5話 ミスティアが魔法を広めたいワケ
「にゃんにゃんにゃんにゃーーん? にゃんにゃん? にゃーーーん」
不思議なリズムの歌が、午後の光が差し込むのどかな和室に響く。畳の上にうつ伏せになった泉美は、足首をパタパタと楽しげに揺らしながら、ご機嫌で猫じゃらしを振っていた。
そのふさふさの先端めがけて、生後間もない子猫が小さな手足を必死にばたつかせて飛びかかる。
「んふふふふっ! 可愛いでちゅねー! ほらほら、こっちですよぉー」
敷居に寄りかかるように座っていたミスティアは、やれやれといった表情で肩をすくめた。その青い瞳は、無邪気に猫と戯れる弟子を見つめている。
「随分と上機嫌だね。僕の可愛い弟子よ」
「わかりますかー? 半年ぶりなんですよ。丸一日全く予定の入っていない日が。しかも、家に念願の猫ちゃんがいるなんて、夢みたいです」
「不意に現代社会の闇をぶち込んでくるのはやめてくれるかな? 初めて魔法を教えた時よりも嬉しそうなのが癪だけど、まぁいいよ」
泉美は猫じゃらしを一旦止め、くるりと師匠の方を向いた。子猫は拍子抜けしたように、フサフサの先端をじっと見つめている。
「ところで、その……魔法を配信で広める話なんですけど」
泉美は少し真剣な面持ちになった。
「師匠はなぜ魔法を広めようとしているんですか? お金だったら……」
ミスティアは少し目を細め、フッと笑みを浮かべた。
「魔法でいくらでも稼ぐ手段はある。そう聞きたいんだね?」
泉美がこくりと頷くと、ミスティアは笑みを深める。
「いい機会だ。魔法を広めようと思ったきっかけを語ろうか」
ミスティアは姿勢を正し、少し真剣な声で語り始めた。
「君も知っているだろうけど、僕は異世界からこの世界にやってきた異邦人だ。だから、この世界の倫理観とかは特に考えてはいない。もちろん、決して超えてはいけないラインは自分の中に持っているけどね?」
泉美は膝を抱え、真剣に聞いている。子猫は、泉美の足元でゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「僕が世界に魔法を広めたい理由。それは、まず一つにこの世界の歪みを正すためかな?」
ミスティアは言葉を切り、畳の感触を確かめるように指先で軽く叩いた。
「そして、もう一つ。これが最も重要な理由かもしれない。この世界に魔法という新たな技術を齎し、地球人類に進化を促すためだ」
「進化、ですか?」
泉美は目を丸くした。
「そう。かつてこの世界にも魔法、あるいはそれに類する何かがあったんだろう。だが、万人が平等に扱える科学という技術へと傾倒していき、個人の素養に頼った魔法は廃れていった」
ミスティアは立ち上がり、窓の外、晴れた空を見上げた。
「泉美はすでにある程度理解しているかもしれないが、世界はギブアンドテイクで成り立っている。魔法を行使するためには魔力を。食物を食べる限り、死すれば土に帰って栄養へ。だが、科学技術から生み出されたものを受け取るだけで、人類は世界にほとんど返すことはない。それが澱みとなり、世界をどうしようもなく汚染していっている」
ミスティアは泉美に微笑みかけた。
「この世界には新たな魔法使いが必要なんだ。君のように、現代のテクノロジーと魔法を組み合わせられる、新しい世代の魔法使いがね。世界をもう一度、誰もが顧みて、少しでも恩返しをする魔法のような場所にするために。それが、僕が魔法を配信で広めたい、たった一つの、壮大で、少しだけロマンチックな理由だよ」
ミスティアは重力を感じさせない動きでふわりと浮き上がり、泉美の向かいに座った。その瞳には、世界の未来に対する確かな期待が宿っている。
「ロマンチック……って言うには、ちょっと壮大すぎませんか?」
泉美は戸惑いを隠せない。膝に飛び乗ってきた子猫が、再び喉をゴロゴロと鳴らしている。
「だって、師匠。魔法を広めた結果、悪用する人が出てきたらどうするんですか?」
鋭い指摘だった。配信というオープンな方法で魔法を広めることには、常にその危険が伴う。
ミスティアは穏やかに笑い、子猫を優しく撫でた。
「もちろん、その危険性は承知しているさ。でもね、泉美。現代社会は、過去とは比較にならないほど情報に溢れ、監視の目も多い。昔のように、人知れず強大な魔法を身につけ、秘密裏に世界を支配するなど不可能だ」
彼女は片手で、宙に小さな火花を散らした。蛍が光るような、弱い炎だ。
「僕が教えるのは、生活を豊かにするための基礎の魔法。君がやっているように、配信で誰もが練習できるレベルのものだ。誰かを傷つけるための大魔法は、そう簡単には身につけさせない。大半の人は、日常の小さな便利さに使って満足するだろう。ちょっとした修繕や、体調管理、天気予報の精度を上げることとかね」
「じゃあ、もし、自力で強大な魔法に至る人が出てきたらどうするんですか?」
