18話 法と魔法
イズミンが顔を真っ赤にしながら配信している頃、ミスティアはアメリカ大使館から日本が誇る治安維持機関である警察庁へと訪れていた。
エーオンからは弁護士も同席を勧められたのだが、ミスティア謹んで辞退した。
語るべきは法ではないからだ。
警視庁本部庁舎、最上階。特別応接室。
日本国政府の中枢を担う外務大臣と警察庁長官を前に、ミスティアは優雅に紅茶の香りを楽しんでいた。
テーブルの上には、手つかずの茶と、分厚い書類の束──入国管理法に関する誓約書や外国人登録の申請書──が山積みにされている。
「……単刀直入に申し上げましょう、ミスティアさん」
口火を切ったのは、苦虫を噛み潰したような顔をした警察庁長官だった。
「貴女の身柄については、米国およびエーオン氏の介入により、超法規的措置として『外交的賓客』に準ずる扱いとすることで合意しました。……ですが、日本は法治国家です。最低限の形式が必要なのです。貴女の国籍と身分証の提示を求めます」
外務大臣も困り果てた顔で続く。
「ええ。どこの国の出身であれ、入国管理局を通していないのは違法状態。これ以上の特例は、国際社会に対する示しがつかないのですよ」
二人の大物が頭を下げる異様な光景。
ミスティアはことりとカップをソーサーに戻すと、困ったように眉を下げた。
「やれやれ。お役所仕事というのは、どこの世界でも融通が利かないものだね」
「融通の問題ではありません! これは国家の主権に関わる──」
「あのね、長官殿」
ミスティアは穏やかに言葉を遮り、窓の外を指さした。
「そもそも前提が間違っているんだよ。僕は『外国人』じゃない。君たちは、空を渡る鳥に入国審査を求めるのかい?」
突拍子もない問いかけに、官房長官は言葉を詰まらせた。
「は……? 鳥、ですか?」
「そう、渡り鳥だよ。彼らは季節ごとに国境を越え、大陸を渡る。君たちは彼ら一羽一羽を捕まえて、パスポートの提示を求め、不法入国だと騒ぎ立てるのかい?」
ミスティアは妖艶に目を細め、人外の美貌で二人を射抜く。
「僕はエルフだ。この星の生き物ですらない。生物学的な分類で言えば、君たちと渡り鳥の間柄よりも、僕と君たちの方が遥かに遠い。野生の鷲やツバメがビザを持たずに空を飛ぶのを許容しておきながら、さらに遠い存在である僕に『人間のルール』を当てはめようだなんて、随分と傲慢な話じゃないか?」
二人の大臣は絶句した。
物理法則をねじ曲げ、空を飛び、魔法を行使する存在。それを「外国人登録法」の枠に押し込めようとすること自体が、そもそも土台無理な話なのだ。
ぐうの音も出ない正論(暴論)を突きつけられ、部屋には重苦しい沈黙が流れた。
だが──。
ミスティアはそこで言葉を切ると、ふと部屋の隅、入り口付近で直立不動のまま控えていた一人の男に視線を向けた。
「……もっとも。渡り鳥だって、好き好んで畑を荒らしたいわけじゃない」
ミスティアの声色が、ふわりと柔らかいものに変わる。
「そこにいる、柏原さんと言ったかな」
突然名を呼ばれ、柏原はビクリと肩を震わせた。
彼はネゴシエイターとしての任務を果たせなかった責任を感じ、顔面蒼白で立ち尽くしていたのだ。
「は、はい!」
「君はずいぶんと熱心だったね。僕に対して拡声器も使わず、喉を枯らして必死に呼びかけていた。……ああいう実直な仕事ぶり、僕は嫌いじゃないよ」
ミスティアはソファから立ち上がると、大臣たちではなく、一介の公務員である柏原の元へと歩み寄った。
「君の上司たちは『形式』が欲しいだけなのだろう? そして君は、僕という『訳のわからない存在』を書類に書き込めと命令されて、胃に穴が開くほど悩んでいる」
「そ、それは……仕事、ですので……」
「ふふ、正直だね」
ミスティアは楽しげに笑うと、テーブルに戻り、一枚の真っ白な書類を手に取った。
「パスポートも戸籍もない。僕はどこの国家にも帰属しないからね。けれど──『私がここに在る』という証明くらいはしてあげよう」
ミスティアはその白魚のような指先を書類の上に押し当てた。
瞬間。
ボウッ、と書類が淡い金色の光を放つ。
