第6話 「香りは記憶を紡ぎ、影は深まる」
王宮での滞在が三日目を数えた。
私――ミレイユ・アルシェは、朝から王宮の医療部屋で香気の試験を続けていた。王都の医師たちは、初めは疑念の眼差しを向けていたが、実際に効能を確かめると次第に静かな興味へと変わっていった。香りは未知の“治癒”として受け入れられつつある。
「ここでは、原料の管理が重要だ。辺境だけで採れる草も多い。安定供給がなければ、王都は手放さないだろう」
セルジュ内務官の言は冷たく、だが的確だった。私もそれをわかっている。
ライナスは私の傍らにいて、いつもと同じように淡々と、しかし確実に私を守る目をしていた。彼の存在があるから、私は少し落ち着ける。
その日、王宮では特別な来訪者があった。摂政の側近と名乗る女――リーゼット伯爵夫人。黒いドレスに白いレースを合わせた立ち姿は、威厳と余裕が混ざっていた。彼女の来意は明白だった。
「君の香りは、私も一度嗅ぎたかったのよ、ミレイユさん」
彼女は微笑みながら、私に近づいた。掌の中には小さな香袋があった。
私は用心深く、だが礼を尽くして挨拶する。リーゼットは香りを一口嗅ぎ、眉をわずかに寄せた。顔には何か複雑な色が浮かぶ。
「これは……異国の香りね。だが貴女の香りは、それとは違う。心の奥に眠るものを引き出すわ」
その言葉に、私の背筋が少しこわばる。リーゼットは手を伸ばし、私の目をじっと覗き込むように見た。
「よければ、今夜、歓談の場で一度――個人的にお目にかかりたいのだけれど」
その誘いは、温かさと同時に重さを含んでいた。
夜になり、王宮の晩餐会が開かれる。
豪奢なシャンデリアの下、客人たちが集うなか、私は呼ばれるままにリーゼットの席へと導かれた。ライナスはすぐそばに控えている。彼の指先がいつもより少し力を入れて私の袖を握っていた。
「ミレイユさん、あなたが作る香りならば、ぜひ人の“古い傷”も癒したいわ」
リーゼットはそう言って、私の手に白い布を広げた。そこには薄い布に包まれた小さな箱が載っていた。
「これは、私の娘のためのものです」
言葉に一瞬の震えが混じった。テーブルの周りが静かになる。
伯爵夫人の瞳には、確かに“親の痛み”があった。私は息を飲んだ。王都の華やかさの裏にある、個々の悲しみ。それが、私がここにいる理由でもある。
「見せてください」
箱を開くと、中には薄い金属の髪飾りが収まっていた。小さな薔薇が刻まれていて、どこか古びている。リーゼットの娘――と聞くと、すぐに事情を察した。髪飾りは、娘を失った記憶の象徴なのだろうか。
「彼女は、事故で記憶の一部を失いました。楽しかった時間や父親の顔を忘れてしまったのです。薬でも摂り戻せない。だが、香りが記憶の扉を開くことがあると聞きました。あなたに頼りたい」
胸がきゅうと締めつけられる。私の魔力は香りと共鳴し、人の感情や記憶に触れることがある。慎重に調合しなければいけない。記憶は繊細で、無理に触れると人は壊れることもある。
「分かりました。私は無理に過去を押し付けるつもりはありません。彼女自身が戻りたいと願う部分だけを、そっと呼び覚ます手伝いをします」
私の言葉に、リーゼットの目がうるんだ。
翌日、私は王宮の静かな一室で、リーゼットの娘――アイリスと対面した。まだ十代の少女で、瞳はどこか遠くを見ている。彼女の手は小刻みに震え、髪にはあの髪飾りがそっと光を宿していた。
「こんにちは、アイリスさん。私はミレイユ。少しだけ、あなたのことを一緒に探させてね」
私は柔らかく笑い、香りを小瓶から滴らせた。ベースはローズとカモミール、小さなアクセントに柑橘を混ぜる。優しさと温度、そして「あの日」の午後を思い出させるような空気を作るためだ。
アイリスの顔がふっと和らぐ。
香りが彼女の鼻腔をくすぐると、目に小さな光が射した。
「これは……昔、庭に咲いていた花の匂いに似てる」
その一言で、部屋の空気が変わった。少女の瞳が一つずつ記憶を拾っていく。父と過ごした日々、古い木の下で笑った午後、夕暮れに食べた果物の甘さ――断片が戻るたびに、彼女の口元に小さな微笑みが芽生える。
リーゼットは泣きながら肩を震わせた。私もまた、胸の奥が熱くなる。香りは、人が忘れたものをやさしく繋ぎ戻すことがあるのだ。
だが、その夜――静かに忍び寄る影があった。王宮の回廊で、誰かが私の名を囁くように呼んだ。
「――ミレイユ様、少しよろしいかしら」
振り返ると、そこにはセルジュ内務官とは別の人物がいた。若い貴族風の男で、瞳に好奇と計算が混ざっている。彼は名乗ることなく、軽く一礼をした。
「先日のデモンストレーション、大変興味深く拝見しました。だが、一つ気になったことがあります。――貴女の力、前世の記憶に依存しているのではないか、と」
言葉は無邪気だが、含みは深い。私は僅かに眉を上げた。前世の話は公にはしていない。ライナスがすっと私の手を覆い、目で「黙って」と合図する。
「そういう見方もあります。だが、たとえ前世の知識が一因だとしても、今ここで人を救っていることは事実です」
私の声は静かだが、揺るがないつもりだった。
男は嗤うような笑みを浮かべる。
「なるほど。だが“前世”という言葉は、王都では危険な香りを放つ。何もかも王の管理下に置かれたくなければ、慎重に扱った方がいい。……それと、資源の話だ。君が使う“ベルノート草”の採取地を我々は調べている。辺境の独占が問題になれば、思わぬ波が来るだろう」
彼はそう言い残すと、夜の闇に溶けるように去って行った。残されたのは、冷たい空気と不安な予感だけ。
(――香りは人を繋ぐ。だが、人の欲望もまた、香りに惹かれる)
私は小さく息を吐き、窓の外に広がる王都の灯りを見つめた。ライナスがそっと私の肩に寄り添う。
「誰かを守るために、私たちも動かなければならないね」
彼の言葉は、静かな決意だった。
私たちの前に開かれた道は、美しいものと危ういものが混ざっている。香りが記憶を紡ぎ、人の心を繋ぎ直す力であるならば、その力を守るのも、使い方を見守るのも、私の責務だろう。
夜風にラベンダーの小瓶が揺れる。暗がりの中で、その香りだけが確かな約束のように広がった。




