第9話 「寄港する商隊と、紙一重の友情」
朝靄が港を包むころ、フェリシア領の小さな港に一行の商隊が静かに入港した。帆布に描かれた紋章は目立たないが、荷の量と隊列の整い方は商売の筋の良さを示している。アリアは小走りで波止場に向かった。ナナがその後ろを冷静に歩く。
「姉様、今日は表でよろしく」
「うん、分かってる。あ、ライオネルさんは来てるかな?」アリアは胸を弾ませる。交易仲介――ライオネル・セドリックが約束どおり物資を運んできたのだ。だが、こんな時ほど気をつけねばならない。
波止場には、数人の傭兵と商人たち。中央には痩身で落ち着いた青年、ライオネルがいた。彼の服は簡素だが、手元の文書袋と穏やかな視線は信頼感を与える。アリアを見ると、彼は軽く頭を下げた。
「フェリシア領の皆様、届け物です」ライオネルは声を張らず、しかし確かに言った。荷は米、小麦、薬草、缶詰には似ぬ保存食の箱がきれいに積まれている。
「来てくれてありがとう! みんな、大丈夫かな?」アリアが笑顔で迎えると、港の周りに集まった領民たちから歓声と安堵の顔が広がった。ナナは手際よく受領書に目を通し、逐一確認していく。
その時、背後で低い声。
「歓迎の挨拶に、少しだけ話を」――見れば、黒い外套の一団が波止場の隅に消え入るように立っていた。隠密が前回差し出した文書を守るための仲間か、それとも別の者か。ナナの目が細くなる。
ライオネルは周囲を見渡し、小さく合図した。やがて数人の男たちが荷の検査に来る。それは公正な手続きに見えたが、ナナはひっかかるものを感じた。荷の一箱が、書類を入れるには不自然だ。帳簿の感触が、彼女の背筋を走る。
「その箱、中を見せてもらえますか?」ナナが声をかける。
「問題ありません」ライオネルは即座に応じ、箱を開けた。だが中には、本当に医薬品や穀物だけが入っている。見れば、帆布の下に小さな封筒が挟まれているのをアリアが見つけた。
「誰かが置いたのかな?」アリアが封を開けると、中には小さな紙片。「匿名の応援者より。王都の内通者は今も動いている。気をつけよ」とだけあった。筆跡は乱暴だが、意味は明瞭だ。
ナナは眉を寄せる。
「誰が近づけた。警護を強めて」彼女はそう指示する。港の端では、さりげなく近づいてくる影があった。動きに不自然さがある。監視の若者が風を切って影に近づくと、影は素早く姿を消した。
「また、手が回ってるのね」ナナは小さく声を漏らす。相手は顔を見せずに撹乱を続けている。だが一方で、ライオネルの商隊は今この領地にとって必要だった。目の前の困窮を埋めるものを受け取るのか、それとも危険を取って受け取らぬのか――アリアの胸はふくらんだ。
「まずは物資を町へ。店と医師に分けて配給式をするよ。今日の顔役、任せて」アリアは元気に宣言する。ナナは短く頷いた。
*
配給式の最中、宴席の準備を手伝っていたアリアはふと離れた一角で見慣れぬ女性と目を合わせた。女性は白いスカーフで首元を隠し、目だけがよく見えた。どこか悲しげだが、確かな意志を感じさせる瞳だ。
「あなた、誰?」アリアが声をかけると、女性は一瞬戸惑ったように振り返り、次の瞬間に笑って言った。
「匿名をお送りした者よ。名は言えぬが、ここに来る道筋は見える。あなたたちのやり方は――私が育った町にも希望をくれた」
アリアは胸が熱くなった。だが同時に恐れもある。誰が味方か分からぬ時代、親切は刃にもなる。
