課長の顔から、血の気が引いた。周囲の社員たちも、顔を見合わせる。
「……な、何を根拠のないことを言ってるんだ! お前、それセクハラで訴えられるぞ!」
椅子に座ったまま、縋るように、泉美に手を伸ばした。
その手を叩くように払いのける。
「触れるな下郎! この身が汚れますわ! ご心配なく。わたくし、あなたのお言葉を全て録音させていただいておりますの」
泉美は、バッグから一台の小さなレコーダーを取り出し、西園寺課長の目の前に提示した。
「わたくしが地味な服装をしていたのは、あなたがわたくしに注目しないようにするため。いわば、下衆の視線を避けるための鎧でしたのよ?」
蔑むような冷笑が、泉美の怒りの深さを表しているようだった。
「そして課長。わたくしへのパワハラ、セクハラの証拠は、わたくしがこの一年間にわたって記録した日報、メール、そしてこの音声記録をもって、本日、本社の人事部と、わたくしの新たな弁護士を通じて正式に提出させていただきますわ」
西園寺課長は、全身から力が抜け、言葉を失っている。
「……お、お前……最初から……」
「ええ、最初からですわ。わたくしは、あなたの奴隷ではありませんの。そして、このくそったれな会社の不条理という名の舞台を去るために、すべてを準備しておりましたのよ?」
泉美は、最後に満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、かつて彼女が地味なスーツで小さくなっていた時には決して見せなかった、解放と勝利の笑みだった。
「わたくしは、もう悲劇の主人公ではありませんの。わたくしは、泉美。新しい人生の悪役令嬢ですわ」
ヒールの硬質な音を立て、泉美はフロアを出ていく。
「皆様、ごきげんよう。わたくしは、幸せになりますわ。そして、あなた方の明日が、今日よりも良い日になりますように」
泉美が去った場所に外から「おーーほっほっほっ!」とまるで貴族令嬢──否、悪役令嬢が上げそうな高笑いが尾を引いて、古臭い扉が静かに閉まり、フロアには、西園寺課長の項垂れた姿だけが残されていた。
泉美が去った後の部署内は、シンと静まり返っていた。誰もが息を潜め、座り込んだまま顔面蒼白になっている西園寺課長を見ている。
彼の周囲には、もはや絶対的な支配者のオーラはなく、ただの哀れな中年男性が座っているだ。
映像は早送りされて、泉美が退職からわずか1時間後、部署のフロアに、背広姿の男たちが三名、厳しい顔つきで現れました。人事部長と、コンプライアンス担当の役員、そして一人の男性弁護士である。
「西園寺課長。直ちにお話を伺います。至急、会議室へ」
人事部長の冷たい声が響き渡った。西園寺課長は、ようやく立ち上がりはしたが、足元がおぼつかない様子であった。会議室に連行される彼の後ろ姿に、部下たちは一切の同情を見せない。むしろ、どこか安堵したような空気が部署全体に広がった。
会議室では、泉美が提出した詳細な証拠が次々と提示されていく。
セクハラとパワハラに関する高音質の録音データが具体的な日時と場所、そして課長の威圧的な言葉や不適切な発言が克明に記録されているのが一目瞭然であった。
さらには日報とメールの連携記録から、無理な残業、休日出勤を強要した記録まで、そして泉美が担当外の雑務を押し付けられていた証拠。
西園寺課長は、全ての証拠を突きつけられ、何も言い訳ができなかった。彼の過去の行動の全てが破滅のための布石になっていたことを悟り、絶望の表情だけを浮かべるしかできない。
翌日には、全社員に向けて「西園寺元課長に対する懲戒解雇処分」が通知される。
役職の剥奪と懲戒解雇、退職金は全額不支給。
社内掲示には、ハラスメント行為が原因であることを明確に示唆する形で処分が公開されたのだった。
fin
◇◆◇◆◇◆◇
《ブラボー!ぶらぶらぼーー!》
《ざっまぁーーーw これは確かにざまぁぁぁぁぁ》
《8888888888》
《8888888》
《これ以上のザマァ展開がリアルであるだろうか! まさにドラマだ。スタンディングオベーションは否めないw》
《悪役令嬢wwwwマジさいっこぅw》
《これはだれも予想できなかったw》
『ぅぼぁぁぁ……ぁーぁー……』
《あらら、イズミンの魂がw》
《まさか、自分の体を使って悪役令嬢されてたら、そらそうなるわw》
《どうか安らかに……》
『いやぁ、この時はまだこっちに馴染めてなくて、会社辞めたいってスレッドに、どんな辞め方がいいか安価して、その通りにしたんだよねぇ』
『ぁ……ぁぁ……』
《安価wwwww》
《安価した奴、まさか本当にやるなんて思ってなかっただろうなぁ》
《安価は絶対w ここまで徹底してるのは流石に初めてだがw》
《やばいwwww腹がwww死ぬwwww》
《あの課長の顔よwwww さらに追撃でここで晒されるとか。ザマァの追撃ぱねぇww》
『これでイズミンの鬱憤も昇天したんじゃないかな?』
『ぁぁぁぁ、あほかぁぁぁぁぁぁ! なんで悪役令嬢!? というかあの高そうなスーツとかアクセとかバッグとかはどうしたんですかぁぁぁ!』
『スーツとかアクセサリーとかバッグは買った。貯金を使ってちょちょってね。サイズとかは魔法でちょちょっとね? ちなみにきちんと保存してあるから、機会があったらまた着ようね』
『着ないですよぉ!! 何やってんですか! あんたはぁぁ! どうしようどうしよう! これ訴えられたりしない!? 会社から損害賠償とか!』
《パニックぅw やっばい! あだ……腹いた……》
《誰かウイルス感染者の日記みたいになってるなw 気持ちは大いにわかる》
《いやぁ、最高でした! っていうか。イズミンさん化粧して着飾ったらむっちゃ美人でびっくりした!》
『だーいじょうぶ! 弁護士の人からはスムーズに話が通ったって連絡来てたし』
『でも! あの証拠とか!? 私全くしらないんですけど!?』
『魔法でちょっとね。けど、偽造とかじゃなくて、イズミンの記憶領域から出した映像と音声だから、間違いはないよ。さらにいうとメールだとか日報とかは、なぜか手元にあったんだよねー。不思議だなぁー。魔法かな?』
《魔法かなじゃねぇーwww 魔法だろうよw》
《やっばぁ!魔法ってそんなこともできるんだなぁ!》
《ってことは、魔法を使えば今まで迷宮入りの事件とかも解決しそう! 名探偵ミスティ!》
《体はエルフ、頭脳もエルフ! その名はミスティ!》
《それはもう、エルフなんよw》
『もう……お嫁にいけない……』
《お嫁にwww いや、悪役令嬢なら最後はハッピーエンドだからw》
《悪役令嬢の定義が乱れるw 昨今の悪役令嬢って不遇なだけの被害者ポジが大半だよね。もう、それ普通の不遇な令嬢だろとww》
《悪い魔法使いに悪役令嬢wwぴーん!よし、何かが湧いてきたぞ!》
《それはもう使い古された物語だぞw》
『それじゃ、今日の授業もここまでにしようか。副担がガチ凹みして、猫に癒されにいっちゃったし。次回はHRってことで、質問コーナーと水を出せた人に対してのご褒美発表の回にするよ。それじゃ、みんなご挨拶!』
《きりーつ》
《れーーい》
《とつげきぃぃ!》
《突撃は会社だけにしろよww》
キーーンコーーンカーーンコーーン!
【ミスティの楽しい魔法教室】
登録者、23万人




