第8話 「掟をめぐる波紋と、商人の微笑み」
朝霧が谷を満たし、ベルノート草の葉先に露が光る。
私は焚火の灰を手で払って立ち上がった。昨夜決めたことを、今日から実行に移す日だ。村の人々を集め、採取の掟を提示し、王都に対しても私たちの条件を明確にする——それが私の使命だった。
集会は村の古い広場で開かれた。丸太を並べた簡素な席に、アンナや地元の採取人、数名の村長格が腰を下ろす。ライナスは控えめに後ろに立ち、周囲の警戒を怠らない。朝の空気を裂くように、私の声が広場に響く。
「皆さん。今日は、ベルノート草の採取について話し合いたい」
最初は囁きが多かった。王都の干渉を恐れる者、収入源を失うことを恐れる者、素直に協力を願う者——思惑は様々だ。私は一つずつ、真摯に向き合った。なぜ保護が必要なのか、どのように分配するのか、採取の頻度や方法、禁漁のような休止期間の重要性。事例を挙げ、失敗の例を語り、昔伝わる採取の掟を掘り起こす。
「土地は一度壊れると戻らない。ベルノート草は、我々の祖先と土地が育てたものです。短期的な利益で刈り尽くすのではなく、持続する形で収益を分け合いましょう」
アンナの目が震え、隣の老人が黙ってうなずいた。徐々に、広場には同意の波が広がる。やがて、集会は合意へと収束していった。私は小さく胸を撫で下ろす。
だが、村の外縁で細い足音が近づき、見慣れない影が姿を見せた。黒い外套をまとった中年の男。胸には商人の紋章——馬と秤が図案化された金属の徽章が光っている。ライナスがすぐに男を囲い、私も拳を引き締める。
「おや、楽しそうな会だね。私も一言、口を挟ませてもらおう」
男は満面の笑みを浮かべ、すっと手を差し出した。だがその笑みは、商売人のものだ。
「私はベルチェ商会の使節、ハルヴァンと申します。王都の委託を受け、ベルノート草の買い付けや流通を担当しています。聞けば貴女が香りの調合で名を馳せたと。われわれは量産と安定供給で、王都へも安定した供給が可能です。貴女と村の皆さんには、相応の対価を提示いたします——?」
アンナが唇を噛む。村人たちの目が一気に商人へ向く。確かに、金は即座の救いだ。だが私の胸はざわつく。商人という存在は、時に土地の声を軽んじ、効率だけを追う。
「ありがとうございます。ただし、私たちの条件があります」私は静かに言った。事前にまとめた掟の要点を一つずつ読み上げる。採取制限、種の保護区域、季節的休止、収益の一定割合を村のインフラに還元すること——どれも土地と人を守るために不可欠な条項だ。
ハルヴァンの顔に、微かな笑いが戻る。だがその笑いはやがて薄くなり、目つきが変わった。
「なるほど、独自の“掟”ね。面白い。だが王命とは別に、我々商会の契約もある。もし君たちが協力しないなら、王都は別の供給地を探すだろう。市場は冷徹だ。収益性が優先される」
言外に含まれる脅しに、村の空気が一瞬にして冷えた。アンナが堪えきれずに立ち上がる。
「お前たちのやり方でこの地を壊されたことがあるんだ。金だけで土地は戻らない。私らはただ生活を守りたいだけなんだ!」
ハルヴァンは肩をすくめる。
「分かるよ。だが時代は変わる。君たちのやり方も、王都の要請も。妥協点を見つけようじゃないか」
ライナスが前に出る。彼の声は低く、鋭い。
「妥協とは何だ? 土地を掘り尽くして利益を回収することか? ここは人の生きる場所だ。商会の論理だけを通すなら、我々は守る」
ハルヴァンは笑みを消し、わずかに薄笑いを浮かべた。
「盾持ちの騎士か。いや、私は戦を好まぬ。だが王都の命令は重い。お嬢さん——そう、ミレイユ嬢。君が王都側の“顔”になって、条件の折衝を進めるべきだ。ここで頑なに反発しても、何も得られない」
その言葉には巧妙さがある。私は一呼吸置き、冷静に答えた。
「私が仲介することは厭いません。だがその場合、我々の掟が最低ラインです。絶対に侵せないことを踏まえてください」
広場に静寂が落ちる。ハルヴァンは私の視線を見透かすように、微笑んだ。
「いいだろう。書面を差し上げよう。だが一つだけ忠告しておく。王都の風は強い。大きな船はいいが、時に小舟は潰される。君はその小舟でどれだけ耐えられるか――見ていて楽しませてもらおう」
彼はそう言い残し、手にした書類を軽く林檎のように差し出す。誰が受け取るかと見れば、村長が渋々それを受け取った。紙の上には商会の条件と数字が整然と並んでいる。魅力的な数字もある。村人たちの目が揺れる。
私は夜になって一人、焚火の前で思いを巡らせた。商人の笑顔の裏にある計算。王都の圧力。村を守るための掟。それらが一つの天秤で揺れている。私の香りは人を癒すが、政治と市場の駆け引きには無力ではいられない。
「ミレイユ、どうするつもりだ?」ライナスが静かに聞く。
「まずは、書面の全条項を精査する。妥協できる部分と絶対に譲れない部分を示し、村と王都、商会と交渉する。私だけでなく、皆の声を反映させる。それから――」
私は小瓶を取り出し、ラベンダーを一滴垂らした。香りは静かに夜を満たす。
「――必要なら、ここに来る“客”の本質を見極める。顔の笑みだけを信じてはいけない」
遠くで、ハルヴァンの馬車が谷を離れていく音が聞こえた。商人の影は消えるが、その微笑みは消えない。私たちの選択は、これから先に続く。掟を守るために、私は立ち向かわねばならない。
ベルノート草の葉が、月光に銀色の縁取りを作る。香りは優しく、しかしこの夜はどこか冷たい。私たちの戦いは、もう、はじまっている。