紙が燃えるのではない。指先から溢れ出した魔力が、繊維の一本一本にまで浸透し、見たこともない幾何学模様の『紋章』を焼き付けたのだ。
それはインクや電子署名とは次元の異なる、魂の刻印だった。
「これは……?」
官房長官が身を乗り出す。
「魔力署名だよ。この世界で言うところの、DNA鑑定と虹彩認証を合わせたよりも遥かに確実な身分証明だ。僕が『ミスティア・フル・ローゼユグドラ』であるという、絶対の証拠さ」
ミスティアはその書類を、大臣ではなく、柏原の手へと丁寧に手渡した。
「これを『登録証』として保管しておきたまえ」
柏原は震える手で、その温かい書類を受け取った。
魔法使いは、国家のシステムを否定しながらも、現場で汗を流す人間の立場を慮り、最大限の譲歩──というよりは『助け舟』を出してくれたのだ。
「か、感謝……いたします……!」
柏原の言葉に、ミスティアは満足そうに頷いた。
「なに、礼には及ばないよ。君のような人間が、上からの理不尽な命令で苦しむのは忍びないからね。……さて」
ミスティアは踵を返し、出口へと向かう。
すれ違いざま、彼女は悪戯っぽく柏原の耳元で囁いた。
「今度会うときは、拡声器と機動隊なしでお願いするよ。そうしたら、君の勧めてくれた『涼しい部屋で冷たいお茶』をご馳走になってもいい」
「──ッ! はい、必ず!」
柏原の顔に、初めて生気が戻った。
ミスティアはひらひらと手を振りながら、呆然とする大臣たちを尻目に部屋を出ていく。
「渡り鳥は気まぐれだ。だが、止まり木の居心地が良ければ、また羽を休めに来るかもしれないよ。──この国が、優しい森であり続けるならばね」
パタン、と扉が閉まる。
部屋に残されたのは、魔法の紋章が輝く一枚の紙と、安堵の息を吐く大人たち。
官房長官は、柏原が大切そうに抱える書類を見つめ、深々とため息をついた。
「……完敗だな。法も理屈も通用せん。だが、最悪の事態は回避できた、か」
「ええ。それに……」
外務大臣が苦笑する。
「『止まり木の居心地が良ければ』か。……どうやら我々は、とんでもない珍客に気に入られるよう、国を挙げて『おもてなし』を考えねばならんようですな」
窓の外には、変わらぬ東京の夜景が広がっていた。
警視庁を後にしたミスティアは、用意された公用車を丁重に断り、夜の霞が関を独り歩いていた。
官庁街特有の無機質な静寂。深夜のビル風が、彼女の金髪を悪戯に揺らす。
だが、その静寂は唐突に破られた。
キィィィィッ──!
耳障りなスキール音と共に、前後の交差点からワンボックスカーが急発進し、ミスティアを挟み撃ちにする形で停車した。
ナンバープレートは偽装、車種は特定されにくいありふれた業務車両。
スライドドアが乱暴に開くと、そこから目出し帽にタクティカルベストという重装備の男たちが、音もなく、しかし迅速に展開した。
手には銃火器ではなく、捕獲用のネットランチャーと、即効性の麻酔弾が装填された特殊銃が握られている。
「……やれやれ。柏原くんとは大違いだね」
ミスティアは足を止め、呆れたように肩をすくめた。
男たちの動きは洗練されている。日本の警察やヤクザのものではない。軍隊特有の無駄のない動き。
彼らは言葉を発しない。ただ、ハンドサインだけで意思疎通を行い、瞬く間にミスティアとの距離を詰める。
狙いは明らかだ。交渉ではなく、拉致。
彼らの背後にある大国──西の大陸に座する巨大な龍が、この「特異点」を自国の檻に囲い込もうと、強硬手段に出たのだ。
「確保! 抵抗は許さない!」
リーダー格の男が、奇妙なイントネーションの日本語で叫ぶと同時に、四方から麻酔弾が発射された。
逃げ場はない。物理的には。
だが、ミスティアは動かない。
避ける素振りすら見せず、ただ冷ややかな瞳で宙を見つめた。
「『止まれ』」
言葉は、物理的な質量を持って世界に作用した。
ミスティアの肌に触れる寸前、麻酔弾の針がピタリと空中で静止する。
それはまるで、動画の再生を一時停止したかのような、不可解な光景だった。
「なっ……!?」
男たちが動揺する隙を与えず、ミスティアは指揮者のように指を振った。
「君たちの国の作法は随分と荒っぽいね。挨拶代わりに針を撃ち込むのが流行りなのかい?」