泉美は不安と好奇心の籠った瞳で返答を待つ。
「その時は、僕の役割は終わる」
ミスティアはきっぱりと断言した。
「世界は、彼ら地球の魔法使いたち自身の手で救われるべきだ。僕のような異世界からきた魔法使いは、ただ道筋をつけたに過ぎない。もしその魔法使いたちが、君のような、明るく、正しい心を持った人物だったら……それは、僕にとって最高の喜びだよ」
ミスティアは目を細め、泉美の頭をそっと撫でた。
「君は、この世界の最初の弟子として善悪を見極め、定めて行動するといい。僕は、君という弟子が、世界に魔法の素晴らしさと楽しさを伝える、最初の『道標』になってくれると信じているんだ」
泉美は、自分の膝の上で寝息を立て始めた子猫を見つめた。
「師匠……ありがとうございます。ちょっと、自分の役割の重さに、震えが来ました」
「安心するといいよ。君が世界に教えるのは、まずは『にゃんにゃんニャーの歌』で猫を呼ぶ魔法からでいいんだから」
ミスティアは再びからかうように笑い、和室には久しぶりののどかな空気が戻ってきた。
──泉美。ごめんね? けど、本当の理由はまだ言えないんだよ。君が背負うには途轍もない重いものだからね。
「それにしても師匠って酷い人ですよね」
ふと漏らした泉美の言葉に、ミスティアの胸が大きく跳ねた。
「な……何がだい?」
ミスティアは動揺を悟らせないよう平静を装ったが、微かに声が掠れた。
「だって、もしも悪い人が巨大な魔法を使えるようになったとしても、自分は知らんぷりするっていうんですもん」
その一言に、ミスティアは安堵した。
「それはそうさ。この世界の問題は本来この世界の住人が解決する問題だ。僕はきっかけを与えるだけにすぎない。それにね? 五千年も生きていると、倫理観なんていうものは幻想だと気付かされるものなのさ」
「ごっ……!? それはなんていうか、まぢですか?」
泉美の驚愕に満ちた声が響き、膝の上の子猫がぴくりと耳を動かした。
「マジだよ。君にとっては壮大な話だろうけどね。五千年という時間を経験すると、善悪の境界線なんて、見る時代や文化、そしてその時の状況によっていとも簡単に書き換えられる、ただの『ルール』に過ぎないって気づくんだ」
ミスティアは畳に手を置き、少し身を乗り出した。
「僕の目的は、この世界の歪みを正し、進化を促すこと。その過程で、どんな小さな『善』や、どんな大きな『悪』が生まれても、それはこの世界の人々が、新しいルールに基づいて裁き、乗り越えるべき課題だ。僕は、ただのきっかけを提供したに過ぎない」
それはまるで、遠い宇宙から地球を見つめる観測者の視点。泉美は、ミスティアの途方もない距離感に、どう返事をしていいか分からなかった。
「……五千年ですか。じゃあ、師匠はその五千年の間に、たくさんの人の生き方とか、争いとか、見てきたんですね」
「もちろん。数えきれないほどにね」
「じゃあ、……師匠にとって、私が魔法を広めるのって、その五千年の中の、ほんの小さな気まぐれに過ぎないんですか?」
泉美は、自分が真剣に取り組んでいることが、師匠にとっては壮大な歴史の通過点に過ぎないのかと、少しだけ寂しさを感じた。
ミスティアは一瞬、言葉を詰まらせた。そして、すぐにいつものような、からかうような笑みを浮かべた。
「それは違うよ、泉美」
彼は、子猫を撫でる泉美の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「君はね、この五千年の中で、僕が初めて本気で『教えたい』と思った弟子だよ。そして、僕がこの世界で唯一、『守りたい』と思った存在だ」
泉美は、ミスティアの真剣な眼差しに息を飲んだ。彼の瞳には、偽りのない優しさが宿っているように見えた。
「それにね。世界に魔法の楽しさを知ってもらうこと。君が『魔法の楽しさ』を広める姿を見届けること。これも、五千年生きた僕にとって、とてもロマンチックで、重要な理由の一つなんだ」
泉美は顔を赤らめ、膝の上の子猫を抱きしめた。
「もう……師匠って、本当にずるい人ですね」
「さあ、ずるい師匠の僕が言うんだから、今日はもう難しい話は終わりにして、猫と遊ぶといい。明日の配信の準備は、小さな光の生み出す魔法でいいだろう?」
「はい!」
泉美は満面の笑みで頷いた。ミスティアの壮大な目的は彼女の想像を超えていたが、ミスティアが自分を信じて、そして大切にしてくれているという事実は、彼女の心に確かな勇気を与えた。
「それじゃあ、また明日。師匠も猫ちゃんと遊びますか?」
「いや、僕は遠慮しておくよ。代わりに、君が僕の分もたっぷり遊んであげてくれ」
ミスティアは立ち上がり、和室を出て行った。
──泉美。君には背負わせられないんだよ。
ミスティアの心の中には、泉美に向けられた偽りのない愛情と、誰にも言えない秘密が、複雑に絡み合っていた。