「でも、警戒は怠らないで。王都の手は簡単には離れない」女性は低く囁き、そっと手に小さな箱を押し付けた。箱の中には小さな石ころと共に一枚の写真――製鉄所の裏手で撮られた暗い写真。写真の端には赤い印が滲んでいる。女性はにっこりと笑ったように見えたが、その笑顔はすぐに消えた。
「ありがとう、でも……」アリアは言葉を飲んだ。ナナが向こうから手招きする。配給は順調に行われ、町は静かな喜びに満ちていた。
だが港の波止場では、別の静けさが生まれていた。商隊の荷の一つが不自然に少ない――本来は二十箱あるはずの保存食が、なぜか四箱分足りない。ライオネルが数を再確認すると、顔色を変えた。
「これは……」彼は低く呟く。誰かが箱をすり替えたのだ。だが替えられた中身は、ただの空箱ではない。封筒が一つ、角に挟まれていた。その封筒には、王都の官吏の署名に似た痕跡がある。
「罠か、内通者か」ナナは即座に判断する。商隊の一部が夜間に別動して、王都に直接連絡を取る手筈になっている可能性もある。影が動いたのだ。だが、ライオネルは落ち着いて周囲を見渡し、味方になり得る者へと目を送った。
「私は、あなた方を助けるつもりで来た。だが、これが、王都が介入するための口実になってはいけない」ライオネルの声が静かに波止場に響く。彼は商隊の隊長に手を向け、低く話し込んだ。この男もまた、王都の情報網に触れる可能性がある。
「ナナ、今すぐ隠密と連絡を。港の出入りを監視して」アリアの命令が冷静に飛ぶ。ナナは頷き、指示を走らせる。港はすぐに封鎖され、商隊の誰も出られないように配置がかけられた。
その時、扉が乱暴に開いて若い商人が駆け込んできた。顔は青ざめ、手には血の滲む包みを抱えている。包みを開けると、中から出てきたのは――製鉄所の倉庫で燃え残った書類の一部だ。彼は息を切らしながら口を開いた。
「敵に奪われた! だが、一部を運び出した。王都の密命書が混じってた。奴らは我々を脅し、協力させていた」彼の言葉に、波止場の空気が鋭くなる。ライオネルの目が光った。
「では、奴らの目的は明白だ。物資を表舞台に置き、同時に証拠を奪って介入の理由を作る」ナナが冷静に整理する。彼女の頭の中で、既に次の手が組み立てられている。
「今すぐ、この書類を隠す。港の奥にある納屋に隠して。誰にも見せるな。ただし、信頼できる者だけに限る」ライオネルが決断する。彼の顔には緊張が刻まれているが、そこに信頼も滲む。
アリアは小さく頷き、住民の中から三人の若者を選んで書類を託した。彼らは震える手で紙を抱え、納屋へと消え去った。だが、その背後でアリアは一つの決意を固めた。
「ナナ、私、港の見張りをやる。人の顔を見て話しかける。誰がどんな反応をするか、私にも見えることがあるはず」彼女は笑顔を作りながらも、目は真剣そのものだ。ナナは短く唇を綴り、しかし微笑んだ。
「それでこそ、あなたの強みだ」ナナが囁く。二人はそれぞれの場所で動き、同じ目的に向かっている。港に渦巻く不穏な風は留まらない。しかし、今夜は少なくとも一つの事実が確かめられた――味方は増えている。匿名の一片、商隊の勇気、そしてライオネルという人の存在。紙一枚を守ることが、やがて大きな波紋を作るだろう。
波止場の灯りが静かに揺れている。アリアは港を歩きながら、小さな紙片をぎゅっと握りしめた。ナナは納屋の前で若者たちの顔を見て、静かに頷く。夜は深いが、二人の決意はさらに深まっていた。
遠くの王都では、誰かがまた一枚、勝ち誇ったようにほくそ笑んでいるかもしれない。だが、フェリシア領の港にはもう、守るべき笑顔と守るべき数字が揃っている。どちらかが欠けても、戦いは成り立たないことを、二人は知っているのだった。




