第7話 「採取地へ、そして薫る秘密」
王都での日々は、思ったよりも忙しかった。
王宮での試験供給が始まり、私――ミレイユ・アルシェは、朝から夕まで医療部屋や調合所を駆け回った。香りを求める声は多く、嬉しい反応もあれば、冷たい視線や問い詰めるような質問もあった。だが一番重かったのは「資源の確保」の声だ。ベルノート草の供給が鍵を握ると、誰もが口を揃えた。
「辺境の採取地を一度、現地調査してくれ」
セルジュは淡々と命じた。表の理由は「供給の安定性確認」、裏の理由は言葉に濁りがあった。だが命令は命令だ。私は渋々頷いた。
ライナスはすぐに同行の用意をしてくれた。彼の表情は、不安と覚悟が交じっている。辺境で私がやってきたことを、王都のためにも説明する必要があるのだろう。だが、その道中で私は別の不安に気づく。――辺境で見つけた“香り”が、ここでは資産だと誰もが思う。
夜明け前、私たちは馬車に荷を積み、王都を出た。ライナスは軍装のままではなく、辺境での行動に合わせた軽装だ。私は小瓶を幾つか厳重に包み、胸に抱いた。
道中、ライナスがぽつりと言った。
「セルジュはな……お前の力を“国家に属する武器”として見ている。俺はそれを許さないが、今は手を打たねばならん。君が嫌なら、俺が盾になる」
彼の言葉は真っ直ぐで、重い。私の胸にそっと灯るものがある。
「ありがとう。だけど、私も自分で考えて動くよ。誰かに操られるつもりはない」
馬車は丘陵を越え、やがて見慣れた景色が広がった。ベルノート草が自生するという湿地帯――カーヴェからさらに西へ下った小さな谷。風が少し湿り、空気に土の匂いが混じる。ここには、私がアトリエを開く前に見た片鱗が残っていた。
採取地点に着くと、そこには年老いた採取人が待っていた。皺深い顔に、草で編んだ笠を被った女性――アンナだ。彼女の目は鋭く、私を見るとすぐに言った。
「ベルノート草か。王都の者が来るとは思わなかった。おまえ、香りの娘だな?」
私は軽く会釈をした。アンナの手には小さな籠があり、中に青黒い葉が見える。
「長いことこの地で採ってきた。だが最近、草の育ちが悪くなってな。あんたが来てから村の人間が採りすぎてるのだろう、って噂になっとる」
「採りすぎ……ですか」
その言葉を聞き、胸が冷たくなった。香料は需要が増えれば採取圧も増す。無計画な採取は資源を枯渇させる。私は素直に首を振る。
「私のせいで、誰かが困っているのなら、それは直さなければいけない」
アンナは私の目をじっと見つめ、しばらく黙った。やがて彼女は籠から一枚の葉を取り出し、私に差し出した。
「触ってみな。ベルノート草は、ただの草じゃない。触れれば分かる。人の心と土地の声を返す。だが、それを乱せば、土地が怒るんだよ」
葉に触れた瞬間、甘くて少し苦い香りが指先を満たす。胸の奥で、幼い日の風景のようなものがちらついた――水の流れる音、子どもたちの笑い、古い炉の温もり。私は息を呑む。
(この草……ただ香るだけじゃない。記憶に触れるような層がある)
アンナの声が続く。
「だからこそ、外の者が手を出すのは厳しい。採り方にも節度がいる。伝統を守りながら使う。それがこの地の掟だ」
その言葉に、私の胸は一層引き締まった。王都は資源を求めるだろう。だが、私が大切にしてきた“香りの優しさ”を奪われては意味がない。守るべきは人の心と土地の調和だ。
「アンナさん。私を信じてほしい。王都の要求と、この地の守り方を両立させる方法を探します。無理に採り尽くしたりはしません」
アンナはゆっくりと頷く。だがその目には、まだ疑念が残っていた。
採取の作業を手伝いながら、私は感じた。ベルノート草は、ただの原料ではない。土壌と深く繋がり、周囲の生き物たちとバランスを保っている。間違った採取は、草だけでなく、周囲の生態系を崩す危険がある。
その夜、私は小さな焚火の前で調合の試作をした。ベルノート草の精油をほんのわずかだけ抽出し、それを小瓶に入れて嗅いだ。香りは、深く澄んで、記憶の縁を優しく叩くようだった。気をつけないと、人の繊細な部分を暴いてしまう。
「ミレイユ、無茶をするなよ」
ライナスがそっと言った。彼は外で見張りをしていて、やっと座って私の傍へ来た。彼の顔には疲労があるが、目は温かかった。
「私は、守る。香りも、人も、土地も」
私は小瓶を握りしめ、静かに誓う。だが心の片隅で、王都の男の言葉が嫌な残響を残していた――「前世の記憶」「採取地の調査」。誰かがこの地を金属のように扱えば、ここは壊れる。
翌朝、アンナが私たちに話を持ってきた。村のはずれで、見慣れない足跡が見つかったという。
「足跡は、馬と鉄蹄の混じったものだ。王都の偵察か、他の採取業者かもしれん。気をつけろ」
その知らせは、私の胸に鋭い緊張を呼んだ。外の世界は、私の知らぬ速度で動いている。香りは優しく人を癒す力だが、守るためには時に強さが必要だ。
馬の跡を辿り、私たちは小さな丘へ向かった。そこで見つけたのは、王都の紋章をあしらった小さな旗と、誰かが残した古い箱だった。箱の中には、地図とともに、遠方の商人の名が記されている。
「商人か……」ライナスが低くつぶやく。商人は情報と資本を運ぶ。彼らが動けば、資源は市場へと流れ、村の生活は変わる。
私は地図を手に取り、ゆっくりと息を吐いた。
(ここを守るためには、もっと広い視野が必要だ。王都と村の間で橋を架ける方法を――)
その時、風が強く吹き、ベルノート草の葉がざわめいた。葉の間から、かすかな声が聞こえたような気がして、私は耳を澄ます。
「――守りを選ぶなら、まずは心を整えよ」
それは、草の囁きか、私の思い込みか。だが確かなのは、私がここで何かを始めなければならないということ。
私は小瓶を握り、ライナスの目を真っ直ぐ見つめた。
「行こう。まずは村をまとめて、採取の規則を作る。王都には、私のやり方を示して交渉する。そして、必要ならこの土地を守るために立ち上がる」
彼は表情を引き締め、うなずいた。
「共に行こう。君の香りを、守るためなら」
草の香りが夜空に溶け、星々が遠く瞬いた。私は深く息を吸い込み、ラベンダーの小瓶を胸に当てた。香りは、これからの戦いの中で、人の記憶と土地の声を繋ぐ糸になるはずだ――そう信じて。