男たちの背後にある組織──国家安全に関わる特務機関の影を感じ取りながら、ミスティアは嗜虐的に微笑む。
「お返しするよ。僕は君たちほど野蛮じゃないから、命までは取らないけれど」
彼女が指を弾いた瞬間。
空中で停止していた無数の麻酔弾が、180度反転し、撃った本人たちめがけて倍の速度で射出された。
「ぐあッ!?」
「がっ……!」
悲鳴を上げる間もなかった。
自らが放った麻酔により、屈強な工作員たちは糸が切れた人形のように路上へ崩れ落ちていく。
わずか十数秒。
霞が関の一角で起きた襲撃は、一方的な蹂躙によって幕を閉じた。
「……君たちのボスへの報告は正確に上げることだね。手出しはできないと……そうでないと、君たちのボスにはこちらから挨拶に出向くことになる。君たちの流儀に合わせた、ね?」
意識を失いかけたリーダー格の男を見下ろし、ミスティアは冷たく告げた。
男は薄れゆく意識の中で、眼前の少女が人間ではなく、畏怖すべき魔人であることを悟りながら闇へと沈んでいった。
◇◆◇◆◇◆◇
路地を抜け、大通りに出たところで、滑るように一台の高級車が近づいてきた。
エーオンが手配した迎えの車だ。
後部座席に身を沈めると、心地よい革の匂いと共に、サイドテーブルに置かれたスマートフォンが振動した。
『やあ、無事に終わったかい? 少し騒がしい音が聞こえた気もしたが』
スピーカーから流れるエーオンの声は、どこか楽しげだ。
「ああ、少しばかり躾のなっていない赤い野犬に絡まれただけだよ。適当にあしらっておいた」
『ははは、それは災難だったね。──だが、その不機嫌を吹き飛ばす良いニュースがある』
エーオンの声が、ビジネスマンのトーンに切り替わる。
『例の件だ。アメリカ本国へ打診していた「願い」について、返答が来たよ』
ミスティアは興味深そうに目を細めた。
警視庁へ向かう前、彼女はエーオンを通じてアメリカ政府にある「取引」を持ちかけていたのだ。
「ほう。随分と仕事が早いね。で、答えは?」
『感触は上々、というより「諸手を挙げて歓迎」というやつだ。ホワイトハウスもペンタゴンも、君という存在に極めて強い関心を持っている』
エーオンは一呼吸置き、勿体ぶるように続けた。
『君が求めた「全世界への魔法配信のための通信インフラ」、及び、魔法の普及。これらについて、合衆国政府は全面的に協力する用意があるそうだ』
「それは重畳。話が早くて助かるよ」
『ただし、条件として──君の技術の一部、特に先ほど見せた「重力制御」の理論について、共有を求めている。まあ、当然のバーター取引だね』
ミスティアは窓の外、流れる東京の夜景を見つめながら、フッと笑った。
技術の共有。彼らにとっては喉から手が出るほど欲しい超技術だろうが、ミスティアにとっては基礎魔術の応用でしかない。
「構わないよ。彼らが理解できる範囲で、少しばかり教科書を見せてあげよう。どうせ、魔法の真髄までは模倣できないさ。ただし、言っておくけど、兵器転用はゆるさないよ? そこだけは曲げないことだけは留意しておいて欲しい」
『それはもちろん! 私も死の商人だけはごめんだからね。交渉成立だ。細かい調整は私がやっておく。……ああ、それと』
エーオンの声が、少しだけ低くなる。
『大陸の方々が随分と強引に動いているようだ。君の身の安全は君自身で守れるだろうが、例の少女たちが君に取っての弱点になりかねない。私の所有する民間軍事会社を回しておこう。いいかい? 信用のおける奴らだよ』
「僕の方でも気かけるつもりだっただ。本当に気が利くね。頼んでおくよ、友よ」
『Good luck, Wizard. 次のステージは、もっと広い空になるぞ』
通話が切れる。
ミスティアはシートに深く身を預け、目を閉じた。
日本政府を手玉に取り、中国の工作員を退け、アメリカ政府と手を組んだ。
目まぐるしい一夜だったが、盤面は確実に彼女の望む形へと整いつつある。
「さて……」
彼女は小さく呟き、夜空の向こう──月を見上げた。
「人類は、魔法という翼を得てどこまで抗えるのか……時間はもうそこまで来ている」
黒塗りの車は、静かに夜の闇へと溶け込み。東京の人混みを窓に移して去っていった。




